鋪段 凪の中
「暇だなぁ」
船出して一週間、ようやく様々な仕事を身に付けたエディ。ただ飯食らいにはなるまいと意気込んでいたところだったのだが、折り悪く『たちかぜ号』は凪の中に突っ込んでしまったのだ。エディは船縁に身を預けながらため息をつく。
「まあ、船乗りは海が相手の仕事だからね。こういう日もあるさ」
どこから持ってきたのか、チーズを口に運びながら隣にあぐらをかいているファリアが気楽な様子で口にする。横目でエディの不満の色がありありと浮かぶ表情を見て、それから再びチーズを口に含む。
「前向きに考えようぜ、前向きに。今日は文句なしのお休みさ」
エディは口を尖らせると、艦橋の近くに視線を持っていく。すると、普段ならば考えられないような光景が目に映った。呆れた調子でエディは呟く。
「本当だ。メールさんまで昼寝してるよ」
いつだかに『航海士は船の心臓』という持論を語ったメール。風がわずかで周りがだらけていた昨日にも、ヘレンとああだこうだと話し込みながらあちらこちらに動いていた。それが今日はどうだろう。甲板にロッキングチェアを持ち出し、帽子を顔に被せて昼寝をしているのだ。腕がぶら下がっているところだけを見たら、死人が椅子に腰かけていると思う人もいそうだとエディは思った。
「そう。姐さんは普段海流の流れもしっかり見据えて動いてるから、船べりでぼーっとしている事があってもあんな風に寝ることはまず無いね。適当にあたしらに指示を出すよ」
そこまで言うと、ファリアは急に空、水平線、海を順に指差しながら気の抜けた大声を上げた。
「雲は無し! 軍船無し! 風も海流も無し!」
さらに続けようとしたファリアの言葉を遮って、エディが今度は大声を上げた。
「よって俺達仕事無し!」
ファリアは一瞬戸惑ったようだったが、抑えたような笑い声を上げ始め、やがて大笑いし始めた。
「ははははっ! わかってるじゃないか。そうそう。柔軟で、自然にしてるのが一番さ」
エディもつられて笑っていると、向かい側の甲板でカード(トランプ)をしている四人の船乗りのうち、金髪を海風に流した男がファリアに向かって手を振った。
「おぉい。ファリアもポーカーしないか? 」
「いいや。あたしは止めとく。今日はちょっと負けそうな気がするんだ」
ファリアが右手を振りながらしれっと言ってみせると。男は途端に残念そうな顔をした。口を尖らせながら持っていたカードを振り上げる。ファリアが鋭い視線で五枚のカードに目を走らせたのには気がつかない。
「ちぇっ。今日の調子なら勝てそうだったんだけどなぁ。一杯食わしてやりたかったぜ」
右隣の坊主頭の男が笑う。
「女王は勝負所をわかってんだ。負かすなら真っ向勝負しかねえんだろうよ」
ファリアは頷き、からからと笑いながら金髪の男を指差した。
「そいつ、ストレートだぞ」
金髪の男は慌てて人差し指を口に当て、ファリアを制しようとする。しかし、通りの良い彼女の声だ。たった一回口走っただけでも、誰一人聞き漏らさなかった。坊主男はいよいよ声を上げて笑い始める。彼の手の内はスリーカード。勝負しようと思っていたが、彼女の言葉に助けられた。
「おっと。そいつはいけねぇ。降りる」
「俺も」
「おいらも」
金髪の男は唖然とした表情で目の前の三人を見比べた後、顔を思い切りしかめ、カードを放り投げてファリアに指を差し向けた。
「おい! お前のせいでみんな降りちまったじゃねぇか!」
「見せちゃう方が悪いだろ。 それに、調子がいいなら一回ぐらい流れたところで問題無いって」
「くぅう……ファリアめ」
男の非難など意にも介さぬといった様子で、ファリアはチーズをかじりながら悪気たっぷりの笑みを浮かべている。男は目を背けた。彼女の瞳を見ていると、運気を吸い込まれそうで仕方がないのだ。彼は舌打ちをすると、そのままテーブルに向き直った。
「いい! 次だ次! 運があるうちに勝ち逃げだ!」
エディはそのやり取りを、一切言葉を発さずに眺めていたが、男が再びカードをシャッフルし始めたのを見てファリアに尋ねた。
「何を賭けてるの?」
「ウチは家族みたいなもんだからな。大したものは賭けないよ。例えば食事の時に配られるビスケットとかさ。まあでも、夕食の時に芸をするとかを賭けたりもするな」
「へぇ」
エディが夕食の時の芸とは何だろうと適当な想像を膨らませていると、出し抜けにファリアが尋ねた。
「お前、神様を探してるんだって? どうしてだい」
エディは頭を掻きながらヘレンの方を見た。ロッキングチェアの隣に小さな椅子を置き、メールがまとめた手帳を興味津々に読み進めていた。エディは時折、彼女は本当に変わったと思うことがある。旅に出てすぐの頃は、絶対にヘレンは自分のそばを離れようとはしなかったのだ。そんな彼女が、ルセアの薬を求めてローマの街を突き進み、シレーヌに嫉妬して部屋に閉じこもり、今はずっとメールの隣で動き回っている。彼女が自分の殻を破りつつあるのだから嬉しい話のはずだが、エディはどこか手放しで喜べないような気がしてならなかった。
「おい。聞いてんの?」
ぼんやりとしているエディの肩を、ファリアが訝しげな表情で小突いた。振り向いた彼は気の抜けた瞳をしていた。その理由を寂しさだと勝手に決めつけると、ファリアはにやにやしながらエディの額を指で押す。
「そうか。大好きなヘレンのためか。いい気なもんだな」
ファリアの言葉に、エディは一瞬何の話をしているのだかもわからなくなりかけてしまった。ようやく言葉が呑み込めていくにつれ、エディは熱が全身に伝わっていくのを感じていた。そうして耳まで真っ赤にしたエディはファリアが口に運ぼうとしていたチーズを奪い、それを全部間抜けに空いたファリアの口に押し込んだ。
「違う!」
元から顔の小さいファリアにとって、押し込まれたチーズの欠片は少し大きすぎたらしい。そのせいでエディが目論んだ通りチーズを噛むだけで何も言えなくなっていた。エディは立ち上がり、眉間にしわを寄せ不機嫌そうにしているファリアを見下ろした。
「別に、ヘレンと俺の間には何も無いよ」
胸元を叩きながらチーズを何とか呑み込んだファリアも立ち上がり、船縁に寄りかかる。
「じゃあ、何だっていうのさ。そんな大層な事、中々言えないぞ」
エディは溜め息をつき、広い海原に目を移した。大層な事といえば、確かにその通りだ。一年旅をして、ようやく三分の一ほどの行程だ。普通に暮らしていれば、まずこんな旅をしようとは思わなかったに違いない。だがしかし、エディ達は普通ではなかったのだ。
「俺達、親がいなくってさ。すごく落ち込んだヘレンが神様なんていないって言い出したから、それじゃ探してみようかって俺が言ったんだ。なんだかヘレンがその場で消えてしまいそうな感じでさ。気付いた時にはそんな事を言ってた」
「なんだ。やっぱりヘレンのためなんじゃないか」
ファリアはエディの食い違いを鼻で笑いながら、自分の祖母の話を思い出していた。ファリアはキリスト教をおおむね信じていたが、ある一点では違った。父や祖父の漁を彼女と一緒に待っていた祖母は、いつもファリアに『海神様に感謝しなさい』と彼女に教えていたのだ。祈りを捧げれば、海神様は海に出る自分達を守ってくれるのだと。そして、水のあるところには必ず海神様が遣わした精霊が宿っているから、絶対に無駄遣いをしてはいけないと。幼いファリアはすぐに消えちゃう水たまりにもいるの、と笑いながら尋ねたが、祖母は大真面目に頷いたのだ。たとえ水たまりでも、決して無下に扱うなと言って。
「あたしはおばあちゃんが言った海神様を信じてるんだ。父なる神だか何だか知らないけど、どこにいるんだかわからない頼りない神様なんかよりずっと信じられるから。でもって、あたしはおばあちゃんやおじいちゃん、父さんや母さんが大好きだった海の上で絶対働きたい! って思ったんだ」
「そっか。そういう考え方もあるよね」
エディが納得したように頷くと、それにしても、と前置いてファリアが口を開いた。
「お前、運いいな」
「いきなり何だよ」
「だってさ、ここまで旅してきて、大した怪我をしてないんだろ?」
エディはうつむいた。ファリアの言う通りだった。怪我もそうだが、盗賊やら何やら、悪人という悪人に今まであった事が無いというのは幸運という他ない。だが、エディはいつまでもその幸運にあずかり続けるつもりは無かった。自分は男だ。いつまでもひ弱なままではいられないと、レイリーに出会った夜から実感し続けている事だ。
「いつまでも運がいいわけない。きっと後になってつけが回ってくる。……だから、これでも鍛えてるんだよ」
ファリアは横目でエディの真剣な表情を見つめる。初対面こそ細いと馬鹿にしたが、腕を掴んだ瞬間にただ細いわけじゃない事を知った。今まで丸太のように太い腕ばかり見ていたせいで余計に華奢に見えたエディだが、その腕は引き締まっており、無駄がなかった。船の上でも仕事ぶりを見ていたが、こんな細い奴のどこにこんな力が、とファリアは何度も言いかけていた。
「そうか。それで他の奴等とも大して変わらない仕事ぶりなんだな。鍛えてる? なら私がちょっと手伝ってやろうか?」
エディは胡散臭そうな表情だ。女に戦いを教わるなんて、とでも言いたげな色がありありと見て取れる。ファリアは溜め息をつくと、立ち上がって自分の胸元を右の親指で突いた。
「なんだ? これでも私は同世代では『ファリアは最強の妹』と恐れられてんだぞ!」
「妹?」
エディが首を傾げると、ファリアは頷いた。
「言っただろ。ウチは家族みたいなもんだって。当然私は妹、姐さんは姉さんさ。……バカにしたのは正直言って、悪いと思ってるからさ、な? お詫びのつもりだよ」
ファリアの屈託の無い笑みを見て、エディはついにわだかまりを捨てる(ファリアが妹の立場ということのわだかまりは到底捨てられる気がしなかったが)事に決めた。今更強くなりたいのに四の五の言ってはいられない。力を振るわずに済むなら越した事は無い。しかし、持たないでいるのは余りに危険だ。エディも勢い良く立ち上がった。
「わかった。よろしく頼むよ」
初対面は敵意をむき出しにしていたエディが、今日になって随分ファリアと仲良くなったようだ。手帳を片手に、ヘレンはそんな二人の様子を眺めてそんな事を思った。その時、隣で枕を落としたような軽い音がした。見れば、メールが陽を遮るのにかぶっていたトリコーンハットが下に落ちていた。やはり眩しくて仕方がなくなったらしく、メールは顔をしかめながら起き上がった。
「あぁあ。気持ちよく寝てたのに」
伸びをしているメールにヘレンは帽子を手渡した。お礼を言いながら受け取ったメールは、いつものように斜にかぶる。そうして初めに目についたのは、何やら宙に向かって蹴りを繰り出しているファリアとエディだった。足元に視線を移すと、その様子をいかにも不思議そうな目つきでヘレンが見つめていた。
「何だか面白い事を始めたようね」
「エディったら。ファリアに喧嘩でも習ってるんでしょうか。ファリアって、本当にお転婆ですよね」
メールはヘレンの困ったような声色を聞いて、メールはくすくす笑い始めた。今となってみれば、昔の自分の姿が不思議で仕方がない。
「あれは可愛いもんだわ。私なんか、もっとひどかった」
ヘレンはメールの表情を窺った。とても懐かしそうな表情で喧嘩の稽古をしているエディの姿を眺めている。ヘレンは不思議だった。シオンが言っていたのだから間違いないのだろうが、こんなにおっとりとした大人物が昔は男と張り合って大暴れしていたという事実がいまだに信じられないのだ。
「メールさん。昔と今でどうしてそんなに変わったんですか?」
「シオンが少しお話ししたのよね? どれくらい?」
メールはどうやら“気が向いた”らしい。少し身を起こしてヘレンにその優しい眼差しを向けた。
「メールさんが膝を壊して、シオンさんと出会って、また航海士として戻ってきたという話を聞きました」
「結構ざっくり話したのねえ。じゃあ、私が船を追い出されたところから話しましょうかねぇ」
そう言った頃には既に、彼女の頭の中には当時の光景がありありと甦っていた。
「そう。あの夜は雨が降ってた。すごく強い雨が……」