序段 豪雨の中で
Eventful Item
ルセアの指輪
Money
百十シリング
ローマの街をはなれたエディ達は、東へ、東へとロードに乗って進み続けた。クロードの魔法で、彼らの旅は一段とはかどるようになった。言葉が伝わる。これほどまでに素晴らしい事を今まで当たり前の事だと思っていた自分達が、すでに二人は不思議だった。そうして五ヶ月。エディ達はハンガリー王国領東部の果て、オスマン帝国の国境に差しかかる。だがそこは、火薬の臭いが鼻に付く危険地帯だった。
「いざや立て、荒く息巻き駆けて行け……誇りある、強者を乗せて戦場を征せよ……」
エディは、先日泊めてもらった家の主が書いた詩を口ずさんでいた。この韻律が妙に気に入ったらしく、ロードは気分良く走ってくれる。いつまでも世話になるのだから、気分良く走ってもらいたいというのはエディたっての思いやりだった。ヘレンも軍隊の力強さが想起されるその詩はそこまで嫌いでなかったが、やはり首を傾げてみる。
「エディ、その後は『蹄の稲妻轟かせ、嵐を以て敵を払え』でしょ? あんまり今は聞きたくないなあ……」
言いながらヘレンは、そしてエディもつられて空を見上げた。分厚い鉛色の雲が空を埋め尽くしている。いつ滝のような雨が降り注いでもおかしくない。時は早春、溶け残った雪も未だに残っている。そんな肌寒い季節の雨に降られてはたまったものではなかった。エディはため息をつく。
「あ、ああ……。降ったらたしかに嫌だね……」
その時、快調に飛ばしていたはずのロードが急に足を止めた。エディは前につんのめり、ロードの頭にしたたか鼻を打ちつけた。いくら柔らかなたてがみに包まれていても、分厚い皮に覆われていても、ロードの頭蓋は硬い。鼻に熱が集まってくるのを感じながら、それを指で押さえてエディはロードの背を撫でる。
「ど、どうしたの……痛いよ」
微動だにしないロードだが、鼻息は荒く、その視線はどこか一点を見つめていた。つられてその方面に目をやると、エディはもうもうと立ち込める土煙、その中に赤い何かと黄色い何かを見つけた。エディの肩越しにその様子を眺めつつ、ヘレンは不安そうな声を上げた。
「ねえ。あれってもしかして……」
「そうだね。……もう少し近くまで……」
予想を確信に変えるため、エディは近くの景色に目を走らせた。直ぐに飛び込んできたのは、林というには頼りない、木々の小さな集まりだった。地平線に囲まれたこの平野に、この集まりがあったのは全く幸運だった。ロードの手綱を引き、エディはゆっくりと街道を逸れてその茂みへ向かって歩かせた。そうしているうちに、段々と土煙を起こしているものの正体が明らかになっていく。
「やっぱり戦争か……話には聞いていたけど、ひどいな……」
エディが呟いた瞬間、何かが弾けるような音が微かに聞こえてくる。息を吸うと、同時に火薬の刺激臭が鼻に付く。エディは思い切り顔をしかめてみせた。背後のヘレンは両手で鼻と口を覆い、僅かに血の気を失った表情で黙っている。その目には、黄色い旗、そして黄色の制服に身を包んだ兵士が、夕日が映える赤い衣装に身を包んだ騎兵たちに蹂躙されている様が目に映っていた。
この時代はオスマン帝国が欧州に侵略しており、既にバルカン半島は呑み込まれてしまっていた。ハンガリー王国、そして神聖ローマ帝国もその勢いを跳ね返すべく、全力をオスマンに向かってぶつけていたのだが、今繰り広げられている戦いにおいては惨敗という他ない。エディ達は、そんな戦場に出くわしてしまったのだ。
茂みを挟む形で戦場と対し、その光景をしかめっ面でエディは見つめる。槍に肩を貫かれ、一人の銃士が倒れた。エディは思わず目を伏せる。そして小さくヘレンに話しかけた。
「予感はしていたけど、やっぱり陸地を最短で横切るのは無理だよ。戦争が激し過ぎる。ここだって、いつ流れ弾が飛んでくるかわかったもんじゃない」
エディが頭を指で叩く。心の中ではハンガリー軍を応援していた。彼らが押されると、自分達の立場が危うくなってしまう。だが、見ている限りそう上手く事は運びそうに無い。と、思っていたところ、いつまで経ってもヘレンから反応が帰ってこない。エディは話しかけていたつもりだったが、ヘレンは全く気が付いていなかったのだ。彼女は時折目を背けても戦場を見る事を決してやめようとせず、まるで何かに取り憑かれたかのようだった。自分の肩に乗った彼女の手を、エディはそっと叩く。呪縛が解けたヘレンは飛び上がらんばかりに驚き、慌ててロードの上に座り直した。
「えっと、何?」
とぼけた声色のヘレンに、エディは小さく溜め息をつきつつ気を取り直す。
「海に行こうよ。ここは危険だし」
「どうして? 海だって戦いはきっとあるよ」
ヘレンの不思議そうな反論に、エディは首を振った。
「そりゃあ、あるかもしれないさ。でも、戦場じゃなくても治安が安定していない所を抜けるより、いっその事人が居ない海を抜ける方が遠い目で見ても安全だと思わないかい?」
ヘレンはどこか納得できないような気もしたが、反論も出来ない。うなりながら答えを渋っていると、ロードの足元に流れ弾が突き刺さった。驚いたロードは急に悲鳴を上げて上体を持ち上げる。元々身の丈に不釣合いで、バランスが不安定な二人は振り落とされそうになった。
「うわあ! どう、どう!」
エディが何とか踏ん張って、かんとかロードは落ち着いた。背後のヘレンは蒼ざめて、エディの肩を強く揺すぶる。
「そう! ここはやっぱり危険だよ! 早く海に行こう、死にたくないもん」
「あ、ああ。そうだね」
エディも頬を引きつらせながら頷いた。恐る恐る戦場を窺うと、目下二、三百ヤードはあった戦場までの距離が三分の一ほどまでに縮んでいた。このままではこちら側にハンガリー軍が撤退してくるのも時間の問題だ。エディは頭をくしゃくしゃにかきむしる。
「さあ、さっさと逃げよう!」
「うん」
深い溜め息をつくと、ロードに回れ右をさせ、一気に走らせた。戦場からとにかく離れよう。二人と一頭の意志は全く一致していた。天は虫の居所が悪いのか、唸りを上げると稲光と共に豪雨を降らせる。二人は外套の頭巾で頭をすっぽり覆うと、さらに足を速めた。みるみるうちに土肌の露出した地面はぬかるみ、ロードの足が鈍くなる。真冬の雪のように白いロードの体毛も、段々道端の残雪のように汚れていく。顔に当たる雨の雫が固く、目を糸のようにしていたエディの視界に、何者かの姿がおぼろげに映りこんだ。黄色い服を着ており、腕を庇いながら、自分と同じ方向へと足を引きずりながら歩いていく。エディはロードに足を緩めさせた。ヘレンは手をかざして目を守りながら、その人物を静かに窺う。
「誰?」
ヘレンはみるみる怪訝な顔になった。出血はひどく、夕陽が覆い隠された薄暗い光景の中でも、彼の庇う左の腕が真っ赤になっているのが見て取れる。だが、その背中からは生気が強く放たれていた。足を引きずり引きずり、どこかを目指して一心に、真っ直ぐ街道を歩いていた。エディは眉根にしわを寄せる。
「怪我してる。あの出血は結構危ないか――」
「助けなきゃ」
エディの言葉を遮り、ヘレンはロードの背から飛び降りた。泥がはねるのも気にせず、真っ直ぐ兵士のもとに駆けていった。放っておけないのが彼女らしい。エディはロードに待機の合図を送ると、自らもその背から飛び降りて、頭を掻きながら後を追う。彼にしてもヘレンの行動を否定する理由は無い。
……普段は今でも人見知りなのに、こういう時は凄いな。
エディが感嘆しているうちにも、ヘレンは兵士の容体を窺っている。だが、ヘレンの手が腕に伸びた時、いきなり兵士に手を払われた。ヘレンは体勢を崩して草地に尻餅をついてしまう。彼女は肌寒い感触を覚え、顔色も曇る。
エディは驚きはっとした。そして何故だか胸の奥にざわめきを感じ、エディは背後から兵士に詰め寄った。
「あんた! いきなり何をするんだよ!」
兵士は緩慢な動作で何とかエディの面に向き合う。そして喉を振り絞り、蛇でも鳴いたかのような掠れ声で叫んだ。
「お前ら、軍の回し者だろ!」
エディはその鬼気迫る勢いに押された。一歩後退りし、勝手に首が左右に動く。
「違う」
「嘘だ!」
雷鳴が轟き、背後の茂みが燃え上がった。煌々と照らされる赤い光に照らされ、兵士の顔が露わになった。エディの視線はその兵士の目に釘付けになった。その目は血走り、瞳は小刻みに震えて瞳孔は開きっ放し、明らかに普通でない。さらに、血迷ったその男は腰の短剣を引き抜いた。
「死ね」
「ちょ、ちょっと……落ち着いてくださいよ」
エディは兵士に向けて両手を突き出し、慌てて彼をとりなそうとするが意味はない。何事か訳のわからないことを叫んだかと思うと、いきなりエディに襲いかかった。しかし、震える右腕を押さえられないままのよれよれな剣閃では、単なる一般人のエディでも容易に避けられた。エディは脇にかわしてその腕を押さえると、必死に訴えた。
「本当に軍の回し者なんかじゃないんですってば! 僕達はたまたまここを通りかかっただけで……」
「嘘だ! 嘘だ嘘だ! どうせびびって逃げ出した俺を捕まえに来たんだろ! ご丁寧にそんな変装までしてな!」
「違います! 信じて下さい!」
怪我人とはとても思えないような力で、兵士はエディを引き放しにかかる。単なる力勝負では、エディが敵うはずもない。今度はエディが地面に突き倒される番だった。そんなエディを見下ろし、兵士はナイフを握り締める。その時、突如として横から飛び出したヘレンに頬をはたかれた。兵士は動揺して石像のように硬直する。エディはその隙を見逃さず、ナイフを右手からもぎ取る。途端、絶望と諦めの声が兵士の口から洩れた。そこへ、すかさずヘレンが兵士の肩を掴み、その濁った眼を見据えて訴えた。
「落ち着いて下さい! 怪我してるのにそんなに暴れたら、あなたは死んじゃいます!」
死。その言葉を聞いて、兵士は黙ってしまった。腕も垂れ下がり、魂でも吐きだしそうな儚い声で呟いた。
「死ぬ? ……俺は死にたくない……」
言うやいなや、兵士はその場に倒れ込んだ。慌ててエディは倒れた兵士の脈を取る。弱いが、脈はちゃんとある。僅かに肩も上下しており、息もしっかりしている。二人は見つめ合うと、安堵のため息を漏らした。頷きあった二人は、兵士を抱え上げた。物分りの良いロードは、エディ達の隣で伏せる。その背中にうつ伏せとなる形で寝かせると、自分達はゆっくりとロードの手綱を引く。二人とも、早い所休める場所を見つけたかった。
三十分後、手頃な森を見つけたエディ達はそこで一夜を明かしてしまう事にした。幸い、雨ももう止んでいる。街も遠目に見え、宿屋に泊ろうと思えば泊まれる。だが、ただならぬ雰囲気を兵士から感じ取っていた二人はそれを敬遠したのだった。
「大丈夫そう?」
岩陰から顔だけ覗かせ、ヘレンはエディに声をかける。エディはヘレンに向かって首を傾げてみせた。左腕に一発の銃弾を受けており、出血がひどかったのは言うまでもない。ただ、不幸中の幸いでその銃弾は貫通していた。そのお陰で、大して医学の知識を持たないエディにも手当てが出来た。足を引きずっていたのも心配だったが、こちらも幸い捻挫していただけだった。そんな兵士の血の気がない顔を、エディはじっと見つめる。
「ヘレン、この人の心配ばかりしてないで、さっさと着替えちゃいなよ。風邪ひくよ」
後ろ髪ならぬ、前髪を引かれるような表情でヘレンが岩陰に引っ込んで行くのを目の端で見届けた後、エディは兵士がいきなり暴れ出した理由を探る。
……やっぱり逃げ出したから? でも、あんな怪我をしていたら戦場から離れるのも当たり前じゃないか。まるで殺されそうな勢いだったけど、もしかして陣地に逃げ戻ろうとした訳じゃないのか?
エディはやめた。口から聞くのが早いし、人の心理を紐解くのはヘレンの方がずっと上手い。どうしてなのかはわからないが、彼女は人の心を悟るのが得意だ。エディはこの旅の中で何度驚かされたか知れない。
「エディ?」
いつの間にやらヘレンが隣に座っていた。長旅に耐えている厚手の衣服は濡れてしまったので、ヘレンは白いブラウスに若草色のスカートという出で立ちだ。その姿を見ていると、エディは一年前を思い出してしまう。いじめられて泣き続ける日々を送っていた彼女を誘い、『神様を探す』だなんていう理由でいきなり旅に出たのだ。それが、今になってみると大昔の事のように思えた。
「ヘレン」
「何?」
ふうっと長い息をつき、エディは静かに呟く。空は晴れ、月明かりが静かに降り注いでいた。
「だいぶ遠くまで来ちゃったなぁ」
空を見つめて、ヘレンも静かに頷いた。
「そうだね」
早春の冷気を含んだ風が二人に向かって吹き寄せた。身震いしたエディは、そっとヘレンの背中に手を伸ばし、引き寄せる。ヘレンの温もりが、心も一緒にエディの体を温めた。エディは無意識に口を開いていた。
「ヘレンって、温かいなあ……」
その言葉に、ヘレンは思わずカーフェイの小説の一節を思い出してしまった。あくまで軽い調子のエディは何の気もないようだが、一方のヘレンはどぎまぎしてしまった。心臓が弾んでしまい、頬も赤らむ。息も若干荒くなっていたが、はて、と思い直した。
……私達、別にどんな関係でもないよね……エディは大切な友達。うん。
焦る必要など無いではないか。寒くなった男友達が、火にくっつくわけにもいかず、暖を自らに求めただけだ。そう整理してみれば、少しずつ余裕が出てきた。いっそのこと、小説の一節に倣ってやろう。そう決めたヘレンは、静かに歌い始めた。歌詞など無く、ただ小鳥のようにさえずるだけ。
「ルルル……ルルル……ルルル、ルゥル……」
美しい声色はエディの心を潤し、静かな夜の中に融け込んでいった。
その翌朝、エディ達は不安そうに兵士の容体を窺っていた。
「大丈夫かなあ……この人」
無表情で眠り続けている兵士の姿を改めて見つめ、ヘレンは溜め息混じりに呟く。茂みを貪るロードを見遣り、そして焼いているパンに目を落としながら、エディは静かに首を振った。
「分からない。でも、出来るだけのことはしたんだし、後はこの人次第だよ」
包帯を取りかえ、足に添え木を当ててと、本当に出来る限りの事はした。これ以上目覚めないようなら、やはり病院に連れて行くしかない。エディは彼が嫌がるだろうかと心の隅で思ったが、こんな所でのたれ死ぬのもこの人にとってどうだろうと開き直る事に決めていた。木に突き刺さったパンの表面が軽く爆ぜ、香ばしい匂いを立て始める。エディはパンを火から遠ざけた。キツネ色に焼けたパンを見つめ、エディは微笑む。
「よし、良く焼けてる。ヘレン、先に食べなよ。俺がこの人看てるからさ」
「ううん。私が看てる。エディが先に食べちゃってよ」
「えぇ? まあいいや。わかったよ」
ヘレンはエディが突き出したパンを突き返すと、再び兵士に目を下ろした。薄い茶髪。細面、真っ直ぐな鼻筋、長いまつげに細い眉。どこか猫を思わせるその顔立ちには端正という言葉が当てはまるが、同時に脆さも潜んでいるように見えた。少なくとも、兵士に向いているようには見えない。そんな感想を抱きながら彼の青白い顔色を見つめていると、間もなく兵士は顔をしかめて体を震わせた。ヘレンがあっと声上げ慌てているうちに、兵士は目を開いて急に上体を起こした。そして、リスやネズミがするように周囲を見回す。ヘレンと目が合う。兵士は目を細め、ヘレンの容姿をくまなく見まわした。ヘレンは首を傾げてその様を見つめていたが、やがて兵士は呟く。
「オレナ?」
ヘレンは小さく首を振った。当たらずとも遠からずなので少し驚いたが、やはり自分の名前ではない。兵士はひどく残念そうな表情になり、肩を落とすと再び独り言をもらす。
「なんだ、他人の空似かよ。妹かと思ったのに……」
そして、兵士の視線がエディのそれとぶつかった。同時に、兵士の中に奔流のように今までの記憶が溢れる。目を見開くと、兵士は再びエディに向かって獣性を顕わにする。歯を剥き出し、眉根に深いしわを作り、エディのことを威嚇する。
「お前、何のつもりだ! 俺なんか助けてどうするつもりだよ!」
エディは静かに首を振った。そして、黙り続ける。沈黙は重しとなって二人の間にのしかかる。エディは待った。今のところはどうせ兵士に聞く耳など無いだろう。だが、興奮している兵士がこの沈黙に耐えられるわけがない。エディは兵士がもう一度尋ねてくるのを待った。
「おい。何とか言えよ」
声の勢いが急に無くなった。人にとって、無反応は一番堪えるものだ。上手くいって安堵しながら、エディは柔和に微笑み、誠実に説明を始めた。
「僕たちは東に向かって旅をしている者で、軍の回し者じゃありません。証拠に、ここはハンガリーの陣地でも何でもないですよ。それに、あなたが助けてほしいのなら助けますから、どうか僕達を信じて下さい」
控えめにうつむき、上目遣いで訴えたその言葉。兵士にとっては殺し文句になったようだ。怒りだとか、恐れの色が立ち消え、残ったのは戸惑いと、僅かな希望にすがろうとする意志だった。呆けたような声で、兵士はエディの言葉を静かに繰り返した。
「お前は、軍の人間じゃない?」
「ええ」エディは頷いた。
「お前は俺の事を、助けてくれる?」
「出来る限り」さらに強く頷いた。
ようやく兵士は冷静さを取り戻した。あぐらに座り直すと、今一度エディと向き合った。やはり血が足りていないらしく、こちらを威嚇したときは真っ赤になっていた頬が、今は白くなっている。真っ直ぐ姿勢を保つことが出来ず、兵士は頭を左手で押さえ、右手で地面をついた。
「なら、助けてくれないか。俺は軍を逃げ出したんだ」
エディ達は一瞬目を見開き、二人でこっそり視線を交わす。半ば予想は出来たことだったが、改めて聞くとやはり戸惑ってしまった。二人の目の前で頭を抱えると、兵士は小さく声を絞り出す。
「もう俺は家族のところに帰りたい……」
エディは目を伏せ、黙って悄然とした兵士の姿を見つめる。ヘレンも同じく逃げ出したいと言った兵士の姿を眺めた後、ゆっくりと目を閉じた。自分は結果的に拒んでしまうような事をしたが、仲間、友人の大切さは身に沁みてわかっているつもりだった。たとえ同情から来る気休めだったとしても、誰にも慰められていなかったら、周囲に味方がいなかったら、いじめに耐えかねてどうにかなってしまった事だろう。それだけに、仲間を見捨てて逃げ出して来たこの青年を快く思えなかった。
「仲間を見捨てるんですか」
黙ったまま、兵士は何も言わない。時折鼻をすする音が聞こえてくるだけだ。さらに追求しようと口を開きかけたヘレンだが、エディは手で制した。人の事を言えた義理ではない。エディは想像した。自分が家族と引き放されて、独り戦場の中に放り出され、さらには腕に傷を負う。自分は怖気づくだろう。次は胸を銃弾が貫いているかもしれないと思うと、二度と戦場に立つなんて出来やしないと思えた。そんな自分が、この兵士を責める事など出来ない。それに、助けると言ったのだ。臆病風に吹かれた情けない頼みとはいえ、聞かないわけにもいかない。エディは重々しく承知した。
「あなたがそう望むなら、最善を尽くします」
「場所はどこです?」
間髪入れずにヘレンが付け加える。腑に落ちない気分だったが、エディがどう思っているかは何となく理解出来た。
……女の子の私は、一生戦場になんか立たないものね。そんな立場から責めるなんて、少しずるかったかな。
兵士は顔を上げる。目はうすぼんやりと開かれており、昨日の夕暮れに感じられた強い意志が立ち消えてしまったかのようだった。急に肩を震わせ、兵士は涙をこぼし始めた。
「すまない。一生恩に着るよ……」
ロードが急にいななく。兵士にそっと近寄り、うずくまった兵士を見下ろした。元軍馬の彼にとって、兵士の胸中は察するに余りある物だったのかもしれない。エディは、静かに二つの姿を交互に見つめていた。その時、ヘレンが静かに尋ねる。
「あの。まだ、名前をお伺いしてませんでしたね……」
兵士は静かに顔を持ち上げた。目をきつく閉じながら、震える声で名乗る。
「俺の名前は……レイリーだ……」
エディは微かに表情を緩めた。
「僕の名前はエドワード。隣の女の子はヘレンです。安心してください。最善を尽くしますから……」
「ああ……ああ……」
感涙に咽び、彼はただただ泣きじゃくっていた。
かくして、エディ達の逃避行は始まったのだった。