急段 英雄キングオブハート
三日経った。エディ達は野を越え、荒れ地を抜け、十五マイルの道を辿った。レイリーの体調も僅かに上向き、エディもひとまずは心に整理を付けてこの行程を歩き続けていた。今日もまた、手頃な小川を見つけるとそこで野営する。
「君達は……川の近くに泊まる事が多いのかい」
慣れた手つきでトラウトのはらわたを取り出し、焼く準備を整えているヘレンの動きを目で追いながらレイリーは尋ねた。振り向くと、ヘレンはにこりと微笑みかけてみせる。落ち込んでいる人には、小さな笑顔が一番の薬だ。エディの笑顔や、他にもたくさんの人々の笑顔からヘレンは元気を分けてもらった。そろそろ、自分も誰かに分ける番だとヘレンは思い始めていた。
「ええ。私達、弓矢は扱えなくて狩りは出来ないものですから。野宿は川の近くですることが多いんです。その方が魚を釣れますからね」
レイリーは興味深げに頷いた。そして、懐かしい思いがした。村の中央を川が流れており、復活祭の開始日はまさにお祭り騒ぎ。誰が一番大物を釣れるか競ったものだった。今年は誰が勝つのだろう。感慨に耽りながらヘレンを見ていると、彼女は石のような物が詰め込まれた瓶を取り出し、その石を魚の身の上で削り始めた。
「何をしているんだい?」
ヘレンは再び笑顔を浮かべると、手に持つ石を見せる。エディ達にせがんで、一人とある街の中に入り、調味料を並べている店で見つけた物だった。
「岩塩です。何も味付けしないものですから、口が物足りないんじゃないかと思ったんです」
「そんな……俺に気を遣う必要なんかないのに」
言いながらも、久しぶりに優しくされるという事の嬉しさを噛みしめていた。なにせ、怖気付いたせいで訓練のほどがあんまりだったレイリーは、そのために上官はおろか、本来仲間と呼べる人達にまで疎まれていたのだ。希望もへったくれも無くなり、わざわざ命を投げ打つ意味を見失い、怪我でついに見切りをつけてレイリーは逃げた。逃げ帰ったからといって、別段何かする当てもない。しかし、レイリーは逃げたのだ。ぼんやりと彼はくすぶりがちの焚き火を見つめる。木が湿気っているようで、火の付きが悪い。ヘレンは火から目を離すと、周囲を見回した。思えば、先程からエディの姿が見えないのだ。
「あれ。エディったら、どこ行ったのかな」
ヘレンは立ち上がると、エディを探しに行こうとした。だが、茂みに足を踏み込んだ途端、彼はぬっと姿を現した。ヘレンは若干驚いて足を退けてしまったが、やがて腰に手を当て不満そうな声を上げる。
「もう。エディったらどこ行ってたの? 火が弱いからたき木を探してもらおうと思ってたんだけど……」
言うやいなや、エディはなんとも握りやすそうな太さの木を数本差し出した。エディは微笑む。
「火が弱いの気がついててさ。さっき取りに行ったんだよ」
「ふうん……ありがと――いゃっ!」
受け取った瞬間、ヘレンは小さく悲鳴を上げてしまった。指先にぬらりとした感触を覚えたからだ。木を取り落すと、慌ててヘレンはエディの手の平を返す。そして、また声を上げてしまった。エディの両手小指の付け根が擦り切れ、血がしみ出ていたのだ。ヘレンは慌てて尋ねる。
「どうしたの? これ!」
「なんでもないよ。川原で転んじゃっただけさ」
それだけ言い残し、エディは水筒を取り出し傷口を洗い始める。ヘレンはしかめっ面でその様子を眺めていた。
……また見え見えの嘘ついてる。
この旅の途中、転んだのは一度や二度ではない。砂利道で転び、手のひら中に擦り傷を作ったことだってある。だが、今のような傷が出来た事は一度もない。転んだら手のひら全体をつくのだから、こんな、小指の付け根一点だけ擦りむくだなんて事は考えようが無い。溜め息をつくと、ヘレンはエディが持って来た木を火にくべようと取り上げ、そしてある事に気がついた。
……なにこれ。元は一本の枝?
折れ方が似通っている部分を見つけたヘレンは、思わずその木々を繋げてしまう。やはり木々は一つの手頃な枝にまとまった。だが、この枝で何をしていたのか、女子に生まれたヘレンにはわからなかった。枝を見つめて腕を組み、首を傾げているヘレンを不思議がり、レイリーは尋ねた。
「何をしてるんだい?」
「え? いいえ。別に何もしていませんよ」
ヘレンは慌ててバラバラにすると、中に放り込んでしまった。火の勢いがやや強まり、魚の表面にじわじわと焦げ目が付き始めた。手当てを終えたエディは火の様子を見つめながらレイリーに尋ねる。
「レイリーさん。この近くの港ってどこでしょうか」
レイリーは頭を捻った。あんまり地理には明るくなかったレイリーだったが、一人きりの孤独を埋めるため、寝泊まりする部屋にあった世界地図をぼんやりと眺めつづけて来たせいでバルカン半島の地名は完全に頭の中へと叩きこまれていた。
「そうだな、どこに行くかにもよるけど。どこに行くんだ?」
「オスマン帝国に渡るつもりなんです」
「へえ。オスマン帝国……だって!?」
レイリーは素っ頓狂な声を上げた。今まで戦っていた相手なのだから無理は無い。
「何だってそんな所に?」
エディは自分達が孤児である事、一年前から神を探す旅をしている事を端的に話した。それを聞いたレイリーは、肺の中にある空気を全て絞り出すほどに長々しい溜め息をついた。そして、空を見上げる。
「神様か。いたらいいよなぁ」
「いると思いますか?」
レイリーは仰向けになってじっと空を見る。
「わからないな。昔は、そりゃ居ると思ってたさ。聖書の中に書いてある事全部、本当の事だって信じられた。だけど、戦争に参加して、人が死ぬ所をたくさん見ちゃったらもうダメだ。全部が怪しくなってくる。居たとしても、“俺達”の事なんか気にも留めてないんじゃないかって思えてくる。救済なんか、最初っからしないつもりなんじゃないかって。キリストが十字架に架けられたっていうその日から、もうとっくに神様は俺達を見限ってるんじゃないかって。そう思えて仕方が無いんだ」
エディはヘレンの言葉と重ね合わせていた。
――エディのお父さんやお母さんが死んだのは、キリスト教のあり方で争いになったからでしょ? 神様がそんな事お許しになるはずがないのに。
ヘレンの言った事に従うならば、レイリーの言う事は深く頷ける。最早神は見限ったのだとしたら、人々のやり取りなんか目にもくれないだろう。許すも許さぬもない、好きにすればいい。そういう事なのか。それともやはり、ヘレンがかつて言った通り、神など居ないのか。
それとなくエディはヘレンの顔を窺い、そして思わず顔が綻んでしまった。彼女は二人のやり取りなど意にも介せず、小さな口を目一杯開いて魚にかじりついていた。もうヘレンの顔に、生きる事さえ拒みそうな暗い影は落ちていない。そこにあったのは、精一杯人生を突き進んでやろうとでもいうかのような心意気を秘めた瞳だった。今を生きるヘレンの瞳は、どれほど美しい事だろう。エディは気がついた。今を見据えるのは自分の信条だ。ヘレンを引きずりこんでおいて、今さら自分がくよくよするわけにはいかない。エディは姿勢を正して座り直した。
そんな様子を、ヘレンはその瞳をくりくりと動かして見る。
「どうしたの? 食べないと焦げちゃうよ?」
はっとなったエディは、慌てて自分の目の前に立ててあった魚を取り上げる。だが、時すでに遅く表面は真っ黒だった。消沈しながら皮をはぐと、一応身は無事だ。溜め息をつき、エディは呟いた。
「少し遅いよ……」
くすくすと笑っている彼女を見ていると、それ以上ヘレンに何かを言う気にはなれなかった。こちらも微笑み返し、エディは魚にかじりついた。
さらに二日経った。捻挫した足首も快方に向かい、レイリーはまともに歩けるようになり始めた。そのお陰でロードの鐙にも両足かけられるようになり、本来はあと五日かかると見積もっていた道のりも、もう三日で着けるという距離まで近づいていた。
「今日は魚ですよ。ここ二日は木の実ばっかりですみませんでした」
エディが魚を三尾ヘレンに放りながら、レイリーにその笑顔を向ける。レイリーもつられて微かに笑う。
「気にしないでくれよ。厄介になってるのは俺の方なんだし。……そうだ。ヘレン、今日は俺が調理するから、それを俺に放ってくれ」
さっさと下準備してしまおうと、てきぱき動かしていたその手を休め、ヘレンはレイリーの方を向く。
「いいんですか?」
レイリーは頷いた。この二人に出会って、何かが変わってきた気がしていた。彼は上手く説明出来なかったが、今までの苦しみだとか、心の中にあったわだかまりだとかいうものが少しずつ洗い流されてきたような気分になり始めていた。誰かに会えば常になじられていた軍の中では、必要ない時は自分の割り当てられた部屋に閉じこもって地図とにらめっこをしていた。やり過ごし続ける日々、無駄にしてはいけないと教えられてきた『時間』を、どぶの中に捨ててしまうような毎日だった。しかし、二人といるうちに、少しずつ心の中に訴える言葉が聞こえ始めていた。レイリーはトラウトを見つめ、微かに笑顔を浮かべた。
「へえ、上手ですね」
エディが小さな称賛を贈るのを耳にしながら、レイリーはヘレンがかかった時間の半分ではらわたを取り、うろこを剥いで小枝に魚を突き刺してみせた。
「見くびるなよ。俺はこれでも魚を料理する事にかけては村の中でも一、二を争ったもんさ」
そのままレイリーは魚を焼き始める。今日のトラウトは脂ののりが良かったらしく、表面がぱちぱちと小さく爆ぜる。心地よい音を耳にしながら、レイリーは目を閉じた。去年の祭りの日が思い出される。友人や兄と大会で釣った魚の大きさを競った事。一番になって有頂天な気分に浸りながら、そのまま思いを寄せていたフィーナに告白し、受け入れられた喜び。両親や兄妹も祝福してくれ、レイリーは少し恥ずかしくなった。その頃は、全てに幸せを見出していた――
レイリーはふと現実に帰り、焼けた魚を二人に手渡した。口にした瞬間、エディもヘレンも思わず笑顔になった。
「美味しい!」
「そうか? 良かった」
言いつつ、自分も魚を口にした。柔らかく、僅かに甘みのある身をかじる。噛み進める度に、まろやかで旨みのある脂が口いっぱいに広がっていく。やはり魚が大好きだった。ふと顔を上げてヘレンを見る。エディと見つめ合い、自分の焼いた魚をこれでもかと褒めている。その姿を見ていると、やはり思い出すのは妹の笑顔だった。
「やっぱり似てる」
「何がですか?」
ヘレンは首を傾げた。
「君は妹のオレナに瓜二つなんだよ。名前だって似ているし」
「私が、レイリーさんの妹に?」
レイリーは頷いた。笑顔になると、なおいっそう似通ってみえる。自分の事を慕って常に味方してくれる、我ながら出来た妹だったと思う。そしてレイリーは思い出した。自分が軍隊に駆り出される事になった時、妹は泣きながら教会にこもって自分の無事に帰ってくる事を祈っていた事を。だがしかし、これが果たして“無事に帰って来た”と言えるのだろうか。それに、今も神聖ローマ軍はオスマン帝国軍に押され続けている。未だにその勢いは留まる所を知らない。戦闘に巻き込まれた町の悲惨は、自分が何より知っている。レイリーは魚をもう一口かじった。昔、母が焼いてくれた魚の味がした。レイリーは目を閉じ自分と向き合い問い詰めた。自分は愛しているのではないのか。父を、母を、兄を、オレナを。フィーナ、そして街のみんなを愛していたのではないのかと。思い出せ。お前はあの街を何より大切に思っていただろ。思い付け。今の自分に、一体何が出来るかを!
レイリーは、魚の頭が刺さったその手の枝を揉み砕いた。
翌朝、静かに風が吹いた。消えたとばかり思っていた火の跡が急に息を吹き返す。にわかに熱を感じたエディは慌てて飛び起きた。そして見たのは、銃を背負い、制帽をかぶって日の出を見つめるレイリーの姿だった。胸の国章が光を受けて眩しく輝く。眠い目を擦りながら起き上がり、ヘレンは首を傾げた。
「レイリーさん? そんな格好してどうしたんですか」
起き出した二人に気が付くと、レイリーは静かに微笑んだ。その瞳は生気に満ち溢れている。ただ、それは初めて二人と出会った時と正反対の方向に向けられていた。
「二人とも……勝手で悪いんだけど、戦場に戻らせてほしいんだ」
エディは慌て、思わず立ち上がってしまった。
「どうしてですか! 今まで何事も無く来れたのに。もうすぐなのに!」
レイリーは首を振り、改めて東の果てを見つめる。今までは、日の出を見るたびに震えが止まらなかったが、もう違う。レイリーは決めたのだ。日の出はやはり希望であらねばならない。両親や、兄妹や、友人、それからフィーナ。あの村に住む全ての人々が、日の出を見たら笑顔になっていて欲しい。もう、怖いなどと言っていられない。
「なあ。やっぱり、人を殺したら地獄に落ちるかな」
二人は言葉に詰まる。神様は――いるのだとしたら――天網恢恢疎にして漏らさず、たとえ天上からでも絶対に見逃しはしないだろう。神様は情状酌量をするのだろうか。心の中を見て、一点の曇りも無ければ、たとえ人を殺めるという悪魔の所業を行った者も許してくれるのだろうか。無言を返事と受け取ったレイリーはそのまま続ける。
「そうだよな、やっぱり落ちるか。でもいいんだ。みんなを守って地獄に落ちるなら、俺はそれでもいいや。傲慢になって堕ちていったルシファーとは違う。胸を張って罰を受けてやるんだ」
エディはようやく声を絞り出した。
「僕達、神様に会えたらきっと言います。『レイリーさんは天国に連れて行って』って」
「そうか。ありがとう」
ヘレンはルセアがそうしたように、ゆっくりと指輪を抜き取った。
「レイリーさん。この指輪は贈った人を守ってくれるという言い伝えがあるんだそうです。だから、私はこれをあなたに贈ります。きっと無事でいて下さい」
目を丸くしたレイリーだったが、しばらくするとポケットから水色に光る宝石が嵌められたネックレスを取り出した。一度向き合うと、それをヘレンに突き出す。戸惑いながら受け取ったヘレンは、ネックレスに光る宝石を見る。ターコイズ。『トルコ石』だった。
「じゃあ、代わりにこれを受け取ってくれ。これは戦場で拾ったんだ。帰ったら、これを見せて自分も戦ったんだって言い張るつもりだった……情けないよな。けど、もうそんなつもりもないし、こんなものいらない。だから、君達に持って行って欲しいんだ。売って旅費にでもしてくれよ」
「あ、ありがとうございます」
レイリーはゆっくりと左の薬指に嵌める。朝日を受けて、指輪は小さく光った。銃を背負い直し、制帽を目深にかぶるとレイリーは二人に敬礼した。
「じゃあな。二人とも、無事でいろよ?」
「はい!」
背を向け、駆け出して行ったレイリーを、二人は見よう見まねの敬礼で見送る。ロードもレイリーの背中を見つめ、高らかに嘶いた。退役軍馬からの、ささやかな励ましだったのかもしれない。
この後、レイリーは『キングオブハート』として、救国の英雄の一人として数え上げられる事となる。村長の次男として培ってきた明晰な頭脳と、野山を駆け回ったことで身につけた体力を下敷きに、先頭で鼓舞する指揮官として、彼は生まれ変わったのだ。