結段 やくそく
「やった! やったぁッ!」
次の日、カーフェイは東雲の空に向かって凱歌を上げる。テーブルの上、そこに積み重なる羊皮紙の山の一番上。その羊皮紙の最後には、『Fin』の文字が流暢な丸文字で書き抜かれていた。カーフェイは犬の遠吠えのように、朝日に向かって声を限りに叫ぶ。
「出来た! 出来たぞ!」
カーフェイは喜びに震えながら、ウサギのように床を跳ねて小躍りしていると、三階の寝室から駆け下りてきたルーシーに紙くずを投げつけられた。ルーシェやエディ達も、眠い目を擦りながら寝室から降りてくる。昨日の愛おしそうな目でカーフェイとの絆を語った姿はどこへやら、口を尖らせむっとした表情をしている。寝込みを大声で襲われたのだから、誰でも腹は立つのだが。
「うるさい! 今何時だと思ってるの?」
普段は素直に謝ったであろうカーフェイだが、この記念すべき『キータン・フォックス』復活の日ばかりはそうもいかない。雀のように軽快な足取りで、ルーシーに近づきその手を取ると、ルーシーが頬を染めて顔を背けたのも気にせずその手の甲に口付けし、そのまま抱きしめてしまった。
「出来た! 出来上がったんだよぉ!」
「ちょっと……いきなりはやめてよ」
ルーシーは頬が火照るのを感じて口ごもる。子供達の目の前では少し恥ずかしい。ヘレンやエディも頬を赤くしてこちらを見つめている。当然目が合ってしまった。ルーシーは愛想笑いをする他にない。いつまでもこうしていたいとも心の隅で思ったが、若い少年少女をこれ以上刺激すまいと心に決め、カーフェイの胸の中でもがいた。
「ねえっ。そろそろ……」
「あ。ごめん。苦しかった?」
見当違いの心配をしながら彼女を解放したカーフェイは、酔ったようにおぼつかない手で原稿をまとめ始めながらエディ達に向かって言う。
「今すぐ製本するから、着替えでもして待っててよ! ……あっ」
原稿を床にばらまいたカーフェイにエディ達が返せた反応は、数度目を瞬かせることぐらいだった。苦笑してため息をつくと、二人は着替えをしに再び寝室へと向かった。
エディ達が旅の支度を終えると共に、カーフェイは製本を終えた。綺麗な青表紙に閉じられたそれは、もう立派な小説だ。ただ、それをいきなりくれるというのでエディ達は戸惑ってしまった。カーフェイが必死に突き出す本を、エディは両手を広げ、それを突き返すかのような仕草をする。
「ちょっと待って下さいよ。それを僕達がもらったら、翻訳に困りませんか?」
「ううん。大丈夫だよ」
カーフェイは指を振って見せると、鉛筆と白紙の束を取り出した。例の下敷きにしていた羊皮紙だ。彼は曰くありげな笑みを浮かべると、白紙の束を鉛筆で擦る。
「すごい……」
エディは呆気に取られて呟いた。単なる白紙と思われた羊皮紙に、みるみるうちに文字が浮かび上がっていく。カーフェイは満足げに頷いた。強い筆圧によって筆跡が写り、鉛筆に塗りつぶされることが無かったのだ。カーフェイは満面の笑みで、再び青表紙の本を突き出した。
「羽根ペンを無駄にし続けた甲斐があったよ。これで何事も無くこの本を渡せる」
青表紙には、『真実を求めて キータン・フォックス』と金文字で刻まれていた。エディは恭しく両手で本を受け取り、旅嚢の中へ丁寧に収めた。ヘレンと頷きあうと、静かにカーフェイ夫妻に頭を下げる。
「今まで、ありがとうございました」
ルーシェが駆け寄って来て、エディ達を見上げた。二人の雰囲気が変わってしまったことに戸惑っている様子だ。今までは本物の兄や姉のようだったのが、急に他人になってしまった。ルーシェにはいつものような笑顔はなく、ただただ不安な目で二人のことを窺っている。
「ねえ。二人ともどうしちゃったの」
エディはルーシェに向かって微笑み、しゃがみ込んで目線を合わせる。ルーシェは今にも泣き出しそうで、その丸い瞳は揺れていた。いよいよエディはルーシェの様子に戸惑い、何とか取り繕おうとする。
「ねえルーシェ。俺達はまた旅に出なきゃいけないんだよ。この旅は、僕達にとって必要なんだ」
まだあどけない子どもが、それだけの事で納得出来るわけもなかった。大粒の涙が彼女の服にしみを作っていく。顔をくしゃくしゃにして、震えるようにしゃくりあげる。エディは戸惑い、掛ける言葉が見つからずに口ごもっていると、ルーシェは声を振り絞った。
「いやだ!」
どこにそんな力があったのか、しゃがんでいたエディを脇に押し退けると、床に置かれていたヘレンの旅嚢を奪い去ってリビングを飛び出した。カーフェイは声を上げ、慌てて追いかけようとしたが、エディが足元で倒れていたせいで足踏みをしてしまう。エディは起き上がって視線をカーフェイの足元に下げる。
「すみません」
「いえ……こちらこそ……」
エディとカーフェイが互いに申し訳なさそうに手をいじっていると、いきなりルーシーが手を高らかに鳴らして二人の注意を集める。エディとカーフェイは首だけでルーシーの方に振り向いた。
「謝りあってる暇なんかないわ。追いかけないと」
「あ、ああ。そうだね」
カーフェイが先頭、ヘレンがしんがりとなって階段を駆け下り、四人で店前の通りに躍り出る。しかし、運は悪く仕事始めの時間帯、人の往来が多く、小柄で華奢なルーシェの姿などはとうに人混みの中に紛れて見えなくなってしまっていた。ルーシーは鼻息荒くし、腰に手を当てて歯を噛み締める。
「参ったなあ。これじゃあ追いかけられない……ごめんね。私が前々からルーシェに言い聞かせてれば……」
エディは焦りから浮かび始めた汗を拭いながら首を振る。
「いえ。この事は誰が悪いなんてありませんよ。ルーシェに僕達との別れの話を切り出すなんて難しいですし……これは、きっとその勇気がなかった僕達全員の責任で……」
「そんな事言ってる場合じゃないよ。とにかくルーシェがどこに行ったか探さないと」
ヘレンは慌てるあまりに当てもなく一マイル四方もあるフライブルクの街中を走りだそうとしたが、エディが何とかその肩を掴んで制する。振り返ったヘレンは不審そうに目を細め、エディの心配そうな顔を見つめた。
「どうして止めるの?」
「待った。当てもなく探したってだめだよ。俺に思い当たるところがあるんだ」
言葉を切ると、黙して腕組みしていたカーフェイの顔を窺う。
「カーフェイさん。きっと“あの場所”ですよね」
カーフェイは行き交う人込みを見つめる。出会った人々は、何事もなく挨拶し、適当な世間話をすると、また何事もなくそれぞれの目的地へ向かっていく。深々と息をついて、カーフェイは静かに頷いた。
「ああ。きっとそうだろうね」
「やだ。やだ。お兄ちゃんとおわかれなんて。お姉ちゃんとおわかれなんて……」
桜の大樹の下で、ルーシェは膝を抱えるようにしゃがみこみ、とめどなく溢れる涙をずっと拭っていた。エディやヘレンが旅人だということ、いつかは旅立ってしまうことは、きちんと納得しているつもりだった。だが、一人っ子だったルーシェは、兄弟姉妹のいる家庭が羨ましかったのだ。
「どうして? ずっと一緒にいたいのに……」
教会に行った時、いつも願う『兄弟が欲しい』という願い。ついにそれが叶ったと思った。しかも、いくらいてほしいと思ったところで、無理だと諦めていた兄に姉だ。毎日が何倍も幸せだった。仕方ないことだと分かっていても、ルーシェはどうしてもエディ達が旅立ってしまうことを認めることができなかった。一際大きくしゃくりあげたとき、草を踏みしめる柔らかい足音が微かに聞こえてきた。ルーシェは手をどけて顔を上げる。
「……エディ……お兄ちゃん?」
「うん。やっぱりここにいたんだね」
一足先にやって来たエディは、ルーシェに向かってそっと微笑みかけ、泣きじゃくる彼女の隣に座った。途切れ途切れに、ルーシェはエディに向かって尋ね始める。ルーシェの泣き顔を、エディは黙って見つめた。
「どう、しても、行っちゃう。の?」
「ああ。一度探すって決めたわけだもの。途中でやめたら、何だか落ち着かなくなる。答えを見つけろって、自分の中で何かが叫んでる気がするんだ」
「何かが?」
ルーシェが首を傾げる。エディは雲がちな青空を見つめた。
「そうだね。何だろう。説明できないけど……俺の心が、神様がいるかどうかの答えを求めてるんだよ、きっと」
「エディは、神様にいてほしいの?」
口を酸っぱいものを食べたときのようにすぼめ、目を丸がちにしながらエディはルーシェと目を合わせ、そしてまた空を見上げた。先程よりも雲が東の方角へと動いており、雲に隠れていた太陽が半分姿を現していた。その眩しさに、エディは思わず目を細めた。
「どうだろ。俺にもよくわからないかな」
「ふうん……」
ルーシェは伸ばした足をばたばた上下させた。エディの隣にいるだけで心が落ち着き、いつの間にか涙も止まってしまう。そよ風のように心地の良い口調を耳にしているだけで、ルーシェは何故だか気分が安らいできた。そして、もじもじと恥ずかしそうに手を軽く揉んだ後、左脇に置いていたヘレンの旅嚢をエディの膝の上まで持ってきた。
「ごめんなさい」
「いいよ。ルーシェはやっぱりいい子だね」
「エディ! ルーシェ!」
エディがルーシェの髪をいつものように撫でてあげたとき、景色の向こう側から、ルーシーの透き通った声が飛んでくる。ルーシェは立ち上がり、ヘレンとカーフェイを従え駆け寄ってきたルーシーの胸に抱きつく。一旦泣き止んだと思ったが、再び彼女はすすり泣きを始めていた。
「ごめんなさい。お母さん……」
「ううん。お母さんも寂しいもの」
エディは立ち上がり、ヘレンに旅嚢を手渡しながら目配せする。ヘレンは静かに頷いた。言葉はかわさなくても、何を言い出そうとしているかはすぐに分かった。旅嚢を背負い直したエディは、何の前触れもなく切り出した。
「また来ますよ」
カーフェイ一家は振り向いた。それぞれエディが口にした言葉に驚き、目を瞬かせたり、口をつぐんだり、泣き止んだりした。エディは口の端を持ち上げ、三人の顔をゆっくり見渡しながらさらに続ける。
「何年後になるかはわかりません。ですけど、旅を無事に終えて、身辺が整ったらまた会いに行きます」
ヘレンも寂しそうな微笑みを浮かべ、エディの言葉に合わせて頷いた。夫妻はにわかに顔をほころばせて見つめあい、ルーシェも顔を輝かせた。その眩しい笑顔のまま、ルーシェは桜の木を指差した。
「わたしたちね、毎年ここでやくそくするの! がんばろうって! だから、お兄ちゃんたちもやくそくして。ぜったいまた来てね。ぜったいだよ!」
ヘレンは屈んでルーシェに目線の高さを合わせると、頭を撫でながら微笑みかける。
「うん。約束ね」
「やったあ!」
ルーシェは嬉しさのあまりヘレンに飛び付いた。ヘレンも目を閉じ、ルーシェの柔らかい温もりを感じながら抱き締める。エディ、そしてカーフェイとルーシーは言葉もなく、お互いの間に生まれた確固たる絆を噛みしめながら二人の少女を見つめていた。
ヘレンはこの家族に感謝していた。ここに来て一ヶ月余り、家族の愛情に再び触れる事が出来たのだ。本当にこの家族には感謝してもしきれない。旅を終えて大人になったら、こんな温かい家族を築きたい。そんなささやかな願いを抱いていた。
この後、『真実を求めて』はフライブルクにおいて知らない者はいなくなり、再び『キータン・フォックス』の名は響き渡る事となる。カーフェイは誇りを取り戻し、名作を次々世に送り出していく。
ちなみに、ほどなくしてルーシェの『兄弟が欲しい』という願いは本当に叶うこととなった。