転段 絵描きの配達員
町の外れに配達員――トニオの家は建っていた。夕べに帰ってきた彼が言うには、この峠の街において最後に建ったのが彼の家であり、アルプスの雪のように白く、なりは小さくとも自慢の家ということだった。
「悪いね。少し待たせ過ぎたよ」
帰ってくるなり、トニオは外套を入口の側のフックに掛けながら謝る。テーブルに肘をつきながら、エディは笑顔で手を振ってみせた。
「気にすることないですよ」
エディは退屈していなかった。扉を開けたら部屋は一つと狭さを実感するつくりになっているが、その分彼の生活がぐっと凝縮されていた。とりわけ彼の旅の軌跡として描かれた絵は、どれもその場に立って見ているよう、いや、その場で見る以上に美しい景色だった。
「絵を描かれていたんですか?」
「ああ。もともとそれが目的だったんだからね。今だって仕事の合間を縫って描いているんだよ」
そう言って、トニオは壁際で裏返しにされていたキャンバスを持ち出してくる。そこにはアルプスの雄大な峰が描かれていた。万年雪の輝く美しいその景色は、同時に繊細さも兼ね備えており、エディ達にはこの絵を形容する言葉が見つからなかった。
「きれい……」
ヘレンが何とか絞り出せた言葉はこれだけだった。口達者なエディもしばらくは目をしばたかせる事しか出来ないでいた。胸の中からこみ上げてくる感情を言い表すことが出来ず、エディは口ごもる。
「なんだか不思議な気分です」
ようやく絞り出せたのはそんな言葉だけだった。トニオは自分の絵を改めて見つめる。どれにもその場の景色を見つめたときの感情、思い出が込められている。それを再確認したトニオは、静かに笑って頷いた。
「俺も改めて見ると懐かしいよ」
エディは思わず感動した。話の内容はどうということはない。しかし、こんなアルプスの峠で、オックスフォード特有の微細な訛りまでも再現する外国人に会えるとは想像もつかなかった。その感動のままに、エディは思わず尋ねてみた。
「英語、お上手なんですね。しかもオックスフォードの訛りを知ってるなんて。来た事があるんですか」
「まあ、そうだね。オックスフォード大学は絵になるし」
それを聞くと、何故かトニオは含むような頷き方をして苦笑いを浮かべた。嬉しさと申し訳なさが同居した顔だ。エディ達がその意味を掴みかねていると、人差し指で喉を突っつきながら、トニオは自分から理由を話し始めた。
「いや。俺は英語が上手いわけじゃないよ。俺はあくまで母国のフランス語で話しているつもりなんだ。君達は俺が英語を話せると思って英語を話しているつもりなんだろうけど、俺にはフランス語に聞こえるのさ」
摩訶不思議な事を言われ、エディ達は思わず間抜けた表情をしてしまった。英語がフランス語に聞こえるなどという馬鹿げた話、その次の瞬間までは到底信じる事は出来なかった。トニオはエディ達の表情に納得し、何度も頷いてみせた。
「信じられないって顔だな。まあそうか。俺だって不思議なんだし」
トニオは遠い表情をすると、暖炉代わりに焚かれているかまどの火を見つめ、静かに語り始めた。
あれは、俺がローマ近辺の森林をいい景色が見つからないかと思ってさまよっていた時の時だったな。まあ、恥ずかしい話だけど、食料が尽きるのは一度や二度じゃなくてさ。まあ、その時は野苺でも摘めば良かったから気楽だったんだけどね。だから、食料を探してさらに森林に踏み込んでいったんだ。そしたらどうだ。目の前に小さな教会が飛び込んで来たんだよ。その庭先には小さな畑もあったから、これは丁度いいや、食事くらいさせてもらえるだろうと思ってその戸を叩いたんだ。
「すいません、よろしければ食事を分けてください」
って言ってみた。そしたら女の人の声で
「ここの事を、決して他言しないと誓えますか」
なんて。そうだ、今日初めて誓いを破ってしまうんだ。君達、絶対に言いふらさないでくれよ? そうか。ならいいのさ。じゃあ続けよう。俺は『はい』って答えたよ。そしたら戸を開けて出てきたのは美人の修道女さんさ。一重まぶたの涼しい目付き、細い眉。引き締まった口元。やっぱり絵に描きたかったなあ。まあ、被り物してたし、例の黒ずくめだからそれ以上のことは分からなかったけど。そして、どうぞって通された奥にはご老人が一人。揺れる椅子に腰掛けて、窓から外を見つめていたんだ。
「こんなところに良く来ましたね。どうぞゆっくりしていってください。わたしはあなたのお話が聞きたい」
そう言ってくれたから、俺はその言葉に甘えさせてもらうことにした。とても素晴らしい御仁でね、そこにいたら、なんだか全てに関して安心したような気持ちになれた。俺は一週間くらい居ようと決めて、そこで絵を書き始めた。森林の中の教会。とても幻想的な光景に見えたんだ。
その後、決めた通りに一週間でその絵を書き上げた俺は、そろそろここをお暇します、って言った。したらさ……
「そうですか。それは残念な事ですね……なら、トニオさん。少しこちらに来てもらえませんか」
ご老人がそう言ったから、俺はついて行ったんだ。連れて行かれたのはとても不思議な空間だった。いや、空間になっていたのかな。長椅子や祭壇はいつの間にか端に追いやられていて、絨毯もはがされていて、そこにあったのは不思議な模様の床だった。ご老人は俺に向かって、その真ん中に立てって言うんだよ。まあ、俺も断る理由がなかったから言われた通りにしたんだ。そしたら、
「あなたは、これから先も旅を続けるのですね?」
って聞いてきて。もちろん、その時はここで旅を終えるなんて思わなかったから、俺は頷いたよ。したら、そのおじいさん、修道女さんから杖を受け取って、高く振り上げたんだ。するとさ、床の模様が急に輝いたんだ。俺、腰を抜かしそうになったよ。そうして、驚いているうちに光が消えて、ご老人は笑ってこう言った。
「楽しませてくれた礼は終わった。これからも気をつけてくださいね」
って。そうして、俺は全ての人の言葉が理解できるようになって、全ての人に自分の言いたい事を理解してもらえるようになったのさ。
エディは深く感嘆の吐息を洩らした。彼が話したのは、まさに奇跡の成せる業としか言いようがなかった。ヘレンはヘレンで、狐につままれ、狸に化かされたような表情をしている。こんな話が現実にあってもいいのだろうかと二人は思った。
「信じられない」
エディはだらしなく口を開けたまま呟いた。トニオは静かに頷いた。
「そりゃそうさ。俺だってたまに夢だったんじゃないかと思って、誰かに挨拶してそれを実感するんだから」
エディが曖昧に頷く横で、ヘレンはカーフェイの話を思い出していた。昔はイングランドで暮らし、今は神聖ローマのどこかに隠棲しているという司祭。急にある考えが頭に浮かび、ヘレンはおそるおそる尋ねてみる。
「トニオさん。そのおじいさん、昔はどこに住んでいた、とか話してくれませんでしたか?」
トニオはそれを聞いて困ったような表情をした。なんせ二、三年は前の事、何を話したか具体的には覚えていないのだ。それでも彼は宙を睨んだり、指でこつこつ机を叩いたりしながら必死に思い出そうとした。見ているヘレンはなんだか申し訳なくなり、謝ろうと口を開きかけた。
「あ! 思い出したぞ!」
それを遮りトニオは大声を上げた。イングランドとフランスの行き来が大変で仕方がなかったと話した時の事を思い出したのだ。
「確か、そのおじいさんはイングランドから来たって言ってたな。それがどうかしたのかい?」
どうかしたもそうかしたもなかった。まさに求めていた情報だったのだから。エディは喜び勇んで尋ねる。
「お願いがあります。その場所を描いた作品がまだあったら見せて下さい!」
いきなりの頼み事、トニオは少し渋った。うっかり喋ってしまったが、本来は墓場まで一人で持って行かないといけない秘密だったのだ。さすがに場所まで教えるような真似は気が引けた。だが、エディ達には大義名分がある。手紙を取り出し、エディは押しの一手で迫った。
「僕達は知り合いからこの人を訪ねるように言われているんです。お願いです! 教えて下さい!」
トニオは溜息をついた。そこまで言われては仕方が無いと諦め、立ち上がるとたんすの引き出しから絵を取り出した。ついでに紙を一枚取り出し、片手間に地図を描き始める。
「あんまり憶えてないし、地図は森の入口までしか書けない。迷子にはならないでくれよ?」
二人は黙って頷く。辺りは既に夜闇に包まれ、フクロウの鳴き声が外から聞こえてきた。エディは再びトニオが描き抜いた旅程の断片を見つめる。下から見上げた建物や、上から見下ろした街並み、真っ直ぐ見据えられた木。そこに降り注ぐ光の具合、街の雰囲気までも精巧に再現されており、その絵の中で、また別の営みが行われているかにさえ感じる。ただ、そんな絵を見ていると、エディは何故だか鼓動がいやに大きくなるのを感じた。心を揺すぶられ、などでは到底足りない。
「どうしたの?」
蚊が鳴くほどの小さな声で、ヘレンはそっと耳打ちする。エディはそこでようやく自分が胸を強く押さえていることに気が付いた。トニオもエディの異変には気がついていた。針穴を覗くかのような目をして、紙を四つ折りに畳みながら小さく尋ねる。
「病気かい?」
エディは首を振る。今まで心臓が悪くなったことなどない。だが、どうして急に苦しくなったのだろう。あれこれ考えてはみたものの、結局エディにはわからなかった。考えているうち、鼓動も収まってしまった。曖昧に頷き、エディは両手を上げてぶらぶらと振る。
「大丈夫みたいです」
「そっか、それならいいんだけど。はい、これね」
最後に『永久の森への地図』と書き込んだ紙片をトニオはエディ達に渡した。エディは途端に首を傾げた。
「永久の森、ですか?」
「ああ。あの感動は是非とも自分で味わって欲しいから、俺の口からはあえて言わないでおくことにするよ。見たらびっくりするはずだから。特に今時期はね」
ヘレンは永久の森を思い浮かべようとした。しかし、それだけでは森の姿はおぼろげにしか想像できない。大きく葉を広げた木々が、無数に密集しているのが何とか脳裏に浮かんできただけだ。天井をぼんやりと見つめている、そんなヘレンの表情を眺めながら、トニオは月並みのことを尋ねてみることにした。
「そういえば、二人はどうして旅をしているんだい? イングランドからこんなとこまで来るなんて、中々旅してるよ」
トニオの感心したような口ぶりを聞き、エディは姿勢を正した。司祭クロードの秘密を教えてくれたのだ。こちらも嘘は付けない。息を吸い込み、エディは一息に言ってしまった。
「実は僕達、神様を探して旅をしているんです」
「神様を……探して。へえ……」
神妙な表情になり、トニオは無感情に繰り返した。しかし、一度瞬きをした瞬間に素っ頓狂な声を上げた。
「何だって! ……それはすごい理由だなぁ……」
トニオはとにかく落ち着かず、テーブルをピアノのように叩いたり、もみあげあたりを掻いてみたり、細かい反応を数々に示していた。ただ、途方も無い理由を飲み込めずにいるというだけのようで、怒りだとか、そんな感情は一切見えなかった。急に立ち上がり、全身から空気という空気を押し出してしまうかのように強く息を吐き出すと、トニオはようやく落ち着いた。
「神様かあ。どこまで捜しに行くの」
「デオドゥンガという、世界で一番高いという山までです」
エディはてっきりさらに驚くものと思っていたが、トニオには既に免疫ができていた。目を丸くしただけで大した反応は無く、トニオはほんの少し上ずった声を上げた。
「世界一高い山かあ……そこもやっぱり神がお創りになった景観なのかな」
「どういう意味ですか?」
何かを愛おしく思うような口ぶりに、ヘレンは思わず気になって尋ねた。すると、トニオはテーブルの上の鉛筆を取り上げる。その芯を睨むようにしながら、トニオは昔話をする口調で話しだした。
「いやあ。僕の描いてきた景色はどれも僕の中では極上のものばかりさ。でも、最高のものは描けないんだ」
「どういう意味ですか?」
先程と寸分違わぬ言葉をエディはぶつける。もとより話すつもりだったため、トニオは聞いていなかったような素振りで続ける。
「これだ! と思った景色は時間をかければ描ける。だけど、どんなに頭を絞ろうが、どんなに時間をかけようが、それでも描けない景色があるんだよ。例えば……そうだな。僕が描いているのはアルプスの日の出だけど、ある一点が、とんでもなくきれいなんだ。それこそ、言葉では言い表せないくらい。そして、絵にも描けないんだ。頑張っても、目の前の景色と同じような雰囲気を出せなくて、結局上から白で塗りつぶしちゃう。その神々しさといったら、絶対人には表せないよ」
芸術論を語るに興奮したらしく、トニオは一言ごとに早口になっていく。そんなトニオの勢いを受け止め、エディはただただ押し黙っていた。その目には、トニオが誇りにしている絵が映っていた。
フクロウがもう一度、ぼうっと鳴くのが聞こえてきた。