起段 アルプスのふもと
Eventful Item
小説『真実を求めて』 エディの父の日記 ヘレンの母の図鑑 最新の世界地図
Money
四十五シリング
「高ぁい……これがアルプス山脈かあ……」
愛着を込め、ロードと名付けた馬の上で、ヘレンは目の前に鎮座する巨大な山嶺を見上げた。カレー地方からでも、よく晴れた日には空に張り付く景色として映るのだ。相当な高さ、イングランドの北西に広がるカンブリア山地ほどはある山々が広がっているのだろうとは思っていたが、実際目にしてみれば、そのカンブリア山地よりさらに二倍はあるように見えた。エディは感嘆と落胆の入り交じったため息を洩らす。
「確かにすごいけど、これを越えて行くとなると気が重いよ」
彼らがアルプス山脈を訪れることになったのは、約二週間前、カーフェイが涙を流して心境を吐露した後の出来事に起因する。
「もうすぐ作品は出来上がるけど……これから君達はどういう道を取るつもりだい?」
カーフェイは羽根ペンを振り、その羽根がゆったり揺れるのを見ながらエディ達に尋ねた。エディは手際よく地図を広げると、でかでかと書かれた『アルプス山脈』の文字を指差す。カーフェイは立ち上がると、エディの隣に席替えしながら地図を覗き込む。その様子をルーシーの隣でじっと見ていたヘレンだが、彼女もそっとエディの空いた隣に座った。
「地図を見てみたんですが、このまま東に進むとロシアに行く事になっちゃうんですよね。それは止めておいた方がいいかと思うんです」
エディの真剣な瞳を見て、カーフェイは満足気な表情をする。
「ああ。止めておくのが得策だよ。ここはそうでもないけど、ここから先はどこも宗教改革のうねりと領土権争いの拡大で混乱が続いているしね。ということは……」
含みを持たせたその口振りに、エディは黙って頷いた。もうすぐ八月も終わりだ。このまま東へ行き、真冬のロシアを横断するというとんでもない暴挙は冒したくなかった。となれば、取る道はやはり一つしかない。
「南の方に進路を直して、アルプス山脈、神聖ローマの南部という道を行くつもりです」
「そうだね。それが一番だよ」
カーフェイは表情を和らげた。出来のよい息子を自慢に思う。そんな微笑みを浮かべつつ、カーフェイはルーシーに目配せした。ルーシーは手を軽く上げて応えると、エプロンのポケットから手紙と地図を取り出し、ヘレンの前に差し出した。
「それならこの手紙を持って行って」
ヘレンはそれを両手で丁重に受け取る。ルーシーは右手を腰に当てて片足に体重を乗せながら、椅子に座っているヘレンの目を覗き込むようにして話しかける。
「ヘレン、さっき私は『クロードさん』っていう司祭様の下で働いていたって言っておいたわね」
「はい」ヘレンは一も二もなく頷く。
「実はね、クロードさんは今神聖ローマの方で暮らしているらしいの。昔から私達はクロードさんの親切に助けられてきたけど、あなた達みたいに真っ直ぐな子達なら、迷わず手を貸してくれると思うわ」
「どのように?」
エディが首を傾げると、ルーシーは曰く有りげな笑みを浮かべながら、人差し指をそっと口元に当てた。
「それは秘密にしておく約束なの。エディ達が自分で確かめないといけないわ」
「はあ……まあ、とにかくありがとうございます!」
エディ達が手を差し伸べると、夫妻は笑顔で握り返してくれた。
そんなこんなで、エディ達はフライブルクの街を南に抜け、ロードの早駆けでバーゼルを通過し、ロードに気持ちよく走らせながらベルンの街を抜けた。それから湖のほとり、ローザンヌでひと息入れ、カーフェイの下を出立してから二週間でアルプスのふもとにおける最大の街、ジュネーヴに辿りついたのだった。
「さて……どうしようかなあ?」
エディは頭を掻いた。アルプス山脈には、別段エディ達に立ちはだかろうという気は無いのかもしれない。だが、古来よりハンニバルのアルプス越えなど、歴史的な大変動に関わってきたアルプスの威厳はそれだけでエディ達を圧倒した。ロードも落ち着かない様子で地面を引っ掻いてばかりいる。
「とりあえずは情報収集じゃないかな。登山って、何をすべきかよくわからないし」
腕を天に突き上げ伸びをして、ヘレンはおもむろに話しだす。エディは一瞬頷きかけたが、ふと茶目っ気にかられてからからと笑ってみせる。当然ヘレンは困ったように口を鼻に近づけ、目も丸くして、半ば叩くようにエディの肩をせっついた。
「ねえ。どうしていきなり笑うの?」
エディは狙いの魚を引っ掛けた気分になった。後は丁寧に釣り上げるだけだ。
「だって、登山は山を登るに決まってるじゃないか」
ヘレンは丸いその目を糸が張ったように細くして眉は逆さ八文字、ついでに口を尖らせつつエディの肩を思いきり叩いた。
「もう! そんな冗談言わないでよ!」
エディは歯を見せ噛み殺したような笑い声を上げて、ロードから勢いよく飛び降りた。からかわれて気分を害したヘレンは、エディが残した手綱を彼が降りた側に引く。ロードは反射的に右を向いてしまった。
「いたッ!」
自分の胴体より大きなロードの頭に激突され、エディは地面に突き飛ばされてしまった。それをヘレンは、すまして見下ろし手綱を引いた。うめきながら立ち上がるエディを置いて、ヘレン達は悠然と街中へと闊歩していく。
「待ってよぉ……」
エディは頭をおさえながら、よろよろおぼつかない足取りでロードの後を追いかけていった。
街はレマンの湖を中心に、放射状に通りが発展しており、石造りの建物が整然と立ち並んでいた。街の外側まで伝わる閑静な雰囲気にふさわしいように人通りも少なく、ときおり誰かとすれ違うくらいだった。それ以上の秘密がこの街には込められているが、エディ達はまだ気がつかない。
「なんだろうなあ。都会、ってわけじゃないけど、田舎ってわけでもないし……」
エディは軽く声を弾ませ、興味深そうに街角を見つめる。木造建築が多いロンドンとは違って、パリもジュネーヴも石造り、レンガ造りの建物が多い。ロンドンで感じた雑多な雰囲気もなく、ここは清楚な女性がまとう雰囲気に通ずるもので満たされているようだった。ヘレンもロードから降り、エディの隣に付いて歩いていた。いつも通りに子犬や子猫のような目をしながら周りを見渡しているところを見るに、ヘレンはひとまず機嫌を直したようだ。
「さ、登山には“何が必要か”考えましょ?」
どこか皮肉めいた語調の強さでヘレンはエディに話しかける。エディは安易にからかったことを薄々後悔し、額を拳骨でこつこつ叩きながら人がいないか見回した。と、近くに立ち止まってこちらを窺っている女性が二人いた。何事か興味ありそうな表情で話し合っている。ぽんと空いている手のひらを打ったエディは、いつものように人当たりのよい笑顔で歩み寄る。
「Mir tut es leid. Will ich uns fragen, aber stelle Ihnen vielleicht eine Frage?」
(すみません。私達には聞きたいことがあるのですが、質問してもよろしいですか?)
若い女性達はエディ達二人が引き連れている巨大な白馬に気を引かれていたのだが、エディの丁寧なドイツ語にもしっかりと応じてくれた。
「Bestimmt.Was fuer eine Frage ist es?」
(どうぞ。何かしら)
「Wir sind Absichten mehr als Alpen, aber gibt es die notwendige Sache von jetzt auf?」
(これから私達はアルプス山脈を越えるつもりなのですが、必要なものはありますか)
女性は二人見つめあって考えていたが、やがて向き直ると、肩をすくめながら首を振った。
「Nein. Es gibt besonders nicht es.Ich glaube, dass Sorge Wasser und Essen auf alle Faelle vorbereitet haben sollte. Weil sich ein Gebirgsdorf entwickelt, ist es nicht notwendig, es zu uebertreiben.」
(いいえ。特にないわ。どうしても気になるなら、水や食料くらい用意したらいいんじゃないかしら。山里が発展してるから、無理はいらないはずだけど)
「Ich verstand es. Danke.」
(わかりました。ありがとうございます)
「Sie sind willkommen.Immer noch ist dies ein grosses Pferd」
(お気になさらず。それにしても、大きな馬ねぇ)
女性達は、半ば感心したかのような口ぶりでロードを指差す。エディはロードと見つめ合った。尻尾を軽い調子で左右に振り、ロードは慣れっことでもいうかのように鼻を鳴らした。案外女性たちの言葉が理解できているのかもしれない。エディはもう一度女性の側に向き直る。
「Dies ist unser Stolz, und die Macht ist auch stark.」
(僕達の自慢です。力も強いんですよ)
納得したように愛想のよい笑いを浮かべると、女性は二人連れ立ちその場を後にした。年頃の街娘、という印象の背中を見送ると、エディはヘレンと目配せする。
「水や食料があればいいくらいだってさ。案外大変でもなさそうだね」
「うん。だといいけどね……」
ヘレンは頬を人差し指で何度も叩きながら呟いた。嫌な予感とまではいかないものの、少々不安な気分がヘレンの心中の隅に巣食っていた。エディもそれには気がついたようだ。口元を引き上げ、いつものように励みになる笑顔でヘレンの肩を叩いてみせた。
「大丈夫だよ。別に死ぬような目には遭わないはずさ。峠の上にだって人は住んでるよ、きっと? それより、さっさと食料を買ってこの街を出ようよ」
エディの笑みは確かに自分を勇気づけてくれたが、それでもどこかが違った。口元の引き上がり方が硬い。頬もどこか震えているような気がした。ヘレンは微かに不審な気になり、ロードを引いて先へ先へと進もうとするエディの顔を覗きこもうと早足になった。
「ねえ、どうしたの? 何だか変だよ?」
「別に変じゃないけど。どうしてそう思うんだい?」
「だって……」
エディはあくまでそっけない返事だった。感情の機微が『何となく』わかってしまうヘレンは、エディが何かを押し隠したのが分かってしまった。だが、無理に聞き出そうとしては彼が機嫌を悪くしてしまうかもしれない。仕方なく、ヘレンは何も言わずに黙っておくことにした。自然に溜め息が洩れてくる。
その時、エディがふと白い建物の前で足を止めた。彼があまりにその建物を凝視するので、ヘレンも気になりその建物の方へ目を向けた。噂に名高い、ギリシャのパルテノン神殿のような柱が入り口の前を装飾として飾っており、白い石造り、焦茶色の扉が重厚な雰囲気を保ち、繊細な作りの窓枠が、建物に荘厳な空気を含ませていた。この建物こそプロテスタントの祖、カルヴァンが本拠としたサン=ピエール大聖堂だった。ヘレンはエディの様子がおかしくなった理由に気づいた。同時に、エディは踵を返してその場を離れようとする。
「ヘレン。早く行くよ」
エディのつっけんどんな物言いに戸惑いを隠せないまま、ヘレンは渋々エディとロードの後を駆け足で追いかけた。一方のエディは、さっさとこの街を離れたくなった。カトリックの総本山も真っ平だが、やはりプロテスタントの総本山にも近寄りたくなかった。心がかき乱されるような気がして、平静でいられない。
「この街はやっぱり好きになれない」
父は尊敬するカルヴァンが暮らしていた街を一度訪れてみたいと日記に遺していたが、エディはその意志を継いだ気にはとてもではないがなれなかった。