承段 船出の朝
ダルニアスの言った一週間はあっという間に過ぎ去り、もう出発の前夜となってしまった。しかし、シレーヌは一番窓際のベッドの中で、中々寝付くことが出来ない。“とある事”を言い出そうとするが、すんでのところでやはり踏ん切りがつかないのだ。しかし、隣で横になっていたメールはとっくに娘のそんな様子に気がついていた。
「どうしたの? シレーヌ。さっきから寝返りばっかり。全然眠れてないじゃない」
曖昧な返事をすると、仰向けになったシレーヌは布団の端を掴んで布団を首元まで引き寄せる。果たしてこの事を話したら、母はどういった反応を返してくれるのだろう。認めてくれるのか、止めようとするのか。だが、ぐずぐず考えるだけでは前に進めない。心に決めたシレーヌは、自分自身に言い聞かせるかのように話し始めた。
「ねえお母さん。私ね、十八になったらあの二人と落ち合って旅がしたいんだ」
「あの二人と、旅?」
「そう。お母さんやエディ達を見てたら、私もこの目で色んな世界を見てみたい、色んな人に会ってみたいと思うようになったの」
メールは小さく唸って腕組みした。自分の娘が旅に出たいと言うなんて。いや、もしかしたら薄々そう言い出すことは自分でも予想していたことだったかもしれない。
「私の子だもんね。仕方ないって言ったら仕方ないのかな。でも、どうして今すぐじゃないの?」
シレーヌだって今すぐついていきたいのは山々だ。だが、エディが許してくれないのだからどうしようもない。
「大人になるまでは親に心配かけるな、っていうような事を言われちゃった。でも、なるほどなぁ、なんて納得させられたの」
メールは深く頷いた。今すぐ行きたい、などと言われたらメールは諦めさせるつもりだった。自分も心配になるが、シオンに至っては仕事も手につかなくなりそうだ。だが、大人になったらもう口出しは出来ないだろう。
「うん。そこまで考えられる子なら、任せても大丈夫かな」
「え? それって……」
シレーヌの独り言のような言葉を聞き、メールは頷いた。 同時に、隣で寝息を立てている愛する恩人に目を向ける。シオンはきっと、いくつになっても娘の旅には心中穏やかではいられないだろう。だが、旅するしないにかかわらず、子どもはいつか独り立ちしなければいけないものだ。一番縁遠いと思っていた自分でさえ結婚し、シレーヌを産んでいる。そんなものだ。いつか子供は自分達のところから飛び立って行くしかない。ベッドの中で、メールは小さな笑みを浮かべた。
「いいよ。エドワード君達と場所を約束して、大人になったら会いに行っても。その代わり、お母さんはいつも半端な事は嫌いだって言ってるでしょ?」
「うん」
「だから、しっかりとその目にたくさんの景色や、人々の姿を焼きつけて、とびっきりの思い出話を引っ提げて帰って来なさい。いいわね?」
「ありがとう! お母さん!」
シレーヌは眩しい笑顔で頷いた。メールには、それが一足早い日の出のようだった。
埠頭の上に立ち、エディとヘレンは目を瞬かせて目の前の巨大な船を見つめていた。四本のマストが甲板から伸び、船縁には細やかな彫刻が施されている。並みの家など比に及ばず、五十人くらいは楽に乗り込めそうな大きさがある。その側面には砲列が一列備え付けられていた。海賊に備えたものなのだろう。エディは間抜けに口を半分開けたままで呟いた。
「こんなでっかい船に俺達乗るんだ」
ダルニアスが港の方から堂々と胸を張って歩いて来た。船乗りから一身出世してみせたこの男は、その象徴であるこのガレオン船『たちかぜ号』を何よりも誇りにしていた。旅人二人が目を丸くして自分の船に見とれているのを見たら、やはりダルニアスは気分が良くなる。
「やあやあ二人とも、元気そうで何より。船酔いの方は心配ないかな?」
「ええ。それにしても立派な船ですね」
エディの言葉に、ダルニアスはわかりやすく大笑いした。
「ハッハッハ。そうだろう、そうだろう。中もすごいから、準備が出来たら乗り込んでこい!」
親指を立てて自分を指差し格好をつけたダルニアスは、先ほどよりもさらに胸を張り、鼻歌混じえて船に乗り込んでいった。その様子を呆気に取られながら見つめていると、今度は以前のようにトリコーンハットを斜に構えたメールが悠然とこちらに歩いてきた。
「あら。船長さんと何を話してたの?」
ヘレンは返事代わりに頷きながら答えた。
「あの船長さん、この船が自慢なんですね」
「そりゃそうでしょうとも。ドゥブロブニクに停泊する船の中では最大級だもの」
言いながらメールは船を見上げ、昔を懐かしむかのような、あるいは今の誇りを実感しているかのような表情で呟いた。
「昔なら、こんなの絶対認めない! って言ってたんだろうけどねぇ」
「どうしてですか?」
ヘレンが尋ねると、メールはその笑みを意味深なものに変えてヘレンの頭をくしゃくしゃとなでた。
「気が向いたら教えてあげるわ」
それだけ言って立ち去ろうとしたメールだが、急に港側から鋭い声が飛んで来て立ち止まる。
「姐さん!」
メールが振り向くと、そこに立っていたのはバンダナ、麻のシャツ、黒染めのズボンという海の男の服装を立派に着こなした女性だった。歳はエディ達より少し上に見え、つり上がった目や薄い唇からは、勝気な印象が強く表れている。メールがしっかり足を止めたのを見て取ると、彼女は急いで駆け寄ってきた。
「姐さん、これが今日乗るお客さん?」
無作法に二人を見回しながら、船乗りは尋ねる。メールは頷くと、手短に紹介する。
「そう。男子の方がエドワード、女子の方がヘレンよ。エドワード、ヘレン、この子はファリア。女の子だけど、その分小回りが利くうちの大事な船乗りよ」
「姐さん、そんな……うーん。それにしても……」
一瞬照れたような表情を浮かべた後、今度は胡散臭そうにエディを隅々まで見回す。最初は戸惑ったように目を丸くしていたエディだが、段々とその目は薄くなり、不機嫌そうな表情が表へ表へと出始める。
「何してるんだい?」
顔を離したファリアは、いきなり鼻で笑い始めた。
「あんた、ほっそい。そんなんでよく旅を続けてるねぇ」
ファリアはエディの片腕を持ち上げると、適当に振り回す。一瞬体勢を崩してよろけたエディだったが、すぐに体勢を立て直して一歩踏み出す。
「いきなり何するんだよ! それに、体格なんて関係ないじゃないか!」
ファリアはエディの額を指で弾いた。疼くような痛みを覚え、エディは額を押さえながら顔をしかめる。にやりと笑ってみせたファリアは、そのまま首を左右に傾け伸ばしながら船に乗り込んで行ってしまった。当然エディは不機嫌そうな顔色を崩す事無く、その動作を見えなくなるまで追っていた。
「何なんだ、あれ。歳にだってちょっとぐらいしか差は無いだろうに」
メールは溜め息をついた。
「まあ、あんまり気にしないであげて。あれはあれで仕方ないから。ああ、私も船に乗ってるわ。シレーヌに話があるみたいだから、二人はここで待っててあげてね」
二人が相槌を打つと、メールは手を振りながら足早にタラップを上っていってしまった。その姿を見つめ、ヘレンははたと思い出した。メールは昔、一介の船乗りとして働いていた過去があり、男達に対して強烈な闘争心を抱いていたという話を。先程の呟きもそれに関係があるのだろうか。そんな事を取り留めもなく考えていると、エディがようやく表情を和らげて手を振り始めた。
「シレーヌ!」
シレーヌは走っていたらしく、肩で息をし、浮いたような足取りでエディ達のところまで歩いて来た。
「大丈夫? すごく疲れてるみたいだけど」
エディの言葉にシレーヌは曖昧に頷くと、腰あたりのポケットから一枚の手紙を取り出した。エディは突き出されるままにその手紙を受け取る。汗を拭き、シレーヌはにっこり笑ってみせる。
「もうあんまり時間が無さそうだから、出発してからこれを読んで。いつか会う場所、時間。書いておいたから」
「ありがとう」
エディは一度その手紙を目線まで持ち上げて見つめると、丁寧にポケットの中へと収めた。そして、エディは再びシレーヌと向き合う。見た目こそは、シオンの血により目元が大人しめとなった彼女。だがその心中には、母の血から受け継いだ冒険への渇望が宿っている。いつか彼女とする冒険は、きっと満ち足りたものになるだろう。
「ありがとう。十日間、とても楽しかったよ。君に会えて本当によかった」
シレーヌは寂しそうな表情を隠そうともせず頷いた。
「四年の辛抱ね。私、今から楽しそうな想像ばっかりで胸がはち切れそう」
ヘレンはシレーヌに真っ直ぐ向き合うと、ゆっくりとブローチを外した。シレーヌも静かに首からネックレスを外す。海の青を受けてサファイアが深い蒼色の光を帯び、空の青を受けてターコイズは白く輝いた。
「色々あったけど、これからも友達だよね」
「ええ。もちろん」
にっこりと笑いあった二人は、友情の証をぶつけ合った。
朝の海に、ドラの音が響きわたる。タラップが畳まれ、帆が一気に広げられた。吹き始めた小さな風を受け、『たちかぜ号』はゆっくりと海を進み始める。
「さようなら! また会える日までね!」
声を限りに叫びながら、シレーヌは港の端から船の上のエディ達に白いハンカチを振る。エディ達も甲板から身を乗り出さんばかりにして手を大きく振る。
「ああ! きっとだよ!」
「元気でいてね!」
三人は顔を期待に輝かせながら、ずっと手を振り続けた。港を完全に離れ、大きな風を受けて船が走り出す。町の景色が見る間に小さくなっていく。建物の境が曖昧になり、シレーヌの白い服装も景色の一つに同化した。エディ達は静かに腕を下ろし、その場にしゃがみこむとシレーヌの手紙の中身を早速確かめる事にした。
「ええと、ドーバー港で四年後の今日に会いましょう。今からもう楽しみにしてこの四年を過ごすことになるでしょう……四年後の今日か……」
今は一六二三年、五月五日だ。そう、ちょうどエディが十四歳になった誕生日なのだ。四年後の今、自分やヘレンは一体どうしているだろう。ふと、エディはヘレンの顔を見つめる。彼女は小さく微笑んでくれた。だが、エディには四年後の自分を想像する事がどうしても出来なかった。霧がかかったようで、先を見ようとする程に霧が濃くなってくる思いだ。溜め息をつくと、エディは微笑み返して再び視線を海へと移した。
「どうしたの?」
「あ。メールさん」
右手に羅針盤、左手には革表紙の本を持ってメールが現れた。その姿は、正しく航海士だった。一度挫折を味わいながらも、再び海に舞い戻って立派に成功を収めた女性。その姿に、ヘレンは微かな憧れを抱いていた。何やら心の奥に熱いものを感じると、エディよろしく勢いつけて立ち上がる。そして、メールに頭を下げた。
「何か手伝えることはありませんか? 私、メールさんのそばにいたら何かを学べそうな気がするんです」
メールは言葉を口の中で選ぶように、その口を軽くもごもご動かした。考え込んでいるようだが、その目は何処か嬉しそうだ。やがて頷くと、メールは左手の本を差し出した。
「忙しいわよ。起きている間は休む暇なんか殆ど無いわ。それでも大丈夫?」
「はい!」
「じゃあこっちにいらっしゃい」
ヘレンは声を弾ませて返事をし、艦橋に向かって颯爽と歩いて行くメールの背中を追っていった。その二人を見送ると、エディも伸びをして立ちあがった。生きているのは今だ。四年も未来の事が見えないからってくよくよしても仕方が無い。普段通りの考えに立ち帰ると、自分が今やるべき事も見えてきた。丁度良く、目の前をダルニアス船長が歩いて行く。エディは仕事を求めて船長の元へと駆けていった。
「ダルニアスさん!」
エディの威勢のよい声を聞き、ダルニアスは思わず立ち止まってエディの前向きな表情を窺った。
「ん? どうした」
ダルニアスが小首を傾げてみせると、エディはダルニアスの目をまっすぐ見つめて頼んでみる。
「ダルニアスさん、僕にも何か仕事をください」
「おいおい、お前達は客なんだ。ロードみたいに大人しく部屋で寝てたっていいんだぞ?」
船旅には役に立つはずもなく、ロードは家畜を運ぶための空間で大人しくしていた。あんまり船旅には快適な思いをしていないらしく、いつも立つか、たまには伏せているかのロードにしては珍しく、横倒れになって目を固くつぶっていた。その絵が一旦彼の頭をよぎるが、エディはすぐに首を振った。
「落ち着かないんですよ、何もしないのは。ヘレンだって、メールさんの手伝いをしてるんですから」
「ううん……そう言われてもなあ……」
仕事をやるとすれば甲板掃除くらいか。そんなことを考えながら辺りを見回すと、荷物を整理している数人が目に入ってきた。急いで積んだためにあまり美しくならなかったため、乗ってしまってから積み替えるよう言いつけてあったのだ。ダルニアスはエディの顔に目を落とす。
「じゃあ、あの荷物の積み直しを手伝ってくれるか? 中身は果物でも、かなり重たいぞ」
エディはレイリーがいつかしていた敬礼をしてみせる。
「了解しました!」
ダルニアスは覇気のあるエディの仕草を頼もしく思ったが、彼の性分として少しからかいたい気分がふつふつ沸き上がってきた。悪戯っぽく笑い、エディの横に張った肘を自らの方に引き寄せる。
「礼式をしっているとは偉いな……と言いたいところだが、少し惜しい。船の中は狭いからな。敬礼をするときも場所は節約するんだ。そんな風にな。わかったか?」
肘を前に突き出す形での敬礼をしたまま、エディは笑顔で頷いた。
「はい!」
礼を解くと、エディはすぐさま走り出し、荷物を一つ抱え始めた。甲板を磨きながら、ファリアはそれを見かける。そして驚いた。目下二十キロは下らない荷物を、多少は苦労しながらも何とか彼は持ち運んでいるのだ。見てくれからして、ファリアはそれさえ無理だと思っていただけに、驚きはひとしおだ。首を振り振り、彼女はこっそり呟いた。
「あいつのどこにあんな力が……」