破段 リヴァイアサンの少女
エディが自分に目もくれず、目の前から立ち去ろうとしている。ヘレンは彼の事を追いかけようとしたが、どうしても足が硬直して動けない。名前を叫んでも、声が出ない。唇を噛みしめ、静かに涙を溢れさせていると、背を向けて歩いていくエディの隣に誰かが寄り添った。シレーヌだった。
「嫌ぁ!」
声が出た、と思った瞬間に目が覚めた。見渡すと、樽や丸太が積まれた茶色い空間。自分はその真ん中で枕と毛布を借りて眠っていたのだ。震えながら隣を見ると、エディは幸せそうに隣で寝息を立てている。
「夢だったの……」
今思えば、自分が動けない時点で現実じゃない事くらい気付けるはずだったのだ。だが、エディが自分を置いて行こうとする事も、代わりにシレーヌを連れていく事も、自分にとっては絶望的な衝撃を与えるのだろう。隣でエディは寝返りを打ち、背中を向ける。最近、エディの背格好が少したくましくなっていた。ヘレンは彼を抱き寄せる。心の中に不安が巣食うと、いつもこうしていた。初めて野宿した日や、イングランドを離れてフランスに入った日。エディは文句一つ言わず、引っ込み思案で臆病な自分の頭を撫でて励ましてくれた。だが、平和な今日にどうしてエディを抱きしめているのかは、ヘレン自身にもわからなかった。
日の出と共に、青空に空砲が響き渡る。お祭りが始まったのだ。港に大勢の人が集まり、何かを待っている。シレーヌに導かれ、人混みに混じってその“何か”を待っていると、急にトランペットの冴え渡る音色が響き渡り、港に泊まっていた一番大きな船から楽隊が姿を現した。橋を渡って埠頭に降りると、人混みを割るように楽隊は行進する。朝から最高潮の盛り上がりをみせる人々は、辺りを飛び跳ねたりしながら楽団の後を追いかけていく。祭りの合図だった。
南の広場では、大道芸人達が玉乗りにジャグリング、ダンスを披露している。おおよそ一ヤードはある赤い大玉を操り、自由自在に動き回るピエロ。周囲を省みないせいでダンスを披露する二人の美女に幾度となくぶつかりそうになるが、まるで計算の内であるかというように芸術的なかわし方をする。一方、ナイフを取り出した二人の男は、その玉乗りをするピエロに向かってなんと投げつけた。しかしピエロは玉の上で飛んだり跳ねたり、ナイフを器用にかわす。そして、玉を挟んだ二人は昨日のようにナイフのやり取りをし続ける。最後にやたらとくるくる体を回してピエロが着地すると、周囲が一気に爆発した。エディもそれに負けないほど盛り上がる。
「昨日よりもすごいね!」
エディは楽しげに声を弾ませ、ヘレンに話しかける。だが、当の本人は心ここにあらずといった様子で、目の前の光景さえも見えていたものか怪しい。唇を軽く噛みながら、エディはヘレンに気付かせようとする。
「ねぇ、大丈夫かい?」
肩をつつかれ、ようやくヘレンは間の抜けた声を発してエディと顔を合わせる。暇があると今日見た夢を考えてしまい、目の前が見えなくなってしまうのだ。それでも、彼女は何とか平静を装う。
「うん。平気」
どこか声が上ずっているヘレンにエディは首を傾げ通しだが、気を取り直して北の市場を指差した。
「ならいいんだけど。北の市場を見に行かない? 何か買い物しようよ」
「え。でもお金はどうするの? 無理は出来ないって言ってたじゃない」
「お祭りの日はどんなものもものすごく安くなるんだって。でしょ?」
エディが笑顔をシレーヌに向ける。シレーヌも会釈を返すと、北に向かって一歩踏み出し振り返った。
「ほら、行こ?」
「そうだね!」
人込みを器用に避けながら北の市場に向かって歩いて行くシレーヌを追いかけようと、エディは足を速めかける。しかし、右肩に不意な重みを感じて立ち止まる。見ると、ヘレンが自分の右腕を掴んでいた。前を見ると、既にシレーヌは姿を消してしまっていた。不機嫌そうにエディは振り返る。
「どうしたの? 急に引っ張るからシレーヌの事見失っちゃったじゃないか」
エディの文句には耳も貸さず、ヘレンはエディの右手を開かせると左手で握る。手を繋いで歩く格好になり、エディは戸惑って目を瞬かせてしまった。目の前のヘレンは思いつめたような表情をしている。伝わってくる感情は、エディにとって形容しがたいもので、エディのヘレンに対する感情はしぼんでしまった。
「どうしたんだよ」
「はぐれたくないの。行こうよ」
言い訳に聞こえたが、重箱の隅をつつくのが面倒になったエディは何も触れないでおく事にした。
「仕方ないなあ。……あんまり人前で手を繋ぐのも……ちょっとあれなんだけど」
エディが前を向いて歩きだすと、人混みの隙が狭いせいでヘレンはエディと肩をぶつける。人前で手を繋ぐのが苦手なのはヘレンも同じことだ。しかし、今日のヘレンには彼女自身にも押さえられない妙な力が働いていた。
「近過ぎだよ」
「しょうがないでしょ」
エディは空いた左手で鼻を掻き、熱っぽい頬に触れた。人混みの中を抜けようとするたびにヘレンの細い腕や肩と触れ合う。普段はむしろ避けようとするヘレンだが、今日は何故だか意識してぶつかっているようにさえ感じた。しかし、ヘレンが何を考えているかエディにはわからない。
「……なんだかなぁ」
ぼんやりしているうちに北の市場に辿り着いてしまった。シレーヌはその入り口で律儀に待ってくれていた。
「ごめん。遅くなっちゃって」
「別に気にする必要は無いわ。それより……」
シレーヌはエディ達の全体から指先足の先まで細かく見回す。妙な緊張感を覚えたエディは繋がりを解消しようと手を全開に広げたのだが、一向にヘレンは手を離そうとしない。観念してエディは深々と息を吐きだした。シレーヌは優しげな微笑みを浮かべる。
「仲がいいのね」
お互いの仲を褒められると素直に嬉しく、エディは頷いた。
「まあね。一年も二人で旅してるんだし」
「それー!」
「まってよぉ……」
立ち止まったエディ達の横を、吹流しのおもちゃを高々と掲げた男の子が駆け抜けていく。その後ろを必死に女の子が追いかける。見えなくなるまでその姿を見送っていたエディは、やがて静かに微笑んだ。
一方、エディの手を握り締めていたヘレンはうつむき通しだった。彼に近づいていればいるほど、何故か心の乱れがひどくなる。彼女はもう息苦しくて仕方がなかった。しかし、彼女が今まで引っ込み思案に陥っていたせいか、中々変化に気が付けないエディは、彼女を引っ張りとある店の前まで連れて行く。
「ねえヘレン。ヘレンはこれが欲しいんでしょ?」
エディが連れてきた店は、珊瑚の細工物が並べられているお店だった。昨日は垂涎の思いで眺めていた品物だが、今日はブレスレットも、ネックレスも、ブローチも、どれもこれも魅力的に映らない。ヘレンは溜め息をつき、静かに首を振る。
「いらないよ。欲しくなくなっちゃった」
「ええ? 昨日はあんなに欲しいなあ、欲しいなあって言ってたじゃない」
なぜか自分から目を反らしているヘレンの心が、エディにはよくわからない。戸惑っていると、シレーヌがいきなりエディの肩を叩いた。
「何?」
シレーヌが屈託なく笑うと、彼女の胸元に留まったブローチが微かに光る。銀(実際にはメッキだが)で出来た正十字の土台にサファイアがあしらわれている。真ん中に一つ、十字に沿う形で、真ん中のそれより一回り大きいものが四つ並べられていた。空いた隙間には、真砂のように小さく丸く削られた珊瑚の玉がちりばめられていた。陽光の下で海のように光るそのブローチを指差し、シレーヌは照れくさそうに微笑んだ。
「ねぇ、どうかな?」
その深い蒼は、彼女の瞳によく映えた。感嘆の声を上げながら、エディは彼女を素直にほめる。
「すごい! いいなあ。良く似合ってるよ」
エディの声を聞くほどに、ヘレンは惨めになっていった。どこまでも深い溜め息をつき、ヘレンはついにエディの手を離した。
夜になっても人々の興奮は留まる所を知らず、次々と上がる花火に歓声を送っている。だが、エディ達は少し歩き疲れてしまった。それで彼らは灯台に戻り、テーブルを囲んで夕食に手を付けていた。大分体調も良くなったようで、シオンも起き上がって一緒に夕食の席に座っている。
「へえ。イングランドからこんな所まで? すごいわねぇ」
シレーヌはスープをすくっては口に運びつつ、楽しげな笑みを浮かべてエディの話を聞いている。祭りで盛り上がった気分が収まっていないエディは、弾む声で今までの旅路を地図で指し示しながら話し始める。
「そう。まず着いた大きな街はドーバーの港かな」
「ドーバー港? アルビオンの白い崖で有名なドーバー港でしょ?」
エディは頷いた。甲板の上で、後ろを振り返ってみた白い崖。ブリテン島の古名『アルビオン』の由来だとも言う。陽に照らされて輝く様子はまさに自然が作り出した芸術だった。
「見てみたいなあ。綺麗だったんでしょ?」
「もちろん」
とんとん拍子に仲良くなっていく二人の様子を見つめながらヘレンは溜め息をついた。エディがシレーヌと仲良くなるのはシレーヌが好人物なのに他ならない。それはヘレンも認めざるを得なかった。それだけに劣等感も強くなる。美貌と裏腹に腹黒い性格だったらヘレンも堂々としていられたのだろう。しかし現実はそうではなく、美貌を持って更に誠実と、全く敵わないと思わせる少女だった。スプーンに手を付ける事もなく、ぼんやりとオニオンスープに目を落としておぼろげに映る自分の顔を眺めていると、シレーヌがいきなりヘレンの肩を叩いた。
「どうしたの? 食べないの?」
「え。いや、そんな事は無いけど……」
「じゃあ食べてみてよ。結構美味しく作ったつもりなんだけど」
「うん……」
ヘレンはスープをすくい、いかにも恐る恐るといった様子でスープを口に運ぶ。やはり美味しかった。途端、自分が情けなくなった。こんなにも温かくもてなしてくれているのに、自分は一切嬉しく思えていない。今の感情を的確に言い表せる言葉を持っていなかったヘレンは、とげが刺さったように痛む自分の心を見て混乱するばかりだった。
ヘレンが戸惑い黙りこくってしまったのをよそに、エディは思い出したかのような素振りでシレーヌに尋ねる。
「ねえ。お母さんはどうしているの?」
死んでしまったのだろうかとも思ったが、直接的に表現するのは避けた。そんなエディの言葉を聞いたシレーヌは、頷きながら窓の外に広がる大海原を見つめる。
「私のお母さんね、航海士なんだ。貿易商の輸送船に乗り込んで、幾つもの嵐を乗り越えて来た実力者。私の自慢なの」
一か月前に出発した母は、お祭りが終わって二日くらいした頃に帰ってくる予定だ。しかし、風や波の関係で一週間ずれこむ事はざらにある。今まさに母が乗り込んでいる船がその帆を掲げて帰ってきてもおかしくなかった。シオンも娘と同じように外を見つめる。
「早く帰って来られれば、メールもこのお祭りを楽しめるんだけどねぇ」
「帰って来られるといいですね」
エディの言葉に、シオンは静かに頷いた。
「ええ」
三人は、窓辺に立って月の光を映す海を静かに見つめる。その後ろでは、椅子に座ったままのヘレンがうつむき、唇を噛みしめていた。
次の日、ヘレンは二階から降りる事を拒んだ。
「ヘレン、どうしたの? 別に熱とかがありそうには見えないんだけど……」
エディの言う通り、ヘレンの顔色は至って普通の肌色で、どこにも悪そうな雰囲気は無い。鼻水をすすっているわけでもなければ、咳をしているわけでもない。しかし、彼女は黙ってうずくまったまま毛布に包まって出て来ようとしない。少々訝しい思いを覚えたエディは、彼女の顔を覗き込む。
「お腹が痛いの? ねえ、何も言わなきゃわからないんだけど……」
ヘレンはきっと顔を上げて声を張り上げた。
「そうよ! 前にも言わなかった? 女の子にはこういう時が月に一度来るんだって!」
異様なまでに不機嫌な彼女にたじろぎながら、エディは首を傾げて思い出す。確かに、カーフェイの家で暮らしていた頃辺りから、たまにヘレンは体の不調を訴える事があった。たまに動けなくなるほど具合が悪くなってしまうので、彼女の体調に合わせて歩みを大幅に緩めていたが、その時のヘレンは確かに顔色が悪くなっていた気がした。
「うーん。確かに言ってたけど、本当に今日もそうなの?」
「エド、しつこいよ!」
今まで呼ばれた事の無いあだ名で呼ばれてしまい、余計にエディは戸惑ってしまった。何と言葉をかけてよいやらもわからず、しどろもどろとしていると、階段をシレーヌが上がってきた。
「まあまあエディ、女の子の苦しみを男の子のあなたに理解出来るはずもないわ。今日はゆっくりさせてあげてよ。とても辛いんだから」
それでもどこか訝しげな表情を崩せなかったエディだが、結局はちらちらと振り返りながらシレーヌの後について部屋を離れてしまう。ヘレンは今までの不機嫌な様子とは裏腹に、捨てられた子犬のような瞳でその姿を追っていた。彼が見えなくなってしまうと、ヘレンは静かに起き上がる。具合が悪いというのは、エディに腹痛を尋ねられてとっさについた真っ赤な嘘だった。シレーヌとエディが仲良くしている所を見たくない。ただその一心で彼女は芝居を打ったのだ。
静かに立ち上がると、ヘレンは樽や丸太の隙間から窓の外を見つめる。陽の光を受けても、遠い海の色は頑なに群青色のままだ。自分が避けたところでエディとシレーヌが仲良くなっていかないわけではない。しかし、何においても自分を上回る彼女の姿を見ているのは苦痛だった。溜め息をつくと、背後から階段の軋む音が聞こえて来る。
「ヘレンさん。具合が悪いのでしょう? 寝ていなければいけませんよ」
シオンだった。ヘレンはシオンの方に振り向くと、ゆっくりと首を振る。
「そんなこと無いんです。ただ……」
ヘレンの物悲しい瞳を認め、シオンはゆっくりとヘレンの下に歩み寄り、彼女の顔をじっと眺め回す。カモメが外を鳴いて飛び去ったのを合図に、シオンは彼女の顔から目を離し、開かれた窓の前まで歩いて行く。
「今のあなたは、あの時のメールと同じ瞳をしている」
シオンの声色は、どこか懐かしげだった。先程離れていったカモメが、数匹の仲間と群れて輝く海の方へと飛んで行く。ヘレンは黙ってその光景を目で追っていた。
「そう、あの時のメールは複雑だった。女に船乗りは務まらないと馬鹿にされ、男達に突っかかってははねのけられて、それでもがむしゃらに働こうとしたのですが、遂に膝を壊してしまったんですよ。あの頃のメールは二度と海に出られない絶望と、一生かかっても埋められない男性との体格差を妬んでいた」
ヘレンは小さな声で繰り返す。
「妬んで、いた?」
「はい、嫉妬です。その感情に押し潰されて、彼女は自暴自棄になりかけていた。メールは今でも私に『ありがとう』と言ってくれます。船を下りて、最初に話しかけられた男が私で良かったと」
ちらりとヘレンのうつむきがちな顔に目をやると、再び外の景色に目を戻して付けくわえた。
「まあ、私のように病弱でひ弱な男もあなた以外にいなかったとも言ってましたけどねぇ」
「嫉妬……しっと……」
ヘレンは海を見つめる。今自分を焦がさんばかりに燃え上がる感情は『嫉妬』というものなのだろうか。確かに、シレーヌは自分が全く持っていないもの、少ししか持っていないものを全て持っているような気がした。ヘレンは羨ましいという言葉しか見つけられないでいる。だが、シレーヌに対する思いだけで自分はこんなにも苦しめられているとは到底思えなかった。
嫉妬の悪魔は海に住むという。そんな海を、ヘレンは無言で見つめ続けていた。