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我が神を求め  作者: 影絵企鵝
五章 アルプス一万尺
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承段 峠の街まで

 結局、エディ達は二エキュを払って保存の効く干し肉、チーズ、黒パンを買ってジュネーヴを発った。そうして踏み入れた山越えの道を、ロードは最初こそ軽快、そして気楽に駆けていた。だが、二時間もした頃に、ロードは変調を来してしまっていた。



「ロード。やっぱり僕達二人を乗せて登るのは辛いのかい?」


 エディはロードの背から降り、彼のあごやたてがみを撫でてやっていた。ロードは息を荒くし、悄然と立ち尽くしている。ただでさえ体高が二メートル弱に及び、体重はサラブレッドの二頭分と、規格外の巨駆なのだ。年を取った彼にとっては、自分の体を運ぶのさえ重労働、子供二人に、荷物まで運ぶのは大変難儀だった。それでもロードは嫌な顔一つせず、ただすまなそうにうなだれている。エディはよしと頷き、隣でロードの腹を撫でていたヘレンの方を向く。


「ヘレン、ロードに合わせてのんびり行こうよ。ご隠居さんだし、旅は楽しんでもらわないと」

「そうね。それがよさそう」


 ヘレンは肩をすくめ、眉下がり気味で困ったような笑みを浮かべた。そうと決まれば話は早く、エディ達は自分の旅嚢(りょのう)を背負って歩き出した。ロードは二人に挟まれるような格好で付いていく。先程よりは幾分か楽になったようで、特に辛そうな様子や仕草もなくなった。エディはロードの顔を見上げ、柔らかく微笑んだ。


「楽になったかい?」


 ロードは軽妙ないななきで相槌を打った。彼の目には、励ますように笑う二人の顔が確かに映っていた。しばらくすると、エディの目が薄くなる。遠くを窺っているようだ。


「あれ、街じゃない?」


 エディが指差す先にあったのは、小さな家々、ところところで白い煙が細く長くたなびいている。ヘレンの胸にあった懐中時計は、既に十一時を指していた。ヘレンはぼんやりと街を見つめながら呟く。


「そっかあ。もうお昼なのね」

「へえ。じゃあ、あの街で昼食にしようか」

「はぁい」


 一回大きく伸びをしたエディはロード達の先頭に立ち、街へ向かってその歩を早めた。



 そんな日々は四日ほど続いた。ロードの緩やかな歩みにあわせ、山の感触を味わうように一歩一歩を確かに踏みしめ登る。変わり映えのある景色ではなかったが、二人ともそれぞれアルプス登山を楽しんでいた。


「ああ。この道をカルタゴの名将ハンニバルも通ったのかな……そう考えると歴史の流れを感じるよね」


 エディは愉しげにそんな事を呟く。目を閉じると、アルプスの野に象を引き連れた隻眼の英雄の姿が浮かんでくるようだった。歴史に明るくないヘレンにはエディの旅情がよく分からなかったが、すぐ側に見慣れない花を見つけて目を輝かせる。


「ねえ、あの植物、お母さんの図鑑に載ってないかも」


 ヘレンはエディの方を何度も叩いて指差した。岩の上に生えたそれは、黄色く小さく、粒を集めたような形の丸い花をいくつも咲かせていた。小さくまとまったその植物は、木もまばらなアルプスの野にたくましく根付いていた。ヘレン達は思わず近寄りしゃがみ込む。エディもかわいらしい花の姿を間近に眺め、その目を細める。


「そうだね。俺の記憶じゃ載ってないと思うよ。ヘレン、描き足す?」


 ヘレンは人差し指で宙に円を描いていたが、やがてその指を握りこぶしに戻して首を振る。


「ううん、いい。だって、私お母さんほど絵が上手くないもの。名前もわからないし」

「ふうん……だったら……」


 ヘレンは右を見てエディの表情を窺う。『俺が描くよ』、当然そう続くと思った。しかし、エディは一瞬遠い目をし、右手に何か握りつぶすかのような動作をさせた後、すぐに立ち上がってしまった。ヘレンは戸惑い目を丸くしてエディの後を追いかける。


「え。結局描かないの?」

「ああ。何だか気分が悪くなってきた。やめておくよ」


 何でもない調子で言われると、余計にエディの容態が気になってしまう。ロードの肩を叩いて歩かせ始めたエディの表情を、ヘレンは心配そうな顔で見つめようとする。


「気分が悪い? ねえ、大丈夫なの?」

「ああ。何だかぼぅっとしたんだ。気力が失せていくような……何だかそんな感じ」

「そんな……気力が失せるって……」


 ヘレンは思わず立ち止まってしまった。エディはそれにはまるで気がつかないかのように歩き続けていく。ヘレンの頭の中に、エディが先日見せた無機質な表情、冷たい声色を思い出した。彼の父や母が信奉していたという、抵抗者(プロテスタント)達誕生の地。それを目の当たりにした途端、エディは普段の明るく、真っ直ぐな表情を吹き消した。人形のように虚ろな目をし、抑揚のない口調で話した。ヘレンは彼が心配になる。常に明朗に振舞うエディだが、そこにはガラス細工のように儚い部分が存在するのではないか。自分と同じく、親を奪われた理不尽を、実はまだ呑み込みきれていないのではないか。ヘレンはそう思った。

 その真偽を考える間もなく、エディの声が遠くから響いてくる。


「ヘレン! 街があったよ!」


 その声は、いつものエディに戻っていた。ヘレンは心に抱いた不安を心の奥に押しこみ、稜線の上に立っているエディの姿を見上げた。


「うん。今行く」


 とりあえずは見守ろう。危なくなったら、絶対に私が支えてあげないと。そう心を新たにし、ヘレンは先を行くエディの背中を追いかけた。



 昼食時ということもあり、街にたどり着いた二人はとりあえず食べ物を買って空腹を満たした。エディ達の所持金は旅立った時に比べて半分になってしまっている。改めてその事実を実感すると、二人は気が重たかった。


「お金が足りなくなってきちゃったか……どうにかしてお金を工面する手段を考えないと……」


 エディは財布を覗きながらため息をついた。実のところ、カーフェイはお金を出すと以前に提案してくれたのだが、二人はきっぱり断っている。今になってみると、伊達の薄着だったと後悔ばかりだ。ヘレンは肩をすくめ、上目遣いでエディの表情を窺った。


「手段? 私達に売るものなんか無いよ。一体どうするの」

「そうなんだよね」


 ヘレンの指摘に、エディは相槌を打つしかない。となれば節約だが、川が近くにあれば釣りで何とかなるだろう。だが、釣りも野宿も出来るのは秋までだ。突き当たった壁の高さを実感して重苦しい気分になった時、そんな感情を軽く吹き飛ばす大声が飛んできた。


「誰か! そいつを捕まえて!」


 思わず飛び上がりそうになった二人の目に、鞄を脇に抱えて走る青年が飛び込んできた。ヘレンはその鬼気迫る青年の表情を見て、思わずエディの陰に隠れてしまった。初対面の大人と簡単に話す事さえ出来ないのだから、捕まえるなど土台無理な相談なのだ。すれば、もう頼りになるのはエディだけだ。


「そこどけよ!」


 青年はエディに叫ぶ。エディは避ける素振りを見せるが、頭の中にあったのは、昔父と共に原っぱで走り回った光景だった。


 ――父が追いたてたうさぎが、必死にこちらに逃げてくる。そのまま突っ立っていたらうさぎはどちらかに曲がるだろう。だが、わざと避けてやればうさぎは進路を変えない。隣を通り過ぎようとしたうさぎの足を、エディは軽く払うだけ――


「いってぇっ!」


 狙い通り、盗人はエディの足に躓き転ぶ。同時に鞄が投げ出され、中身が道中にばらまかれた。そっとしゃがみこんだヘレンは、静かにその中身を拾い上げる。手のひらに少し余るほどの大きさで、中心よりやや下に、赤い封印がされている。


「何これ? 手紙?」


 エディも散らばった紙を一枚拾ってみると、確かに宛名が記されている。どうしてこんなものを盗もうとするのか不思議に思ったが、考えてみる間も無く青年が暴れ出した。


「放せぇ!」


 青年は元の持ち主――茶色い兵隊のような服を着て、赤い制帽を被った配達員に取り押さえられていたが、その腕を振りほどくとそのまま手紙に飛び付いて漁り始めた。エディは反射的に青年を引き剥がす。


「どうして手紙なんか盗むんです? 別にお金が入ってるわけでもなし!」


 真に迫った、勢いのある台詞に青年は抵抗の意思を失してへたりこんでしまった。配達員と衛視がそこに駆けつけ、青年を取り押さえる。衛視が青年を後ろ手に縛り上げてしまったのを見届けると、配達員はやれやれと腰を打ちながら立ち上がり、エディに向かって困ったような笑みを見せる。


「ありがとう。お陰で助かったよ」


 エディは曖昧に頷く。人を怖じ気づかせるほどお金を欲しがっている自分が恥ずかしかった。返事をしようと口を開きかけた時、青年のわめく声がエディの言葉を遮った。


「頼むよぉ。このままじゃリラちゃんに宛てた手紙がミハエルにぃ……」


 悲痛な声色に耳を塞ぎ、衛視が問答無用で青年を引っ張っていくところだった。エディ達は苦笑いしながらその姿を見送り、それから話題を戻した。


「ああ。そういうことだったのか。本当に手紙しか入ってないから、盗む意味はなんにもないと思ってたんだけど」


 配達員の言葉に、エディは相槌を打った。


「Ich liess eine Person den Liebessturz haben, es ist die Strasse」

(恋は人を盲目にする、その通りですね)

「へえ。よくそんな言葉を知ってるな」


 笑顔で答えてみせた配達員には、まだ気になる事があった。丁寧ではあったが、あまりにもぎこちなく、お世辞にもまともなフランス語とは言いがたいものだった。配達員はエディの鼻先を指さす。


「あと、そのたどたどしい話し方、君達この国の人じゃないね」


 エディ達はその通りだと頷いた。だが、言い当てはしたものの、配達員は不思議そうな表情をしたままだ。そもそも二人の年がまだかなり若そうに見えたからだ。そのまま、配達員は二人になぜこんな所にいるのか尋ねかける。


「旅をしているんです」


 エディがそう言うと、ほうっと息をついた配達員は感慨深そうな表情になった。その目はどこか違う世界を見つめているようだ。


「そうか。旅はいいよな。俺もここでどん詰まりになるまでは旅してたんだ」

「どん詰まり?」


 配達員は頷き、制服を持ち上げた。右下腹部に大きな傷が残っている。エディは思わず息を呑み、その傷跡をまじまじと見つめた。


「この街に入ったとき、盲腸になっちゃってね。痛みに耐えられなくて、病院に行ったらすぐ手術。一ヶ月くらいはここで生活したんだ。自分の旅の掟として、一宿一飯の恩義のお返しを絶対にしていたんだけど、あんまり長い間介抱されてたもんだから、もう借りを返しきれなくなっちゃってさ。いやあ。懐かしくてつい喋りすぎた」


 照れたように配達員が頭を掻くと、間合い良くヘレンが彼に鞄を差し出す。


「お兄さん。これ」

「ああ。悪いね……そうだ。今日俺のうちに来なよ。もっと話がしたくなったからさ」


 断る理由はどこにもない。彼の糸を引いたような目からのぞく、犬のように人懐っこい瞳を見つめ、エディは即答した。


「はい。もちろんです!」


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