破段 弱虫兵士
最低限の朝食を終えた三人は、すぐさまその場を発つことに決めた。レイリーは足を挫いてしまって動くこともままならなかったが、ロードがいるのだから問題は無かった。
「大丈夫ですか?」
エディは馬上のレイリーを見上げる。挫いた左足は鐙にかけられず、宙でぶらぶらしている。そんなバランスの悪い体勢だから、ロードは抜き足差し足といった具合に歩いている。それに合わせると、エディ達も一時間かけて一マイル(一マイル…一、六キロメートル)行くのがやっとだった。レイリーはすまなさと虚しさが同居した、力のない笑みを浮かべる。
「ありがとう。……大丈夫だよ。俺は」
レイリーがまとう重苦しい雰囲気がのしかかり、会話が生まれない。街道を歩くロードの蹄鉄の音さえ、今日は鈍かった。エディは耐えかねた。本を読んでいる時の沈黙は心地良い。しかし、今の空気は振り払われるべきものとエディには思えてならなかった。足元を見つめながらあからさまにため息を付き、いい機会だと思って口を開く。
「レイリーさん。どうして戦うのが嫌なのに……軍なんか?」
軍人といえば、職業軍人が当たり前だと思っていたエディには、少し不思議だったのだ。ただのてらわぬ疑問だったが、レイリーにとっては少し的外れだった。だが、彼としても自然体で尋ねてくれる存在が欲しかったのだ。一瞬エディを一瞥すると、レイリーは静かに上を向く。涙がこぼれないように。
「俺は去年の暮れに徴兵されたんだ」
「徴兵、ですか?」
ヘレンの尻上がりな口調をつくづく不思議に思いながら、レイリーは視線を下ろした。
「兵士が足りないから、俺みたいな村人も健康だったら兵士にされるんだよ。……俺だって、最初のうちは頑張ろうと思ってたさ。これ以上俺達の土地を荒らさせるものかって」
彼はため息を交えた。思い出されるのは、戦場から戻ってきた兵士達を初めて見た日だ。もちろん、万事何事もなかったように帰ってくる者もいた。しかし、それ以上におぞましい光景は目にまとわりついてくる。口の中が酸っぱくなるのを感じながら、レイリーはなるべく自分を抑えて話し続ける。
「俺は臆病者なんだって、すぐに気付いた。すぐに怖くなったんだ。数え切れない程の怪我人を見た途端に。真っ赤な包帯をしているだけならまだいいよ。応急手当ての段階で指や、腕、ひどい人は太ももから下を切り落とさなきゃならない人もいたんだ」
ヘレンは血の気がにわかに引くのを感じた。想像するだけで目眩や耳鳴りがし、真っ直ぐ立てなくなってロードに体重を半分預ける。エディは肩で息をしているヘレンの方を心配げに見つめる。そんな様子に気がつかないレイリーは、一本調子でうわ言のように続けた。
「明日は我が身。そんなことを考えたら、訓練さえまともに出来なくなっちゃって……だけど司令官はそんなことには構いやしない。昨日の戦いに俺は駆り出された。俺はそこそこ勉強できたから、昨日の布陣じゃ勝てないって確信してた。だけど上官の命令は絶対だし、逆らえっこない。最初は生き残ることだけを考えて、必死に引き金を引き続けた。だけど、一発の銃弾で腕をやられて、俺はもう絶望した。ここにいたら生き残るなんて無理だ。そう思った俺は、こうして逃げ出してきたのさ……」
投げやりな語尾に返す言葉が見つからず、エディは黙りこくってしまった。その沈黙を埋め、レイリーは静かに呟く。
「笑ってくれ。俺は天下一の弱虫兵士だよ……」
重苦しい空気の中、ただただロードの足音だけが響いていた。
小川が近い森の中、エディは串刺しの魚を焼きつつレイリーに尋ねた。
「レイリーさん。あなたの村までは後どれくらいなんですか」
戦場を離れてまずは一日、ここまでは何事も無く、無事に五マイルの道を来ていた。エディの方を見て、レイリーはすまなそうに顔を曇らす。
「あと……五十マイルという所かな。君達が来た道を遡っているんだろ? 俺ときたら、本当に迷惑だな」
レイリーはとにかく自分のことを嘲る。魚の焼け具合を確かめながら、エディは首を振った。そもそも戦場の先へと進めるはずもないし、急ぎの旅でもない。言い出したのだってエディなのだ。
「いいんですよ。自分で決めた事ですし。それよりも、焼けましたよ。食べませんか」
エディは香ばしい匂いをした焼き魚をレイリーに差し出した。歩いているうちは胃に重石でも詰め込まれたようで何も食べる気がしなかったのだが、人間は目や鼻を刺激されると否応なしに腹が減るものらしい。レイリーはおずおずと魚を手に取る。トラウトだ。川近くの村に住んでいたレイリーにとって、この魚はとても馴染みのある種だ。ゆっくりとその腹をかじり、口に含む。柔らかな身の感触、のっぺりとした脂の舌触りだ。レイリーは無感動のまま食べ進めた。食べるのは人間の義務と定められているかのようだ。エディは次第に心配になっていく。レイリーの目はまさに死んだ魚のそれだ。
「あの、おいしくありませんでしたか?」
レイリーは脱け殻のように黙り、微動だにせず骨だけになった魚を見つめていた。否、見つめていたかさえ定かではない。エディは小さく溜め息をつくと、彼の肩を叩いた。崩れ落ちるんじゃないかという思いが一瞬頭の中を駆け巡ったが、幸い杞憂に終わった。
「どうした」
レイリーは呆けた声で返事した。
「魚、おいしくなかったんですね」
「いや。そんなことはないよ。そんなことは……」
レイリーの焦点の合わない瞳を見つめ、エディははっきりと溜め息をついた。この有り様では、のれんに腕押しぬかに釘、どうしようもない。ゆっくり立ち上がると、レイリーの脇まで行ってひざまずき、身を横たえさせた。
「もう無理をしないでください。きっと、まだ血が体をうまく巡ってないんですよ。だから、怪我の事もあることですし、ゆっくり寝て、体を休めてください」
全くもって彼はどこか精根尽き果てた様子だった。エディが言い終わらない内に彼は目を閉じ、反応を返さなくなった。エディは手の内の棒切れを脇に放ると、ヘレンの隣に腰を降ろした。ヘレンの目は物憂げな色を帯びて、目を閉じている兵士の横顔を眺めていた。
「エディ。大丈夫なのかな」
エディは首を傾げた。腕の血は止まり、昨日よりは幾分増しになった顔色だが、どこか抜け殻のようになっている。
「わからないよ。なんだか、生きようとしているように思えなくて……」
ヘレンが首を振ったのを見て、エディは面食らった。一体何が心配なんだろう。ヘレンの意思がエディには見えない。
「ヘレン、何が心配なの?」
ヘレンはエディの瞳を見つめる。とても切実な瞳だった。
「エディ。イングランドとフランスが戦争になりかけてたんだよね」
「うん」
「カーフェイさん、プロイセンの地方も状況が怪しいって言ってた」
「そういえば」
「そして、この人は東で起きた戦争から逃げ出した」
「み、見れば分かるじゃないか」
エディは空恐ろしくなった。木々がざわめき、月は薄雲に隠れておぼろげになる。ヘレンは言った。
「ねえエディ、どこもかしこも危険だらけ。安全な所なんか何処にも無いんだわ。戦争だけじゃない。悪い人だっているし――」
「そんな事言うのはやめてくれ!」
目を見開いて急に大声を上げ、エディはヘレンの言葉を遮った。ヘレンは急に怯えたような表情でエディの顔色を見つめる。エディは動揺していた。急に何かを揺るがされたような気がしてならなかった。感情を抑えられなくなったエディは、思わず髪を掻きむしり、体を丸めてうずくまる。
「ごめん。少し寝させてよ」
そう言ったきり、丸まって小さくなったエディの背中をヘレンは黙って見つめる。単なる事実を述べたまでの事、エディは何に怯えたのだろう。元々彼にはその危険に向き合うくらいの覚悟は出来ているとヘレンは思っていた分、エディの豹変にはなおさら首を傾げてしまう。思い出されるのはアルプスでの一幕だが、あの時の彼は異変を理解していなかった。今回の豹変とは全く別のものに違いない。感情の動きもヘレンには見えた。そのお陰で、どうすればいいかも今日は何となくわかる。
今は距離を置くべきだと思ったヘレンは、そのまま横になった。
「変なの」
ヘレンの呟きは、エディの心に深く刺さった。言葉がどうだというのではない。たとえ、彼女がエディに向かって『おやすみ』を言ったのだとしてもエディの心はえぐられただろう。エディは胸が苦しくなっていた。ダルタニアンと別れる時、彼は何が何でもヘレンだけは守ろうと心に決めた。決めたのだ。だが、いよいよそんな瞬間がいつ訪れてもおかしくないこの時に至って、エディは気が付いてしまった。
自分はヘレンを守る手段など一切持ち合わせていない事を。
ダルタニアンやアラミスのように、疾さがあるわけでない。アトスのように、戦いの技量を持ち合わせているわけでもない。まして、自分の平凡な体格ではポルトスのような馬鹿力など出ない。よくもまあ、こんな情けない自身を省みる事無くヘレンを守ろうと考えたものだ。いや。旅に誘おうなどと思ったものだ。エディは自らを嘲り笑う。だが、最早遅い。昨日ヘレンに話した通り、もうずいぶん遠くまで来てしまったのだ。もう取り返しは付かない。考えるべきは、今何が出来るかだ。エディは寝返りを打ち、レイリーの脇に置かれた銃を夜中見つめていた。