起段 気ままな航海士
「ただいまぁ。って誰もいないの?」
ドアが開き、金髪の女性が姿を現した。フリルの付いた赤い外套が、背の高い彼女に良く似合う。頭には、この時代としては前衛派であるトリコーンハットがのっかっている。少し斜めに傾けて、粋な雰囲気を醸し出していた。そんな彼女は辺りを見回すが、シオンはちょうどエディ達と交代しに上へと向かっていたので、誰とも会えずにあえなく肩を落とす。仕方なく、上の階にいるのだろうと見当を付けて階段へと足を運ぼうとしたのだが、ちょうど燈火室から階段を真っ直ぐ駆け下りてきたシレーヌに抱きつかれた。
「お帰り! 早く帰って来れたんだね!」
女性――メールは力無く笑いつつ、シレーヌの事を引き剥がした。溜め息をつくなり、トリコーンハットを放って椅子に崩れ落ちる。その顔は少々やつれていた。普段ならば、シレーヌに血を分けただけはある男装の麗人といったところなのだが、今は目が腫れぼったくなって欠伸もしきりにしている辺り、どうやら寝不足のようだ。シレーヌが心配そうにうつむきがちな母の顔色を窺う。
「どうしたの?」
「うん。船長さんがねぇ、早く帰りたいって聞かなかったのよ。徹夜は一人でしてろだなんて言えないし。そうして帰って来てみなさい? 港の人達にわけもなく揉みくちゃにされて。くたっくた」
シレーヌは同情して頷く。祭りもたけなわの頃に、新築の港に辿り着いた船があったら、さらにはそれが一番人気のあるダルニアス隊だとしたら、街のみんなが競って迎えに来る事だろう。相当疲れが溜まっている所に手荒い歓迎を受ければ、それはくたくたにもなるはずだ。すっかり固くなってしまっている母の肩をほぐしながら、シレーヌは隅っこで大人しくしている二人を指で差した。
「今ね、旅人さんを泊めてるの」
メールはもったい付けて部屋を見回し、ベッドの上で膝を抱えているエディとヘレンを見つけた。彼らはシレーヌの後に続いて部屋に駆け下りてきたのだが、二人の再会を邪魔するまいと、なるべく目立たない位置に動いていたのだ。目をしょぼつかせながら、メールは何とか母親らしい優しげな笑顔を作る。
「あら。そんなに肩身を狭くしてないで、こっちにいらっしゃいな」
エディ達が立ち上がると、メールは空いている二つの椅子を、脱力した腕全体で指差す。おずおずと腰掛けたのを見届けると、メールは欠伸を噛み殺し、潤んだ目を拭きながら二人に話しかけた。
「名前は?」
「えっと、僕の名前はエドワードで、こっちはヘレンです」
「そう。この街は気に入ってくれたかしら」
「ええ。みんな楽しそうで、いい街だと思います」
メールは息を吐き出すと、穏やかな顔で海を見つめた。
「そう、ここは落ち着くのよねぇ。みんなのんびり暮らしてるから。港に入っただけで、『帰って来たんだな』って気分にぃ……」
最後まで言い切れず、メールは大口を開けて欠伸をした。もう噛み殺すのも諦めたらしい。テーブルに全体重を預けるようにして、メールは重い腰をぎこちなく持ち上げた。エディ達には関節の軋む音が聞こえてくる気がした。そのまま彼女は手近なものを伝いながらベッドに向かい、倒れ込んでしまった。
「ごめんなさい。少し寝かせて。一日半も不眠不休で働くの、三十路を越えると辛くて辛くて」
そのまま眠りに就こうとした母を見て、シレーヌは慌てた。
「ちょっと待ってよ。せめて自分のベッドだけで寝て。そんな風にみんなのを横切って……ってもう寝てるし」
そばまで寄ったシレーヌだが、既に母は安らかそうな寝顔を浮かべ、すやすやと寝息を立てていた。シレーヌは溜め息をついたが、ここまで母が幸せそうだと何も言う事が出来ない。首を振り振り、シレーヌはエディ達に向き直った。
「今日、一緒に寝させて。これを動かすなんて私には出来ないもの」
エディ達も頷くしかなかった。
翌朝になっても、メールは起きようとする気配を見せない。一日硬い床で寝る羽目にあったシレーヌは、(仕方ないとはいえエディ達に三日間そんな目に遭わせていた事も忘れて)そのやりきれない気分を母にぶつける。
「起きてよお母さん! いつまで寝てるの?」
一昨日の朝六時から昨夜の夜八時半まで、四十時間以上も寝ずにいたのだからたったの八時間では寝足りない。メールは必死に手近な枕を取り上げて投げつける。
「今日は出港予定なんてないんだからぁ。ゆっくり寝させてよぉ」
シレーヌは仏頂面で受け止めると投げ返した。ついでにはたきを母の前で振り回す。
「だめっ! 非番だからってぐうたらな生活はさせないんだから!」
「やめてよぉ……」
メールは消え入るような声で懇願する。シレーヌは一瞬母に同情しかけたが、その気持ちには蓋をして、心を鬼にし向き合った。
「だめだって! エディ達がお母さんにお話しがあるんだってば!」
布団から頑固に離れようとしない母を引っ張りながらシレーヌは語調をさらに強める。見ていて不憫になったエディは遠慮がちにシレーヌに向かって手を振る。
「いいよ。そこまでしなくたって」
「ううん。遠慮しないで。ほらっ、お母さん!」
「ううぅ……」
エディは息をつくと、着替え終わって降りてきたヘレンに向かって笑いかける。一体どうして、目を愉しく光らせていながら口元は引きつっているのか気になったヘレンだが、ベッドで起きているやり取りを見るとすぐに理解できた。櫛で髪の毛をとかしつつ、ヘレンも暖かい視線を苦笑いで送ってその光景を見つめる。
「同じ家族でも、カーフェイさん達とは大違いね……」
エディも頷く。カーフェイ達の家庭は、常にのんびり、のほほんとした雰囲気が漂っていた。小説家という生業上、あまり時間に束縛される事もないのだろう。一方のシレーヌ達は、はきはき、軽快な雰囲気だ。常に心を弾ませて生きているような雰囲気がある。一見落ち着いているように見えるシオンもそうだ。ベッドの修羅場も気にせず朝食の準備をしている辺りは何処か超人然とさえしているが、口元に笑みがこぼれている辺りわざと放って楽しんでいるようにも見える。
「どっちにしたって温かい雰囲気なのは変わらないな。楽しそう」
シオンが拳骨ほどの大きさの黒パンを積んだバスケットをテーブルの中心に置くと、ようやくシオンは二人を引き剥がした。
「シレーヌ、あんまりしつこくしない。メールも、とりあえず朝ごはんを食べて」
まさに鶴の一声、シオンに全幅の信頼を置いている二人に反対という選択肢は無い。シレーヌははたきを置いて椅子に座り、メールも目を擦りながら起き上がり、寝ぼけて枕を抱きっ放しではあるがしっかり席についた。シオンはエディ達をベッドに座るよう勧める。
「本当は席を用意したいんだけど、あまり客を呼ぶような家じゃないのでね……」
「いえ。ありがとうございます」
「で、二人とも。話って、何?」
横目で二人がベッドに腰掛けたのを見ながら、メールは欠伸交じりに尋ねた。シレーヌからパンを載せたお盆を受け取りながらエディが答える。
「これからオスマン帝国に渡る予定なんですけど、陸路はどうにも危険な雰囲気なので、海を渡って行きたいんです」
パンにバターを塗りながらメールは二人を見つめる。海戦も最近頻発しているが、確かに大回りする海路を取ればそこまで危険性は無いだろうし、オスマン帝国にしても王家が頼んだ荷物を隣国に無事届けてからダルニアス隊の腕の確かさには一目置いているだろう。しっかりと旗をなびかせていれば攻撃される心配はないかもしれない。算段を付けたメールは、エディ達に確認した。
「なるほど。旅費が馬鹿にならないわね。話って、私達の船に乗せてほしいって事かしら」
パンを一口頬張りながらエディは頷く。
「はい。不躾ですけど、お願い出来るなら」
「わかったわ」
相好を崩し、エディはヘレンと顔を見合わせた。メールは両手で頬を叩くと、勢い良くパンを口に運び始めた。先程までぐだぐだとベッドにしがみついていた女性と同一人物とは思えない。
「そうと決まったら、早速船長さんのところに会いに行かないとね。オスマン帝国に運ぶ商品があるか確認して、一番優先にしてもらわないと」
エディは申し訳なさそうに首を振る。
「そんな。僕達のためにそこまでしなくてもいいのに」
メールは悪戯っぽく微笑んだ。その時ヘレンは、メールが昔、男の船乗りに真っ直ぐ突っかかっていく荒っぽい気性を持った少女だったというシオンの話を思い出してしまった。
「いいのいいの。私達をこき使ったんだから、たまには肝でも冷やしてもらわないと。じゃあ、食べ終わったらさっさと行きましょっか?」
エディ達は頷き、急いで朝食を終えようとする。が、シレーヌはその前にやる事があると母の服を指差した。
「ねえ、その服二日も着てるんでしょ? 着替えた方がいいよ」
メールは口をすぼめて来ている服の胸元をつまんで引っ張る。昔なら気にも留めなかったろうが、今ではきちんと女性らしく、慎ましく生活しようと心に決めていた。平時に何日も同じ服で生活するのは女性としてどうなのか。
「確かに……ごめん、エドワード君。着替え終わるまで少し待ってて」
二個目のパンの最後の一欠片を口に放ると、箪笥から着替えを適当に取り出し彼女は脱衣所の方へと姿を消した。その姿を見送ると、シレーヌは鼻を鳴らしてエディ達に向かって愚痴をこぼす。
「もう。お母さんってどこか抜けてるんだよね」
ヘレンは苦笑した。自分も冬の寒い日にどうしても起きられない時があり、こんなやり取りを繰り広げていた。母と娘の構図が逆だが、それでもはたから見れば微笑ましい気分になる場面の一つに違いない。文句の一つだって愛すればこそ出るのだろう。
「まあいいじゃん。完璧すぎるのも考え物だと思うなぁ」
言いながら、ヘレンは自分の母の事を思い出していた。地方貴族出身の母は少々家事が苦手な部分もあったが、それでもお手伝いさんと協力して広い家を掃除して回ったり、料理を一生懸命作ってくれた。今でも、母は自分の誇りだ。
……お母さん。私頑張ってるから、心配しないでね。
海を見つめて母に語りかけていると、背後のドアが開いて着替えを終えたメールが姿を現した。コートの中は白いシャツに黒ズボンという男らしい姿だった今までとは打って変わり、白いブラウスに海色のロングスカートと、すっかり女性らしくなっていた。
「さあ、食べ終わったなら行きましょ?」
「はい!」
「船長! メールさんが来たぜ!」
食事をする人々でごった返す食堂の中、入り口に一番近い席から屈強な体格をした船乗りがカウンター席に座っている男に呼びかける。夜は酒場の『外輪亭』だが、朝は腹を空かした家事の出来ない船乗り達の食事場と早変わりする。メールが乗り込む『たちかぜ号』の船長ダルニアスもこの食堂をひいきにしていた。なにせ妻がここを切り盛りしているのだ。
「メール! なんだってこんな所に朝から来たんだ? お前は朝飯作れるだろう?」
えらの張った髭もじゃの親父顔に不思議そうな色を浮かべ、ダルニアスは尋ねた。彼も海の上では緻密な装飾の施された青いコートを着て箔を付けているが、今は白いシャツとズボンだけ、かなり軽快な姿だ。メールは一応自分である証拠としてかぶってきたトリコーンハットを取りながら、エディ達を引き連れダルニアスのところまで歩いて行く。
「別に朝ごはんを食べに来たんじゃないわ。折り入って話があるから来たの」
「話? 何だそれは」
スクランブルエッグをすくうさじを休め、ダルニアスはさらに尋ねる。メールはダルニアスの右隣に腰掛けた。エディ達はさらに右に腰掛ける。
「オスマン帝国の方へ行く予定を優先して欲しくて」
ダルニアスはいよいよ奇妙なものを見るような表情をした。メールは目を瞬かせる。何か変な事でも言っただろうかと、あれでもないこれでもないとおぼろげな記憶を辿っているうちにダルニアスはさじをメールの首元に突きつけた。
「昨日話さなかったか? 次はオスマン帝国に向けて果実類を輸送するって」
メールはハッと口を押さえる。今になってようやく思い出した。停泊して港へ降り立つ前、確かにダルニアスはそう言っていた。ただ、眠たかったせいで今の今まで記憶の奥底に放り投げられていたのだ。その仕草を間抜けと受け取ったダルニアスは、水をあおりながら溜め息をついた。
「バカだな。丸くなっても、そういう所は変わらないか」
「うるさいわね。しっかり目覚めてたら憶えてたって。バカだとか言わないで」
むすっとした様子のメールを、食器を拭きながら眺めてダルニアスの妻が呟く。
「それにしても、敵に塩を送るなんてその商人も大したものね」
ダルニアスは残りのスクランブルエッグを直接皿に口つけ掻き込みながら反応した。
「商いに国のいさかいなんか関係無いんだろ」
メールも付け足す。
「嗜好品だから別に戦いの助けになるわけじゃないわ。問題ないでしょ」
「シコウヒン?」
ダルニアスがオウム返しに尋ねた。メールは得意気な顔をして見せる。カウンターに置かれていた柄杓を取り上げ、彼女はダルニアスを突き返す。彼は口をつぐんで仰け反った。
「趣味の世界の物って事。そんなんでよくバカにするのね」
「へぇへぇ。すんませんでした」
息をつくと、メールは立ち上がって本題に入ろうとする。エディ達も立たせると、ダルニアスに引き合わせた。
「で、本題はこの子達よ。ここまではるばる旅してきたんだって」
ダルニアスは二人の顔を食入るように見つめた。刺すような鋭い視線に緊張し、エディは思わず息を呑む。どれだけの間見つめられていたかわからなくなった頃、ようやくダルニアスは顔を二人から離す。その顔はどこかしら満足げだった。
「いい目だ。まだまだガキのくせに旅慣れてやがる。どこから来た。ん?」
「イングランドです」
何の気なしに言ったつもりだったが、これにはダルニアスやメールどころか、一番近くのテーブルにいた船乗り達まで驚いた。彼らは顔を突き合わせ、それから若い旅人二人の動静を窺う。
「あなーた、イングーランドー人?」
どこで覚えてきたのやら、ダルニアスが最早片言とさえ言えない英語で話しかけてきた。余りのセンスの無さに、エディは何をどう言っていいやらわからず黙り込んでしまう。仕方なく、ヘレンが手ぶりを交えてとりなした。
「あの……大丈夫ですよ。言葉わかりますから」
「随分きれいなイタリア語だな」と、ダルニアスの弁だ。
「何カ月もその語圏を旅してたらある程度話せるようになりますよ」
「そういうものなの?」メールが口を挟む。
エディは自信たっぷりに頷く。実際にはそんな努力一切していないが、話すとややこしくなる。
「そういうものですよ。ええ、そうです」
ダルニアスは水を再びがぶりとあおる。そうでもしなければ気持ちが収まらない。肺に溜まった空気を全て吐き出してしまうと、ダルニアスは再び二人に向き直った。
「まあそれはともかく、どうしてお前達は旅なんかしてるんだ? まだ若ェんだから、自分探しの旅にはまだ早いだろ」
自分探しの旅といえば、確かにそうなるのかもしれない。だが、今のエディ達はそれよりもっと大きなものを目指して旅をしているのだ。一呼吸置いて、エディは堂々と言ってのける。
「実は僕たち、神様を探して旅をしているんです」
耳を疑ったダルニアスは、鷹のように鋭い目を猫か何かのようにくりくりさせて二人の顔色を窺った。嘘をついている様子は無い。ダルニアスはいきなり笑いが込み上げて、抑えきれなくなった。
「神様を、探す? ふふ、ハハハハっ!」
エディは眉間にしわ寄せ、思わず立ち上がった。
「何なんですか! 僕達は本気なんですよ!」
「ああ、わかってるさ。すまねぇ」
ダルニアスは込み上げる笑いを何とか収める。エディが思ったように、バカにして笑ったわけでは決してない。それどころか、どう見積もっても十代半ばの彼らを尊敬しそうにまでなった。
「いい! やっぱりガキならガキでそういうばかでかい夢を持たないとな! 聞いてて清々しいもんだ。神様を探すなんて、最高に夢のある話じゃねぇか!」
ダルニアスは拳を握って立ち上がる。その身長は、軽く見積もっても七十インチ(一インチ…二、五センチ)はあった。エディの肩を力強く掴むと、歯を見せて笑って見せる。
「気に入った! この先どこに行くつもりだ? ああ、そうかオスマンだな! メールが優先しろって言ったのも、こいつらの為なんだろ!」
「そういう事」
メールは頷いた。再び向き合うと、ダルニアスは力強くエディの肩を数度叩いた。
「よし! 一週間後にここへ来い! 俺の『たちかぜ号』に乗せてやる!」