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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
六章 フォロ・ロマーノ
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承段 森の奥の教会

 牡鹿は微動だにせずこちらを見つめ、エディ達も口を結んで牡鹿の目を見つめ返した。風さえも黙りこみ、静寂が彼らの間を占める。それでも二人と一頭が動かずにいると、急にロードが二人の前に踏み出した。静かに鹿と向き合うと、ロードは低くいななく。しばらく間を置き、今度は鹿が甲高い鳴き声を上げた。今度のロードは足を踏み鳴らし、天を見上げていななく。すると、なんと牡鹿はそれに合わせて鳴き声を重ねたのだ。二頭のやり取りの真意がわからず、エディ達は戸惑ってその動向を静かに見守る。


 鳴き止んだ二頭が見つめ合ったかと思うと、急に牡鹿が頭を下げた。呆気に取られてエディ達が立ち尽くしていると、牡鹿は急にそっぽを向いて歩き出した。そして、数歩足を進めたかと思うと、急に再びエディ達の方を見る。その奇妙な仕草に、二人は首を傾げながら見つめあった。一方のロードは納得したようで、牡鹿の後を付いて歩き始めた。


「ついて来い、って事でいいのかな?」

「うん、きっとそうなんだよ。……それにしても、ロードと鹿が話し合えるなんて思わなかった」

「気が合ったんじゃないかな。面長の動物同士」


 ヘレンの冗談にエディは笑うと、彼女を手招きしてロードの後を追い始めた。右に行ったかと思うと、左に曲がる。しばらく行くと、また曲がる。ロードを見失わないよう小走りでその後を追っていると、何やら急に視界が開けた。土色が見えるその空間の中心には、紛れもなく白い教会が建っていた。ヘレンは背負っていた絵を取り出し、目の前の教会と見比べる。


「全部おんなじ。ここだよ!」


 ヘレンは息を弾ませた。ここにカーフェイとトニオが言っていた司祭が暮らしているのだ。エディも同じように嬉しそうな顔で、鹿にお礼を言おうと周囲を見渡す。そこで目に飛び込んできた光景に、エディは不思議な気分になって言葉を失った。


「あ……」

「こんなところにお客様ですか。しかもチェレンが連れて来るなんて。珍しいこともありましたね」


 鹿は、一人の老人に愛でるように撫でられていた。白髪を肩口まで伸ばし、目尻にしわが積み重なって細くなった眼からは慈愛の光が漏れ出している。腰は曲がらず矍鑠(かくしゃく)とした様子で、姿勢を正すとエディよりも背が高かった。そして、飾り気のない白色のローブを来ていた。彼が湛える、全てを包み込む雰囲気に心を奪われてエディ達が立ち尽くしていると、それを見た老人は困ったような顔で首を傾げた。


「おや。どうかしましたか。遠慮は要らない。こちらに来てください」


 この森が織り成す音のように響き、心に向かって語りかけるような口調に引き込まれ、エディ達は静かに歩み寄った。牡鹿のチェレンはすでに警戒を解いており、老人の隣に座り込んで動く気配はない。


「あなたが、クロードさん?」

「ええ。確かに私はクロードです。さぁ、ここに来たのも何かの縁。よければ君達の名前を教えていただきたい」


 クロードの持つ不可思議な雰囲気に呑まれそうになりながら、エディ達はそれぞれ自分の名前を名乗った。


「僕はエディと言います」

「私はヘレンです」


 元々柔和だった表情を更に和らげ、クロードはゆっくり頭を下げた。思わず二人も応じてしまう。何を尋ねても不思議などうこうとしか二人が言いそうにない状態になっていると、突然教会の扉が開け放たれて二人の幼い子供が姿を現す。


「おじいちゃん!」


 二人は無邪気な笑顔でこちらに向かって駆けてきた。どちらも幼い輪郭に、円らな瞳と小さな鼻。声も身長も同じくらいの高さ。髪型と服装を見なくては、兄弟姉妹、はたまた他人はであるかどうかはおろか、それぞれの性別さえもよくわからなかった。


「おじいちゃん、この人達は?」

「お客さまですよ。挨拶して差し上げなさい」


 素直な子供達は、純粋無垢な笑顔でお辞儀した。


「ロランです!」


 藍染めの服を着てズボンを履き、茶色の髪を短くうなじで揃えた男の子が大声を上げて挨拶する。無邪気な姿に心安らいだエディは、しゃがんでロランの頭を撫でてやる。隣にいる、濃茶の髪を背中辺りまで伸ばし、薄桃色の緩いワンピース状の服を着た女の子も、ロランに負けじと大声を上げた。


「ローラです!」


 半ば飛び跳ねるようにしてくっついてくるローラの可愛らしい仕草に、思わずヘレンの顔が緩む。頭を撫でてやると、ロランと共に心地良さそうな顔で目を閉じる。エディ達はいっそう気持ちが和らいだ。と、その時再び扉が開いて、神に仕える象徴である、黒い装いに身を包んだ女性がその姿を現した。トニオが言う通りの美人で、そのどこかに儚さも含んでいる。


「……お客さまですか?」


 そうエディ達に尋ねかけながら、静かに歩いてくる彼女だったが、クロードは浮かない顔でその動きを見つめている。その理由は程無くしてエディ達も理解するところとなる。彼女はその場にゆっくりとへたりこんでしまったのだ。


「だ、大丈夫ですか?」


 ヘレンは慌てて駆け寄り、シスターの顔を覗きこむ。彼女は肩で息をしており、とても大丈夫な状態に無いのは火を見るより明らかだ。額に手を当てると、思わずハッと目を見開いてしまうほど熱くなっていた。


「熱があるじゃないですか!」


 クロードも近くに跪き、ゆっくりとシスターを楽な姿勢で寝かせる。エディはヘレンにマントを脱ぐよう促した。ヘレンがそのマントを渡すと、エディは自分の物と結び合わせ、即席の担架を作りあげた。その上にヘレンの手を借りてシスターを載せると、大急ぎで教会へと彼女を運び入れた。



 ベッドに寝かされ、シスターの容体は幾分かはましになったようだ。肩でしていた息も、今では落ち着きゆっくりと長いものになっていた。それでも、風邪をこじらせた彼女の具合は非常に悪い。横に付き添うクロードは、心から彼女を思い遣る声を上げる。


「ルセアさん。あれほど無理はしないようにと言ったじゃありませんか。治るものも治らなくなってしまう」

「……すみ、ません」


 シスター――ルセアは蚊の鳴くような声を洩らす。熱に浮かされた彼女は前後不覚の様子、顔はクロードに向けられているもののその目は向こうの壁だか天井だかを見ているかのようで、まるで焦点が合っていない。


「大丈夫なんですか? その……ルセアさんは?」


 ヘレンは初対面にしては異常な程に心配していた。もちろん、それは誰かが病気で無くなる事を非常に恐れているからだ。たとえ他人とはいえ、目の前で苦しむ人を見るのは身を刺されるかのようにつらかった。


「いいえ。五日ほど前に風邪をこじらせて、ずっとこの調子です。多分、自然には治らない程に悪化してしまったのかもしれません」


 クロードの沈痛な面持ち、声にヘレンは顔を蒼くした。にわかにそわそわし始めて落ち着かない。下唇を噛んでいたかと思うと、イライラしたような声を上げる。今まで彼女が発した事のない声色だ。


「じゃあどうなるんです? 病院にもかからないで、ルセアさんはこのまま死んでしまうんですか?」


 エディはあっと声を上げたかと思うと、ヘレンの口を塞いでしまう。ヘレンは非難の目でエディを睨みつけたが、彼は何も言わず、ある一点を指差した。ヘレンは不満そうな目でその指を追い、そして後悔した。


「ねえ、お母さん、死んじゃうの?」ローラがヘレンの左袖を引く。

「ねえ、お姉ちゃん」ロランはヘレンの右袖を引いている。


 ヘレンは俯き目を逸らしてしまった。二人は今、前のヘレンと同じく不安に押しつぶされそうになっているに違いない。まして、まだせいぜい四、五歳といったところだ。彼女の存在は二人の全てのはずだ。ヘレンは膝をついて肩を落とし、ベッドにすがりついた。本当ならば、母のベッドの傍らでもこうしていたかったという思いに任せて。


 そんな彼女の背を慰めるようにさすりながら、エディは静かに尋ねた。


「僕達に、何か出来る事は無いんですか」


 クロードは頷いた。


「故あって、私はここを離れる事が出来ません。かといって、ロランとローラを遣いにやるわけにもいきません。初対面のあなた達にこんな事をお願いするのも不躾で申し訳ないのですが……どうかローマの街で薬を貰って来て欲しい。ここに、彼女の症状をまとめた紙があります」


 ヘレンは立ち上がり、半ば奪うようにしてクロードが差し出した紙を取り上げた。素早くそこに目を走らせると、エディの腕を無理矢理引っ張り立たせる。その目は決意の光を帯びていた。


「エディ! 早く行こう!」

「あ、あう……」


 エディが何も言えないうちに、ヘレンは彼を引きずって教会を飛び出した。クロードは微笑みを浮かべながらその様子を眺めていたが、やがて心配そうな子ども達に目を落とす。二人は、訴えるような表情でこちらを見上げていた。


「心配はいりません。あの優しい方達がきっと助けてくれます。だから、看病を続けましょう」


 二人の幼い子供を、クロードは慈悲の眼差しで励ました。ロランとローラは頷くと、ルセアの横顔をじっと眺め始める。まるで、自分の元気を分けようとしているかのようだった。



 ロードに跨ったヘレン達は、チェレンに導かれながら森の外へとただひたすらに走らせた。森を抜けるやいなやチェレンの方には目も暮れず、ヘレンはロードの腹を蹴って襲歩(馬の最も早い走り方)させる。ヘレンは冷たい風に頬を紅潮させながら、必死にロードの腹を踵で何度も叩く。


「速く! もっと速く走ってよ!」


 ロードも高らかに(いなな)き、必死にその巨体を走らせる。だが、やはりサラブレッドではなくペルシュロンなのだ。どうしても軽快に駆けるということが出来ない。蹄鉄と石畳の狭間に重い音を響かせ、ロードは骨が軋むほど全力で走った。エディはロードが年を取っていることを思い出し、前で手綱を取っているヘレンに耳打ちする。


「あんまり無理をさせない方がいいよ。ロードだって若くないんだ」

「だって……このままじゃルセアさんが……」

「急がば回れだよ。行きだけでロードがへばったら元も子もないじゃないか」


 うつむいた後に泣き出しそうな横顔を見せてから、ヘレンは手綱を指先で引いてロードの足をほんの少し緩めた。すぐ目の前には、サン・ピエトロの白いドームが近づいてきていた。



 ローマには五分ほどで辿りついた。ひとまずは街の近くにあった大樹の下にロードを待機させ、二人はローマの街に走り込んだ。


「早く行くよ!」


 普段とは違っているヘレンに戸惑いながら、エディは彼女の後を追いかけた。初めて入ったのに、何処が薬屋かなんてわからないぞ。普段と構図が入れ替わってしまった事をはっきり感じながら、エディは何とか彼女を引きとめる。


「待って。急がば回れって言ってるでしょ? ちゃんと人に尋ねながら行った方が絶対早いって」

「誰に聞くの?」


 腰に手を当てた、ヘレンの胸を突き刺すような声に耳を痛めながらエディは周囲を見回した。赤レンガの街並みを歩く人々は、早口の耳慣れない言葉でやり取りしている。彼女の嫌味ももっともだ。言葉が伝わらないのでは何かを尋ねる事など出来っこない。だが、言ってしまった以上後には引けない。意を決し、エディは通りかかった人に話しかけた。


「すみません」


 飾りっ気のない綿製の服を着た、いかにも庶民という男性は肩を竦めた。彼の目の前にいる、麻製の丈夫かつ軽快な身なりの上から、羊毛の厚い外套を身にまとうその姿は旅人そのもの。よそから来た人々の言葉などわかりようもない。


「Io non posso capire Lei dice…」(あなたの言葉はわからないんだ)


 言わんとする事はエディにもわかった。というよりはだめで元々、予想していた事だ。口元に手を当てて考え込むような仕草をした後、エディはゆっくりと身振り手振りを始めた。


「えーと、風邪を引いて……」


 エディは咳き込む真似をして見せる。


「ひどい熱を出している人がいます」


 そのまま額を押さえ、苦しそうな表情もして見せた。首が傾いだまま動かない男性だったが、何とかエディが伝えたい事は伝わったらしい。親切にも、彼はついてくるよう手招きしてくれた。何とか面目が保てた事に安堵しながら、エディはヘレンを引き連れ彼に従った。



 その先は、ハーブ独特の香りが鼻をつく店だった。男性は何かを飲むような仕草をしてくれる。ここが薬屋だと伝えたいのだろう。


「ありがとうございます」


 エディは深々と頭を下げた。構わない。手を上げそんな仕草を残し、その男性はその場を去って行った。その大きな背中を見送っていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、既にヘレンがヤロウのたっぷり詰まった紙袋を抱えて立っている。


「もう買ったから。行くよ」


 エディは感嘆を通り越し、すでに呆れていた。呆れているうちにもヘレンはすたすたと人混みをかわしながら行ってしまう。仕方なく追いかけようとしたら、薬屋の店主がエディを呼び止めた。いくらなんでも、自分を置き去りにしてロードには乗らないだろう。そう決めつけ、エディは店主の老婆の前まで歩いた。腰は大きく曲がり、黒いローブをまとったしわくちゃの老婆は、誰もが思う魔女の典型だったが、その目はつぶらで綺麗な光を帯びていた。


「どうしましたか?」


 エディはわざとらしいくらいに首を傾げて見せる。だが、老婆はその皺を引っ張るように笑い、首を振る。


「私は英語を話せる。少しなら」


 そう言って、老婆は数枚の銅貨を差し出した。意味を図りかねたエディが目をしばたかせる。


「あの女の子がお釣りを忘れた。君は彼女の知り合いでしょう? 渡して」


 エディは軽く頭を下げながらそれを受け取った。改めて店内を見ると、形様々な葉が鉢に植えられ、それぞれがまた不思議な香りを放っている。奥には薬の詰まった瓶がたくさん並べられていた。


「落ち着いたらまた来てみたいな」


 エディは溜息をつくと、ふと顔を上げた。そこにあったのは、白く丸い屋根。ギリシアのパルテノン神殿を思わせる柱で土台を飾り、緻密なアーチが幾本も伸びて屋根を支えている。先端には細やかな装飾。サン・ピエトロの大聖堂は、玉座のようにローマの中央で沈黙していた。顔をしかめてその荘厳な姿に一瞥をやると、ようやくエディはヘレンを追って出口へ向かう。もう、ローマに二度と来たいとは思えなかった。


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