起段 永久の森に
Eventful Item
教会の絵 エディの父の日記 ヘレンの母の図鑑 最新の世界地図
Money
四十シリング
「Guten Tag. Koennte ich Einkaeufe machen?」
(こんにちは、少し買い物させていただいてもよろしいですか?)
エディ達はアルプスの山へと向かう行商人と話していた。ここはローマへと続くアウレリア街道、平坦な石畳の道が草原を割り、地平線の向こうまで続いている。地中海から吹き込む海風も心地良い。
「Natuerlich. Was kaufen Sie?」
(いいよ。何を買う?)
小太りで髭を生やした行商人は、明るく頷き馬車を開けた。中には服や靴、ランプなどもあれば、宝石などが詰まった箱も置かれていた。中に入ると、エディは手頃な服を二枚取る。ヘレンに手渡すと、彼女は広げて自分の体にあてがい始めた。首を傾げながらエディは控えめに尋ねる。
「この服で大丈夫かい?」
麻製で飾りっ気のない薄茶色の服。平々凡々の生活を送っているなら文句の一つや二つも出るが、今は見た目よりも着心地、丈夫さだ。ヘレンは服を引っ張ってみたり、内側に手を伸ばして布地の具合を確かめ、頷いた。
「バッチリ、かな」
「なら良かった」
エディは行商人の方に向き直ると、懐から巾着を取り出した。
「Wieviel ist der Preis dafuer?」
(いくらですか?)
「4 Shillinge oder 1 Ecu KostenGeld」
(四シリング、一エキュってところだな)
エディは一エキュを行商人の手のひらに落とすと、ヘレンを手招きした。話も通じるのだからちょうどいい。
「ヘレン、アルプスの絵を持ってきてよ」
「はいはい」
軽い調子で応えると、ヘレンは布を解いて絵を取り出す。ローマの陽光の下で、トニオの絵はまた一味違った雰囲気を漂わせていた。ヘレンは少々緊張したものの、エディは特別不穏な様子も無く絵を受け取り、行商人に向かって差し出した。
「Koennen Sie dieses Bild kaufen?」
(この絵、買い取れませんか?)
商人は口笛を吹いた。ただ者が描いた絵でないことは一目見ただけでわかる。その場の景色をただ切り取ったのとは違うのだ。見ているだけでアルプスの涼しい空気が吹きこんでくるようだし、白い峰を照らす光も本物と見紛う。作者不詳だが、相当な腕をもつ画家に違いない。そう踏んだ商人は、いきなり手のひらを大きく広げてエディの前に突き出した。
「Verkaufen Sie nicht in 50 Ecu?」
(五十エキュでどうだ?)
エディはすぐに頷いた。それだけあれば、当分旅には困らない。トニオもこの値段で売れたと知ればとても喜ぶだろう。重みのある革袋を受け取ると、自然に笑みがこぼれてしまった。
「Danke!」
(ありがとうございます!)
と、簡単な買い物を終えた二人はさらにアウレリア街道を南下していった。本当に上古のたまものというのはありがたく、ロードも軽快な音を響かせ、楽に一時間を走破した。そうして見えてくるのは、白く小さなドーム。町の外からは一切の装飾は窺えなかったが、近づいてみればその豪壮さに二人は溜め息したことだろう。
「へえ……ここがローマか!」
エディは広げた世界地図と、目の前に広がる景色を交互に見比べながら長い息を吐き出した。無事アルプスを下り、ここまでちゃんとやって来る事が出来た安堵の気持ちもあれば、遠目に眺めても洒落っ気が感じられる街並みへの感嘆も込められていた。一方で、ヘレンはそんな街並みを象徴するかのようにそびえるカトリックの総本山を見つめていた。エディは気づいているだろうか。そうでないならそっとしておこう。そう思いやって何も言わずに済まそうとしたヘレンだったが、エディはしっかりと気がついていた。
「あの教会、法王が住んでるんだよな」
そう言うとエディは目を閉じた。小さい時分にはほとんど見せたことのなかった怒りの表情。しかし、父の日記の一ページ、そこには最早感情を抑えきれなくなった父がいた。
9月4日
今日、ルークが殺された。彼は同じ清教徒として見習うところがたくさんあった。俺は悔しい。正しい事を正しいと言い、間違っている事を間違っていると言って何がいけないんだ。カトリックの法王は何を考えているんだ。こんな事を許しているのだろうか! 会ったら問い詰めてやりたい!
だが、一ヶ月と待たずに父は母と共に命を落とした。清教徒の暴動に巻き込まれたのだ。お陰で、その息子はどちらも信じられなくなった。神の存在自体を何度疑ったか知れない。ただ、様々な人々の価値観に触れ、それもほんの少し変わりつつあった。一応は、堂々とした佇まいにも遠目にならば向き合える。エディはヘレンに振り向き微笑んだ。
「俺は気にしてない。大丈夫」
教会を見つめるエディの視線はやや厳しかったが、その後見せた笑みは自然だった。エディが無理しているようには見えず、ヘレンはほっと胸を撫で降ろした。
見つけたからといって、ローマの市街地には入らない。彼らの目的地は、そこに程近い位置にあるロマーノの丘の麓、晩秋だというのに緑が茂る、不思議な森だった。
「もうすぐ冬でも暖かいなぁ、なんて思ってたけど、葉っぱも落ちないんだ」
ヘレンが不思議そうに近くの木を見上げる。もちろん、イングランドにだって葉の落ちない木はある。しかし、それは葉が針のように尖った木であって、目の前に広がっている大きな葉がついた木ではない。そして、ここは第一に厚着する必要が無い程に暖かい時点でイングランドとは大違いだった。春のうららかな日差しが大好きなヘレンは、気分のよい子猫のように伸びをした。
「ローマってこんなに暖かいんだね」
ヘレンは納得したような声色だが、エディは不思議だった。ここに来るまでは、確かに厚着がちょうどいい気がしていたのだ。周りを見ても違和感は大きい。今まで通ってきた道は、秋の暮れに特有な、枯れ草が緑色に混じって広がる草原が広がっていたが、目の前の森の茂みは違う。どれも青々としていた。エディは唸ってあごをさする。
「そういう訳じゃないような気がするんだけどなあ……」
二人の後ろで、ロードもあまり落ち着いていないようだった。地面を引っかき、上ずった声を上げている。エディはロードのあご元をさすった。
「やっぱりロードも変だと思うだろう?」
ヘレンは口を尖らせた。仲間はずれにされたようで、あまりいい気分ではない。
「ちょっと……ロードまで味方につけないで。それに、違和感はあるかも知れないけど、別に危険な雰囲気もないよ?」
今の言葉にはエディも同意だった。危険の『き』の字はたくさんあっても、『け』と『ん』はどこにもない。エディはふと思い当たり、トニオが渡してくれた書付けに目を落とす。その中心には『永久の森』の文字が躍る。飲み込めない思いにかられつつも、エディは静かに呟いた。
「これが永久の森?」
「『永久』って、永久の春っていう意味だったんだね」
既にヘレンは森の持つ雰囲気に惹かれてしまったらしく、今すぐにでも入りたいという顔だ。普通の女の子らしい笑みを浮かべているヘレンを、エディは老婆心で眺めてしまう。
……ご両親が元気だった頃は、いつもこんな笑顔だったのかな。
爽やかな風が吹き、森から一枚の葉をさらった。一直線に飛んできて、ヘレンの広げた手のひらの上に舞い降りる。両手で優しく包み込んだ彼女は、踵を返してエディの方に振り返る。葉をポケットに収め、両手を後ろに組んだヘレンの表情そのものが、エディにとっては春の日差しのようだった。
「さ、行こうよ?」
「うん。そうしようか」
ロードの手綱を静かに引いて、エディは先を行くヘレンの背中に付いていった。
入った途端に感じたのは、二人を全て包み込むやさしさだった。森を満たす温もりは、まるで母がやさしく抱きしめてくれているかのよう、風にそよぐ葉が紡ぎ出す音は、父の笑い声のように思えた。この森に住まう獣達が付けたであろう広い道を、ヘレンは両手を広げて歩く。その方が、温もりを体いっぱいに受けられ、森の空気も吸い込みやすかった。
「なんだか幸せな気分……」
腕をぱたんと下ろしたヘレンは、満ち足りたような笑顔を浮かべているだろう。後ろを歩きながらそう考えるエディも同じだった。長い間無くしていた感情を覚え、ともすればずっとここに住んでいたいような思いまで感じた。懐かしく、幸せな心地の二人は当てもなく森を散策する。エディも、どうしてここだけ春なのかなどはどうでも良くなっていた。
「どこにその人はいるのかな? もっと奥?」ヘレンが尋ねる。
「そうだねえ。もっと奥だよ。じゃなかったらすぐに見つかっちゃうじゃないか。隠れ棲んでるんでしょ? ここにさ」
ヘレンののんびりとした足取りに合わせ、間延びした調子でエディは答える。ふうんと一言、ヘレンは首を傾げながら当てもなく獣道を歩いて行く。分岐もなく、道も淡々と伸びている。少し脇道に逸れてみようかとも一瞬考えたヘレンだったが、つい先程思い直していた。この森は大切に扱わなければならないような気がしてならないのだ。少しでも乱暴に草木を踏み倒したら、この森から怒られるに違いない。そんな事を頭の片隅で思いながら、ヘレンはエディ達を従え歩いて行く。
静けさの中、遠くに飛ぶ小鳥の鳴き声が聞こえてくる。近くで響く音といえば、ロードが草を踏む乾いた音ばかりだった。ヘレン達は話すような事もなくなり、黙って道を歩き続ける。やがて、木がまばらになり、やや視界の広い草っ原に差し掛かった。その時、エディの後ろで急に何かが草を掻き分け倒れたような音がする。エディは思わず後ろを振り向いた。
「ロード、どうかしたって、あれ?」
エディは首を傾げる。ロードは平然と後ろに立っていた。そもそも四足で立っている馬がそうそう転ぶことなどない。不思議なのはこっちの方だと言わんばかりに、ロードは短くいなないた。頭を掻きつつエディは謝る。
「ごめんよ。ちょっと疑っちゃっただけさ……」
きまりの悪い表情を浮かべ、エディは周囲を改めて見回す。すると、こちらを向いているヘレンの右奥に牡鹿がいた。冬木のように枝分かれした角を持ったその牡鹿は、静かに、すっくと、茂みに立って二人の事を注視していた。