起段 孤独の少女
神は試練を与えるという人がいる。信心の深さを試すため、人の強さを測るため、人を一度絶望へ追い落す事があるのだと。だが、その事実はあまりに残酷だ。彼女は両親という、心の支えを一気に奪い取られた。まだ十三という年端も行かぬ少女だというのに。彼女は一体何の十字架を背負って生まれてきたというのだろう。敬虔に神を信じてきた少女に、どうして神は絶望を与えるのだろうか。
栗色の髪をした少女は、鐘の音を聞きながら嘆息を洩らした。白塗りの壁に囲まれた教室の中、たった一つの出入口は無造作に開け放たれている。神学の講義を終えた講師が、閉め忘れたまま出ていったのだ。何かを呑みこんでしまいそうな空間を、その少女――ヘレンはつぶらな瞳をかげらせながら静かに見つめる。
今日の講義で講師は語った。イエス様の示された通りに生き、救済を祈りなさい。されば父なる神は決してその清い魂を見逃す事無く、天国へのお導きと、現世においてのお力添えをなさってくれることでしょうと。だが、ヘレンは祈っていたのだ。両親があわせて結核にかかってから三カ月もの間、自ら家を守り、朝にも晩にも欠かさず助けを乞い続けていたのだ。ただ一心に、彼女は再び三人で笑いあえる日々を願っていた。しかしその果てに待っていたのは、親から引き離されたまま、最後の言葉を聞けないままで二人の入った白い棺を見送る日だった。
視線を移し、ヘレンは青ざめた空に儚く浮かぶ薄雲を見つめる。今頃、父と母は天国に昇ってしまっただろうか。そんな事を思えば思う程、募るのは“神”と呼ばれる存在に対する恨みや辛み、どうして自分も両親と共に行かせてくれなかったのか。そもそも、誰とも平等に接して、困っている隣人には迷わず手を差し伸べてきた、まさにクリスチャンの鑑だった両親を助けてくれなかったのだろう。という思いだった。
ヘレンがため息をついた時、四人の少年がいきなり周りを取り囲む。彼女が暗い表情で顔を持ち上げると、少年達は皆一様に愉快そうな笑みを浮かべる。ヘレンの顔が途端にこわばった。ヘレンはこの四人が苦手だった――それどころではない。四人を悪魔と同様に恐れていた。
「よっ、ヘレン。今日も泣いてたのか?」
無視をした。早く自分から興味を失って欲しい。その一心だった。しかし、少年達は意にも介さず詰め寄る。その様は、あまりにも心ない。ヘレンがうつむいて誰とも目を合わさないようにするのを見ながら、一人はいつものように掠れ気味の喉を絞ってしゃがれた高い声を出す。
「ヘレン、ヘレン。悲しんじゃだめよ……」
ヘレンは目を見開いた。勝手に涙があふれ出してくる。それを見た四人はこぞって真似を始めた。声変わりしている途中の掠れた声は、病に伏した母の声と重なり、否応なしにヘレンの記憶を呼び起こす。風邪を押して仕事を続け、倒れた二人。わけもわからないまま隔離され、顔も見られず、どんどん弱々しくなっていく声しか耳に出来ない日々。そして、下弦の夜に父が、新月の夜に母までもが逝ってしまった。仮面を被ったかのように無表情の医師からそれを告げられた時の絶望感が、ヘレンの胸にまざまざと甦ってくる。
「やめて! もうやめてよ!」
耳を塞ぎ、首をめちゃくちゃに振りながら懇願する。しかし、四人は聞く耳を持たずにますます調子づく。
「やっぱり今日も泣いたな?」
「泣き虫ヘレン、泣き虫ヘレン!」
一人の少女に寄ってたかる少年達の横暴を見ていられなくなり、ヘレンの友人が威勢良く立ち上がった。
「また? あんた達、ヘレンの気持ちを少しでも考えた事あるの!」
もう聞き飽きたとでも言う風に、少年達は露骨に嫌な顔をして見せた。だが、いくら女子の視線といえども束になれば少年達の気を萎えさせる事は簡単に出来る。味方も居場所も無くなった四人は、再び『泣き虫ヘレンは親無しヘレン』と、軽妙な拍子を付けて歌いながら教室を出て行ってしまった。その歌い声が聞こえなくなるまでそのドアを睨みつけていたヘレンの友人は、慰めるように肩を叩く。
「大丈夫? 最低よね。人の不幸をからかう奴って」
「ごめんね。一人で居させて……」
肩を震わせていたヘレンは泣き止めそうもなかったらしく、急に席を立つと、顔を両手で覆いながら何処かへと走り去ってしまった。一瞬引き留めようとしたその友人だったが、あまりに速い足取りに、それは叶わなかった。
「ヘレン……」
そんな光景を、一人の少年が眺めていた。彼の名はエドワード。エディと呼ばれていた。何処にでもいそうな、特に意地悪なわけでも、優しいわけでもない、ただの少年だった。だが、そんな彼でもここ最近繰り返されるこの光景にはどこか引っ掛かるものがあった。だから本のページをめくる手を休めてずっとそのやり取りを見つめていたわけだが、ヘレンが消えて事態は一応の決着を見せたのにもかかわらずまだそうしているので、隣に座っている少年からはかなり奇妙に映ったようだ。
「なあエディ、お前いつまでそうしてるんだ?」
エディはようやく自分が間抜けた様子になっている事に気が付く。ばつが悪そうに隣の少年を一瞥すると、本に没頭するようなふりをした。だが、本心はヘレンの事ばかり考えていた。
……『親無し』ね……
十分程もしただろうか、エディはいきなり本を閉じると立ち上がった。隣の少年は驚いたように彼の表情を窺う。
「いきなりどうしたんだよ。午後の授業もうじき始まるぞ?」
「ごめん。俺ちょっと休むよ」
それだけ言い残すと、エディは素早く教室を後にした。エディには当てがあった。ヘレンが居る場所に見当がついていた。二人きりで一度話がしたくなったエディは、神学の次に面倒だった数学の授業を迷わず欠席する事に決めたのだ。
「おい、どこ行くんだよ? 具合悪いわけじゃないんだろ? おーい、おーい!」
その後を少年の声が追いかけたが、がらんとした廊下に空しく響くだけだった。少年は溜め息をつくと、この件には一切知らぬ存ぜぬを付き通そうと心に決めて、自分の席に腰を据えてしまった。
その頃のヘレンはというと、学校の敷地の隅にある陰にしゃがみ込んで泣きじゃくっていた。両親を流行病で失ってしまった彼女は孤児院で暮らしているのだが、それを知った少年達は満面の笑みではやし立て始めたのだ。ヘレンが泣くのが面白いのか、彼らの嫌がらせはひどくなる一方だ。彼女は母の空似を聞く度に心が深くえぐられる思いがした。それに耐えきれなくなると、ヘレンは決まってここに逃げ込み、涙が出る限り泣いていた。
……何で死んじゃったの? お母さん、お父さん……私寂しいよ。どうして私だけ残して行っちゃったの……
その時、遠くから砂利を踏む足音が聞こえてきた。あの四人だったらもっとひどいからかわれ方をする。瞬時にそう思ったヘレンは、一気に涙を拭きとって泣いていない風を装おうとする。それでも霞んでいく景色の中で見た人影は、四人の少年のどれとも一致しなかった。背丈は六十インチ(一インチ…二、五センチ)と少し、高くも低くもない。長いとも短いともいえず、癖もない茶髪。少し細めの顔立ちに丸がちの目、割と筋の通った鼻。普通という言葉の連想を地で行く容姿の少年は、今まで出会った少年の顔と一致しない。とりあえず四人ではない事に安心したヘレンは、小さな声で尋ねた。
「誰?」
「エドワードだよ。君の三つ後ろに座ってるじゃないか」
首を傾げ、今一つピンとこないヘレンだったが、あの四人ではない事が分かったために力が抜けてまた涙が溢れ出してきてしまった。エディはそんな彼女を見つめた後、今いる場所の周囲を見回す。レンガが古ぼけただとか、近くの木が大きくなったという事を除けば、昔と何ら変わりのない景色だった。木の肌をなでながら、エディは静かに呟いた。
「懐かしいな。俺もここで泣いてたっけ」
ヘレンの涙を拭う手が一瞬止まり、エディの表情を窺う。そしてようやく思い出した。彼もヘレンが住む孤児院で暮らしていたのだ。思えば、常に本で顔が隠れているのであまり表情を見た事が無かったのだ。どうしてあれほど本に集中できるのかという事ばかりが印象に残っていた。
「あ。エドワードって、私と一緒に住んでるエドワードなの?」
エディは笑顔で頷き、ヘレンの隣に腰を降ろした。教会を背にしたその位置からは、庭を囲うポプラ並木に紛れて最古の大学オックスフォードの丸い屋根がわずかに見える。隣ですすり泣き続けているヘレンを横目に、エディは努めて明るい声を出し、ヘレンをとにかく慰めようとした。
「エディでいいよ。そう、俺も父さん母さんを亡くした時はここでずっと泣いてたんだ」
ヘレンはすすり泣きを止め、手を顔から離して恐る恐るエディの表情を窺った。柔らかく微笑みながら、こちらを見つめ返している。彼の瞳には、同情だとか、憐みだとか、そういう“知らぬ者”が覚える感情は無かった。そこにあるのは、ただ何とも表現し難い、いうなれば『共有』と呼べるような感情だった。その目を見ているうちに、ヘレンは全ての感情が少し和らいだ気がした。ヘレンも微かに口元を引き上げ、笑ってみせた。
「私達、仲間なんだね」
今度はエディが彼女の姿を見つめた。深みのある栗色の髪はうなじあたりまで伸びている。やや大きく丸い目に、これまた大きめな薄茶の瞳。小さな鼻、そして少し丸みを帯びた輪郭のお陰でヘレンの印象はやや幼く見えた。そっとエディは手を彼女の肩に伸ばし、なでた。
「そう。仲間さ。だから、一人で抱え込む必要なんかないんだ。あそこにいる人みんなが、君と気持ちを共有できるんだから」
ヘレンは頷いた。両親を亡くしてから、ようやく本当に心強い味方に出会えた気がした。だが、少し気になったヘレンは遠慮がちに尋ねる。
「どうして亡くしたの? 流行病だったの?」
エディの表情に影が差した。あまり思い出したくないし、あるいはもう封じてしまって思い出せるような事ではなかったが、ヘレンの心を開ききるにはきちんと話さなければならない事もわかっていた。大きく息を吸い込むと、エディは事実だけを一気に言い切ってしまった。
「……俺の両親は清教徒だった。けど、国教会派と清教徒派に分かれて起きた暴動に巻き込まれて死んだんだ」
ルターの九十五ヶ条の論題を皮切りに始まった宗教革命。百年経った今もなお、そのうねりは留まるところを知らず、現在も旧教徒と清教徒の争いはイングランドの国王までも巻き込んで、もはや見過ごす事の出来ない事態となっていた。
それを聞いたヘレンは、何かを諦めたような悲しい笑みを浮かべた。今まで思っていても口には出した事は無かったが、自分と似たような境遇の少年が身近にいる事を今知ったこと、そして孤児になった理由が『宗教上の争い』だと聞いたこと。そのせいでついに心に秘め続けることが出来なくなってしまった。
「おかしいね」
ヘレンが放った突然の一言にエディは首を傾げた。今は事実を述べただけで、おかしいも何もない。しかし、ヘレンの様子が少し違ってきている事に気がついた。足元のタンポポを睨みつけるようにしながら、ヘレンは小さいながらも強い語気で呟き始めた。
「私達は何も悪いことしてないのに、お父さんやお母さんだって何も悪いことしてないのに。どうして死ななきゃならないの。どうして私達は寂しい思いをしなきゃならないの?」
急にエディの方を向いたヘレンの瞳はらんらんとし、エディは思わずたじろいだ。
「そんな事俺に聞かれても……」
「絶対におかしいよ。エディの父さんや母さんが死んだのはキリスト教のあり方で争いになったからでしょ? 神様がそんな事お許しになるはずがないはずなのに」
構わずヘレンは続けた。目頭は熱くなるばかりだったが、どうしてか口元は引き上がり、投げやりな笑みになっていく。金縛りにあったかのようにエディは身動きが取れず、矢継ぎ早に放たれる彼女の言葉を聞き続ける事しか出来なかった。
「ひどい。私はずっと真面目に生きてきたのに。悪い事なんか一度もした事無かったのに」
枯れかけたと思っていたが、ヘレンの目からは再び涙が溢れ出してしまった。今なお胸に焼きつく死神の影を恐れつづけた三ヶ月間の苦悩をさらけ出すかのように、彼女は叫ぶ。
「朝も晩も、神様にお願いし続けたのに! お母さんが、お父さんが倒れてから三ヶ月間、ずっとずっと助けてって、お願いし続けたのに! 何にもよくならないでお母さんもお父さんも死んじゃって! そんな神様、残酷すぎる……ううん。違うわ」
とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、しゃくり上げながら一言ヘレンは呟いた。
「神様なんかいないんだ」