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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
五章 アルプス一万尺
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結段 まどろみの中

 夜も更けた頃、ヘレンは急に胸騒ぎがして目を覚ました。その正体は分からない。ヘレンは自分を安心させようと、申し訳なく思いつつもエディを起こして話しかけようとする。しかし、エディは隣で起きていた。上半身を起こし、彼は何かを見つめている。ヘレンも起き上がってエディの表情を窺い、そして目を見開き言葉を失った。


 エディは黙って絵を見つめていた。夢中になっているとは違う。それならばただ『そんなに好きなの』で済んだ。取り憑かれているようならば、まだ良かったかもしれない。だが、今のエディはそのどちらでもなかった。目も口もうっすらと開いて、もぬけの殻になってしまったかのような表情、一切合切の感情を失った目で、彼はただただ目の前の絵を見つめていた。


 このままではエディが危ない。空恐ろしくなったヘレンはエディを揺すぶりだす。今の彼は正気を失っているようにしか見えなかった。エディが絵の中に魂を囚われてしまいそうで、ヘレンはただただ怖かった。


「エディ、しっかりして。しっかりしてよ!」


 途端に、息を詰めたエディの瞳孔が引き締まり、血の気も戻った。肩で荒く息をし、呆然としてヘレンの方を見た。


「ヘレン……どうしたんだい?」


 泣くまいと決めていたヘレンは、下唇を噛んで弱い感情を押し殺し、何とか気丈に振る舞う。


「今のエディ、何だかおかしかったよ。一体どうしたの?」

「どうしたのって、そりゃあ……俺、何してたの?」


 エディは何をばかなことを、とでも言いたげな顔から一瞬頼りない顔をし、そうして愛想よく笑って首を傾げた。口元が引きつっているあたり、本当に何も覚えがないらしい。いよいよヘレンはエディの異変を実感しつつ、すぐに頭を巡らせた。


「ずっと絵を眺めてたよ。こう、何だかお化けみたいな表情で」


 そう言われてみると、脳裏に浮かぶのは月明かりに青白く照らされたトニオの絵だった。だがしかし、いつから目覚めていて、いつから自分は絵をじっと見つめていたのか思い出せなかった。呆けた表情をしているエディを見ていると、ヘレンはいよいよ心配で仕方が無くなった。ため息ひとつ、ヘレンはとりあえず床に倒れ込んだ。


「エディ、明日朝早くに出ようよ。なんだかここに来てから、エディおかしいもん」

「え? ……もう少しいたいような気もするんだけどなあ。絵を描いてる所とかも……」


 再びエディの言葉が尻切れトンボに消えた。異常なほどに瞬きを繰り返し、舌が縛られているかのような声しか出てこない。ヘレンは恐ろしくなり、震える声でエディを揺すぶった。目も霞んでくる。首筋も冷える。


「ねえ! やっぱり変だよ! ダメ! ここにいたら……トニオさんの絵を見てたら、エディが壊れちゃう!」


 ヘレンの追い詰められた猫のような声色を聞いては、エディも他人事にそうなのだろうと思った。眠くなるように意識が薄れるだけで、壊れるというのはいささか大げさだとエディは思ったが、ヘレンの月明かりを返す潤んだ瞳を見ては反論する気も失せるというものだ。


「わかったよ。クロードさんっていう人の居場所もわかったし、さっさと旅を再開するかい?」

「うん、うん!」


 必死に頷くヘレンの表情を見ると、エディはため息をついて床に倒れ込んだ。


「そんなにおかしいかなあ……」


 ヘレンはエディの隣に体を寝かせ、先ほど寝ていた時よりも近くに寄り添う。エディは寝苦しいと嫌がったが、ヘレンは無視した。少しでも離れると、またエディがおかしな行動をするのではないか。そう思うと、ヘレンは安心して眠ることが出来なかった。



「朝から掃除ご苦労さま……」


 朝早くから起きだし、部屋の掃除をしているヘレンを見て、眠い目をこすりトニオは呟いた。ヘレンは精一杯の笑顔を作って頷く。


「はい。もうすぐ出発するので、せめてものお返しです」

「なんだあ。もう行っちゃうのかい?」

「ええ。目的地は遠いですから、あんまり一ヶ所に長居しないようにしているんです」


 理由としては嘘だったが、とにかくトニオを納得させ、円満にこの家を離れたかった。


「ふうん……あれ、エディは?」

「今は薪割りしています」

「ああ。助かるよ」


トニオはつまらなそうに天井を見上げていたかと思うと、おもむろにベッドを離れた。そのまま唸って絵を見つめていたかと思うと、いきなりアルプス山脈の絵を一枚壁から外してテーブルの上に置いた。ヘレンははたきを振りながら首を傾げる。


「一体どうしたんですか?」


 トニオは控えめに肩を縮めながら、絵に積もった埃を簡単に払う。朝日に照らされ、白く輝く万年雪の山麓(さんろく)。この絵は自信作だったが、今はアルプス山脈に住みついているのだ。何度でも書くことは出来る。顔がほころぶのを感じながら頷くと、トニオはそれを持ち上げヘレンに見せた。


「この絵、昨日の教会の絵と合わせて譲るよ」

「え? 一体どうしてですか?」


 エディの心配など、一切の憂慮を飛び越えて、ヘレンはただ戸惑った。どうして彼の思い出となる絵をくれるというのだろう。疑問をそのままに尋ねると、トニオは照れた顔で鼻をこする。


「実は俺、旅をしている間は描いた絵を売って路銀を稼いでいたんだ。自信作はこうしてとっておいたんだけどさ。一応旅に困らないくらいのお金には毎度なってたし……自分でいうのも恥ずかしいけど、売って旅の助けにしてほしいんだ」


 心の隅ではトニオの絵を二枚も近くに置いておくことに警鐘が鳴っていたが、トニオの計らいは純粋に嬉しかった。ヘレンは申し訳なさを含め、控えめな笑顔をする。


「ありがとうございます。何とお礼を言っていいか……」

「気にしなくていいよ。だって――」


 ドアが勢い良く開き、エディが家に颯爽と戻ってきた。


「薪割り、とりあえず終わりましたよ! って、一体どうしたんですか」


 テーブルに乗った絵を挟んで向かい合っている二人。エディは思わず首を傾げてしまった。トニオは今言ったばかりのことを、嫌な顔一つせずに繰り返す。いつものように、エディはぱっと顔を輝かせた。


「本当ですか! ありがとうございます!」


 何度も頷くと、トニオは悪戯っぽく口元に笑みを浮かべる。昨日エディが叫んだ言葉を忘れたわけはない。


「お金、困ってるんだろう?」

「え、ええ……」


 エディは口ごもった。やはり、エディが叫んだ金銭欲にまみれた言葉ははっきり聞こえていたらしい。自分が恥ずかしくなり、エディはうつむいてしまった。ヘレンは肩をすくめ、エディに耳打ちする。


「恥ずかしがってるのはいいから、お礼しようよ」


 エディはそっと頷き、こそこそと旅嚢(りょのう)を探り始めた。中からエディが取り出したのは、カーフェイから貰った小説だ。ヘレンに小さく目配せすると、彼女も苦笑いしながら小さく頷く。


「お礼と言ってはなんですが……この本を受け取ってください」


 一目見たトニオは目の色を変え、半ば奪い取るような形でカーフェイの本を取り上げて窓からこぼれる光に晒した。


「うわぁ! キータンの本じゃないか! 昔読ませてもらってから欲しかったんだよなあ……独身の俺には羨ましい恋物語ばっかりだけど……」


 パラパラとページをめくっていると、トニオはあることに気がついた。


「すごい! しかも直筆? どうして君達が持ってるんだ?」

「旅先で居候したんです」

「ええ! いいなあ。それはいいなあ……」


 トニオが興奮するのと反比例してエディ達は、その笑顔をこわばらせて見つめ合った。エディ達は本を交互に読み進めていたのだが、ある日それを読み終えたヘレンが、顔を真っ赤にして本をエディに突き出したのだ。エディも首を傾げながら結末を読んだが、やはり頬を染める事になってしまい、一日ヘレンの顔をまともに見られなくなった。


 カーフェイには申し訳ないし、名作であることにも間違いは無い。だが、元となったのが自分達とあっては、残念ながら本の存在はこの先の旅に支障を来しかねない。そのため、読み終えた時点で二人は誰かにあげてしまおうと決めたのだ。心から喜んでくれる人が持っていた方が本も幸せだろうと信じて。思った通り、トニオはほくほく顔だ。表紙の絵を二人の方に向け、トニオは幸せそうな顔をした。


「ありがとう! 一生の宝物にするよ!」


 トニオの笑顔は幸せを振りまき、一瞬ヘレンも憂鬱な感情を忘れてしまった。



 軽い朝食を食べた後、エディとヘレンはトニオに軒先で見送られながら旅立とうとしていた。


「エディ、ヘレン。俺は応援してるからね。……いつか神様を見つけたら、絶景の描き方っていうものを教えてもらえないかな。やっぱり、絵を描くのは俺の生き甲斐だからさ」


 ロードに乗る準備を着々と進めながら、エディは頷く。


「ええ。必ず」

「病気には気をつけろよ。俺みたいに旅を続けられなくなっちゃうぞ」

「分かってますよ」


 トニオの冗談めかした忠告に、エディは屈託の無い笑顔で答えた。ヘレンはじっとその笑顔を見つめていたが、狂気はそこに感じられなかった。胸中で安堵しながら、ヘレンはトニオに向かって小さく会釈した。


「昨日から、色々とありがとうございました。ご恩は忘れません」

「ご恩だなんて、そんなそんな。俺は先達として、若き旅人には色々と世話してあげる義務があるんだよ。ただそれだけ」

「なら、僕達もいつかは旅人たちの世話をしてあげないとなりませんね」


 ロードの背に跨りながら、エディは遠い目を見据えて呟いた。トニオは小脇に本を抱えて頷く。


「そういう事。旅は道連れ世は情け、世界は助け合いで出来てるからね」


 二枚の絵を背負い、ヘレンはエディの手を借りロードの背に乗る。エディの腰元で手を組み自分を固定すると、もう一度だけトニオの方に振り向いた。


「ありがとうございます。トニオさんも、ご達者でいてくださいね」


 トニオは静かに手を振った。


「ああ。君達もね」



 エディは遠く彼方の景色を見つめ、ついにロードの手綱を引いた。トニオがその背中を見つめる中、ロードは軽快な足取りで歩き出す。


「エディ、気分は大丈夫?」


 エディの背にぴったり身を寄せながら、ヘレンは声を潜めて尋ねた。前を見つめたまま、エディは唸りながら首を傾げる。


「別に大丈夫だけど……ヘレンも心配しすぎじゃないかな?」

「そうかな……そうかもね」


 最初は『そんなことない』と言おうとしたヘレンだが、急に思い直した。今から心配したからといって、何かが変わるのだろうか。それよりも、泰然自若に構えてエディの異変を正面から受け止め、向きあってあげる方がいいのではないか。そう思ってみると、何故だか肩から荷が一つ降りた気がした。空は晴れ、のどかな日差しが降り注いでいる。ヘレンは息をつくと、エディに思いきり体を預けた。


「ヘレン?」

「いいから。このままにさせて」

「ああ……いいけど?」


 エディは曖昧な返事をする。その時、ロードが急にいなないた。エディは眉を持ち上げ、ロードの首筋を撫でる。


「ん? 今日は晴れてるしね。そういう気分かな?」


 ロードはもう一度いなないた。エディは頷くと、急に背筋を正す。ヘレンも驚いてエディに倣った。


「さあヘレン。ちゃんと掴まってよ!」

「え? あ、ちょっと待って――」

「それ行け!」


 人混みを抜けたロードは、一気に加速を始めた。重厚感を投げ捨て、ロードは風を切って足を速めていく。初秋の涼しい風が二人の外套を柔らかく膨らませ、髪を静かに揺らしていた。


 トニオは、この後もアルプスの郵便配達員として、趣味に絵を描く呑気な青年として暮らしていく。彼の絵は、アルプスの住人たちに親しまれていくこととなる。


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