承段 神はいるか
神などいない。畏れ多いこの言葉が周囲に届かないように、風は強く鳴いて駆け抜けた。木々のどよめきが止んだ後も、エディはしばらく黙り続けていた。彼女の言葉はエディの心にも深く沁み込む。まさに彼も同じ事を考えた事があったからだ。答えは今でも出しかねている。独り言のように、エディは呟く。
「そんなに滅多な事を言うのかい」
「じゃあ、神様が私にすすんでこんな事をしたって言うの?」
息を荒げ、ヘレンは溢れ出る感情のままにまくし立てる。そこには悲しみの底なし沼に囚われて、無意味だと知りながらあがく弱々しい少女の姿があった。エディは彼女の質問に対する答えを出せずに一度黙り込んでしまう。ただこの日、彼に何故か冒険心が宿ったのだ。いたいけな少女に同情したからか、それとも別な何かによるものか。教会の鐘が鳴った時、エディはぽつりと言った。
「じゃあ、探してみるかい?」
言っている事の意味、というよりはエディが何を考えて話しているかがわからず、ヘレンは思わず泣き止んでしまった。胡散臭そうな表情で、ヘレンは首を傾げて尋ねた。
「神様を、探す? エディ、何を言ってるかわかってるの?」
頷くと、エディは懐から静かに黒い表紙の本を取り出してヘレンに突きつける。そこには、『新しいシルクロード』という表題が白く躍っていた。いきなりの行動に戸惑ったヘレンは目を瞬かせてしまった。顔を近づけてその題字を食入るように見つめた後、ヘレンは不思議そうな表情を顔いっぱいに浮かべて尋ねる。
「何なのそれ?」
エディは手元に持ってくると、適当にページをぱらぱらとめくり始めた。一度読み始めたら読み終えるまで止まらないという典型的な本の虫のエディは、友人に頼んでは度々本を借り込んでいた。そして出会ったのがこの本だった。先程のやり取りもこの本を読みながら見ていたのだ。
「これは、ローランドっていう冒険家が航路で中国に渡ろうとした時、嵐で船が難破しちゃった時の手記さ。無事中国には辿りついたんだけど、にっちもさっちもいかなくなったこの人は、結局歩いて故郷に戻ろうと決めたんだ。でもって、ここを読んでごらん」
目当てのページを探り当てたエディは、ヘレンにその本を手渡す。ヘレンは黙ってその開かれたページを読み始めた。
――これはすごい。素晴らしい。目の前に広がっているのは、この世で一番高い山脈だ。インドの北に住むこの人達の話によると、ここでさらに一番高い山は『デオドゥンガ』とかいう発音で呼んでいるようだ。しかしこの発音はわかりにくい。この際、ラテン語で太陽神の山という意味となる、『モンテ・アポロ』とでも名付けさせてもらうとしよう。何故ならば、ここから見る太陽の光を一身に受けた山の姿は美しいの一言に尽きる。白い山肌が眩しく光り、まるで私の事を祝福してくれているかのようだ。もしかすると、天上界におわす神々はこの山を通って地上界に降り立ったのかもしれない――
ヘレンが黙々と読み進めていく様子を横目に、エディは手近な草をつまんでは吹き散らしながら尋ねた。
「どうだいヘレン。何か思う事はあるかい?」
「ううん……きれいな景色だったのかなとは思うけど……ねえ、もしかして神様を探すって、ここに行こうとしてるの?」
「まあ、そういう事になるかなぁ」
ヘレンは空を見上げて考えた。『デオドゥンガ』――ローランド曰く『モンテ・アポロ』だが――などという山、今まで生きて来て一度も聞いた事が無かった。キリスト教でいう聖地はイエスが処刑されたエルサレムだが、そこは山ではない。強いて山を挙げるとすれば、源流であるユダヤ教の預言者であるモーゼが神の言葉を受けたシナイ山だろうか。とにかく、キリスト教自体広まっていない世界にある山で、そこに神話は存在しない。
「いないよ。聞いた事無いもの。それに、天の全てを治めようという神様が、わざわざ視界が狭くなるこの世に降りてくると思うの?」
ヘレンの少々辛辣な質問に、エディは静かに首を振った。エディが読んできた本には宗教絡みの本もたくさんあった。肝心のキリスト教にまつわる本は意図的に避けていたため、自然と宗教の本といえばいわゆる“げてもの”ばかりとなる。だが、この世で正しいのはキリスト教のみなどという考えを当に捨て去っていたエディには新鮮なものとして、または強く唸らせられるものとして映った。その本らに記されていた思想を整理し、エディは静かに語り始める。
「ねえ、神様って、本当に一人だけだと思うかい。本当に一人だけで、この世を治めていると思うかい?」
「そんな。どういう意味?」
ヘレンは何かを引きずりだされるような気持ちになった。今まで神は三位一体、精霊、イエス様と同一でありこの世の全てを治める唯一にして絶対の存在だと教えられ、そして信じて疑うことなく生きてきた。そして、今その事実に絶望し、それどころか神の存在自体非常に疑わしく思っている。しかし、エディが言い出した事は間違いなくヘレンの考えの真逆の結論を出すに違いない。ヘレンは喉を鳴らしてエディの言葉に耳を傾けた。
「例えば、ギリシア神話、ローマ神話って知ってるかい? 芸術の題材とかにもなってるけど、あれは多数の神の存在を信じている、多神教じゃないか」
ヘレンはその二つの神話を聞いた事があった。遥か昔、イエスもまだ生まれていない頃にあった神話で人格を持ち、必ずしも万能ではない神々の話だ。だが、講師はそこに登場する神々を妄想の産物、空想の存在として一蹴している。エディはまさかそれを信じようというのか。それとも聞いていなかったのだろうか。
「ねえ、その神話は作り話だって講師さんが――」
「聞いていたさ。違う本をこっそり読んだりして話半分だけど、そういう部分はちゃんと聞いてるよ。神がいるとかいないとか、今は全ての可能性を信じるべきさ。別に信仰しようって訳じゃないけど、ギリシアの神話が本当だとすれば、高い所が好きな神様だってきっといるんじゃないかな。高所は権威の象徴だからね」
頼りない根拠だが、エディは大きな自信を持っているようだった。その表情を見て、少し心が揺れたヘレンだったが、やはり荒んで萎縮しているヘレンは疑う事をやめられない。
「本当にいると思うの?」
エディは強く頷いた。別に彼女を慰めようとして言った冗談ではない。今まで答えを出せないまま封じてきた疑問に決着をつけたくなったのだ。彼に宿った冒険心は、今もなお真っ直ぐに成長し続けている。じきに英雄にも劣らない程に大きくなるだろう。勇気づけるかのように、エディは胸を張って見せる。
「キリスト教の神様じゃなくても、どこの誰が信じている神様かさえわからなくても、居るかもしれないなら、俺は賭けてみるよ。どうせ独りだしね。君が行かない、って言っても俺は一人で行く」
ヘレンは俯いた。きっとエディはどんな旅になるかという展望など持っていないだろうと思ったが、彼女は断る事が出来なかった。ヘレン自身もその旅に密かな憧れを抱いたからだ。いつまでもいじけていられない事は自覚していたし、どうせ元に戻るくらいなら、いっその事大化けしてみたい。エディの冒険心に当てられて、ヘレンもそんな事を思い始めた。緊張で喉がつっかえるが、ヘレンはそれでも言い切った。
「私も行く」
「何だって?」
「私も行きたい」
エディの顔がぱっと輝いた。それにつられて、ヘレンも久しぶりにまっとうな笑顔になる。エディにはその表情が眩しく見えて、目を細めた。澄み切った青空見上げて、エディはゆっくりと立ち上がる。そうと決まれば話は早い。
「なら、出発は一週間後にしよう。それまで、一緒にちょっとずつ準備をする。そして、一週間後の夜にまたここで落ち合おう」
「いいけど、どうして一週間後なの?」
ヘレンの質問を聞きながら、エディは目の前で枝を大きく伸ばした木を見つめる。エディがここに逃げ込んでいた時は、まだ子供とでも呼べる大きさしか無かった木だった。今ではもう、この教会の周りでも一番の大きさに育っている。何度この木に励まされた事だろう。一週間したら、この木ともお別れだ。
「一週間後、俺の誕生日なんだ。十二歳までの自分に区切りをつけて、十三歳から旅立ちたい」
エディはヘレンの顔を見つめた。その瞳は真っ直ぐで、とても澄みきっていた。
「最初のわがままだけど、聞いてくれるかい」
ヘレンは頷いた。彼女にしても、心の準備には一週間ぐらいかかりそうだったのだ。今まで見た事の無い世界へ旅立つ事、友人とお別れしなくてはならない事。色々考えただけでも、引っ込み思案の彼女は挫けそうになったが、もう四の五の言わない事に決めた。これこそ本当に根拠が無いが、エディと一緒にいれば、必ず無事に旅を終えられる気がしたのだ。
……お父さん、お母さん。私、頑張ってみようと思います。応援してくださいね……