転段 歪む十字架と桜の木
満月の夜。染み渡るような静寂が街を満たして、夜風とともに窓から部屋へと流れこんできていた。エディ達も思い思いの夜を過ごしている。エディは静かに父の日記のページをめくり、ヘレンはルーシーに編み物を教わり、ルーシェはつい先刻ベッドにそっと運ばれた。カーフェイは、相も変わらず構想の世界に没入していた。彼の話によれば、後二十ページほどだという。勢いに任せ、そのまま一気に書き上げてしまうのかと見えたが、羽根ペンを置いて不意にカーフェイは立ち上がる。
「ねえエディ。少し散歩に行かないかい?」
エディはページをめくる手を休め、カーフェイらしく柔らかい笑み、そしてルーシーと親しげに他愛のない話で談笑しているヘレンの幸せそうな笑顔を見つめた。両親が健在の頃は、いつもこうしてにこやかに笑っていたのだろう。エディはカーフェイの方を向いて頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「ええ。行きましょうか」
人気の無い通りを、カーフェイは鼻歌交えて歩いていく。座り仕事が多いために普段は目立たないが、エディは少し顎を持ち上げないとその後ろ髪を真っ直ぐ見られない。その姿勢でいると、どこか心に沁み入るものがあった。
「ねえ、君達はヘレンの母さんが死んで、ヘレンが神様を信じられなくなったから旅を始めた、だなんて言ってたね」
エディは急にそんな事を尋ねられて驚いてしまった。確かに、話し事も無しに歩き続けるにしては静かすぎる夜だ。だが、穏やかな満月の下で話す話題としては雰囲気が重たいようにも少々感じられる。
「どうしてその事を?」
「後少しで完成しちゃうしね。最後だからのんびり話してみたいなぁ、って思って」
あくまでカーフェイの口ぶりは変わらず、小川のせせらぎのように緩やかだ。それが、逆に自分をそこに足を踏み込ませる事にエディは気がついた。安穏とした雰囲気が拒む気を起こさせないのだ。だが、ちょっと足を踏み入れてみると、その冷たさに驚いてしまう時もある。
「君はどうなんだっけ? やっぱり、神様を信じないのかい?」
カーフェイは振り向いて彼の表情を窺ったが、エディは頷きも、首を振りもしなかった。ただカーフェイの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「僕はこの旅の間、そういったことを考えないことにしてるんです。先入観を取り払って神がいるのかどうか、改めて考えて、確かめてみたいと思ってます」
「ふむう……」
カーフェイは腕を組んで空を見上げた。妻に鈍感だと言われてしまうようなのんびり屋でも、流石は一世を風靡した作家だった。その慧眼は、エディが無意識に隠した懐を走る。
「それは今の話でしょ? その旅を始める前はどうだったんだい?」
カーフェイは笑顔だったが、エディはその顔をまともに見ることが出来ない。エディは胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸をした。過去に触れる話題をするには、それなりの準備が要った。懐に迫られた動揺を沈め、エディは気を取り直して口を開いた。
「僕もヘレンと同じです。神を信じる気にはなれませんでした。キリスト教に関しても……」
「キリスト教に関しても?」
カーフェイはエディの一歩前を行きながら繰り返した。カーフェイにとっても、その話題は剃刀のように鋭い。自分を転落させたきっかけ、家族に苦難を負わせたきっかけだ。エディの話には非常に興味があったが、聞くのが恐ろしくなったのもまた事実だった。
「僕の両親は清教徒だったんですが、ある日、旧教徒と清教徒の衝突に巻き込まれて亡くなったんです。五年も前で、あまりよく覚えてはいないんですが……それでも、両親は旧教の堕落ぶりを情けなく思っていましたし、一方で、一部の清教徒の強引さも懸念していました。あの日の衝突は清教徒が起こしたものだとその後知ったんですが、それ以降はもうどっちも駄目になりました。僕はどちらからも蔑まれる、無宗教者なんです」
「無宗教、か……」
エディの語り口は淡々としていた。信仰の有無というよりは、宗教の堕落を通して神という存在に幻滅していたのだ。カーフェイの口から静かな嘆息が洩れた。エディの言葉に引き出され、彼の脳裏にある出来事が蘇りつつあった。彼は足元を見つめたまま口を開いた。
「僕はルーシーと教会で出会った」
一方、ヘレンは編み物をしながらルーシーに尋ねる。
「そういえば気になってたんですけど、ルーシーさんとカーフェイさんって、どんな風に出会ったんですか?」
ルーシーは編み棒を動かす手を休めた。ヘレンもルーシーに倣い、テーブルの上にもう少しで編み上がるマフラーを置く。椅子に深くもたれかかったルーシーは、そのままほっと息を吐き出し、白く塗り込められた天井を見上げる。出会った頃見ていた天井は、もっと高かった。そんな事が頭をよぎる。
「私ね、こう見えても昔は修道女だったの。クロード、っていう名前のとっても優しい司祭さん。いや、おじいちゃんの下で、一生懸命神様に向かってお祈りしてたわ。そんな時、ふらっとカーフがその教会に現れたの」
その時は、今でもはっきりと憶えている。彼は片腕に筆記用具一式を抱えており、いきなりクロード司祭に向かって『この場をお借りしてもよろしいですか』と尋ねたのだ。司祭は迷うことなく許したが、自分は面食らってしまった。確かに机に向かって何かを書き出しているだけ、特に悪いことでもしている様子など無い。だが、教会まで来てすることなのか。そう思った自分は、何をしているのか彼に尋ねた。すると、昔も今も変わらない、その屈託の無い笑みで答えてくれた。
『小説を書いています』と。
「その笑顔を見た瞬間ね、なんていうのかなあ。どきっとしたの。神様と向き合っている瞬間は幸せだったんだけど、そんなの比べものにならないくらい、心が揺さぶられちゃったわ」
目を閉じ、カーフェイとのやり取りを日を追って思い出しているルーシーに、ヘレンはほんの少し悪戯心が見え隠れした笑みを浮かべた。
「一目惚れですね」
肝胆強いルーシーは、普通の女性なら恥じらいそうなところを堂々と頷いてみせた。彼女は、今の人生を形作る全てになったのだから、何ら恥ずべき点は無いと信じていた。たとえ、男と交わることが許されない修道女の身分の時だったとしても。
「そ。でもねえ、苦労したのよ。いきなり『この人が好きになっちゃったから修道女辞めます』なんてさすがに言えなかったから、何とかカーフから私に『好きだ』と言わせようと思って、それとなく話しかけてみたり、どんな小説を書いてるか聞いてみたり。色々したんだけどねえ。やっぱりあの人おばかさんだから、恋愛小説を書いてるくせに自分の恋心にはまるで興味ないの。だから文章は綺麗だったけど、話も取材に基づいていて整っていたんだけど、正直面白くなかった。もう待ちきれないから結局言ってやったわ。『恋をしてみれば面白い話の一つや二つくらい思いつくんじゃないの』ってね。そしたら、いきなり私の手を取って、『君と恋がしてみたい』って……確かに私はカーフのことが好きだったけど、何の前触れもなく修道女に向かって『恋がしたい』って……やっぱりおばかさんだった」
苦笑しながらカーフェイとの馴れ初め話を語るルーシーは、どこまでも幸せそうだった。ヘレンは自信なさそうに小さく微笑む。
「すごい……私になんかきっと出来ない……」
「出来るわ。本当に好きな人がいたら」
一歩一歩、どこへとも知れずカーフェイは歩いて行く。エディはその背をずっと見つめていた。
「……ルーシーはこんな僕についてきてくれた。修道女を辞めなきゃいけなかったけど、彼女はそれを後悔しないと言ってくれたんだ。幸い、僕が書いた本はルースの助言のお陰で売れ出したし、無事にルーシェも生まれてくれた。全部上手く行ってたんだよ。……僕があんな事をするまでは」
夜が更けてきたのか、エディは急に肌寒くなってくるのを感じた。カーフェイの言葉にも、剣のような冷たさを感じる。エディはカーフェイの足元を見つめながら呟いた。
「社会風刺の本を出して、以降の創作活動を禁止されたっていう話ですか」
カーフェイはため息で答えた。ちっぽけな義憤のために、その時手にしていた名声を、幸せを犠牲にすることになった。いや。そもそもその覚悟で臨まなければならなかったのだ。それがわからなかった自分は、単なる偽善で周囲を皆傷つけた。
「君がご両親を亡くした頃とも重なっているかもしれない。オックスフォードの方で、弾圧に反発する大きな暴動があって、カトリック側にも清教徒側にも大きな犠牲が払われることになった。確か……五年か六年か前の事だ。それを聞いて心を痛めたのがクロードさんだ。僕はその時、ある種傲慢になってた。自分の書いた文章は、人の心を動かすことが出来る。自慢こそしなかったけど、そう確信を持ってた」
カーフェイの訥々とした語り口に、エディは相槌を打つ。
「仕方ありませんよ。自信もないのに作品なんか世に出せないでしょう? それに、カーフェイさんがした事、僕は間違いだと思いません」
カーフェイは足を止めた。目を閉じると、彼女の言葉が耳にこだまする。ちょうどエディと同じ言葉だ。両頬を真っ赤に腫らしながら、腫らした相手に向かって恨み言を言うどころか、ただ笑ってくれたのだ。
「僕も神様の事を信じられなくなってた。別に存在を疑ったってわけじゃないけど、僕が唯一磨き続けてきたものが呆気なく取り上げられてしまったんだ。神様は、僕の事なんか見てくれやしてないんじゃないか。そう思った。」
ここで言葉を切ると、カーフェイは真っ直ぐ月を見上げた。
「なっさけないけど、僕は飲んだくれたよ。手に職の一つを付ける努力も怠って、積み上げた財産にかまけてただただ落ち込んだ。ルースの励ましも、口うるさいものにしか聞こえなかった。挙げ句、僕はルースに手を上げたんだ。『うるさい』『黙れ』『お前に何がわかる』って」
カーフェイは一切顔をエディに見せなかったが、肩も声も震え、しきりに鼻をすする音も聞こえた。カーフェイがルーシーに手を上げた事をエディは信じられなかったし、カーフェイもこの上なく後悔しているようだった。深々と息を吸い込み、彼は言葉を絞り出す。
「僕はルースに頭が上がらないよ。彼女はその時、僕にとって『アヴェ・マリア』にも等しい存在になったからね」
ルーシーは笑っている。ヘレンは彼女から聞いた言葉に驚き、一瞬口がきけなくなってしまった。
「え……カーフェイさんに叩かれたんですか。その時」
ヘレンは空いた口を塞げない。かわいらしい規模の口喧嘩なら一つや二つありそうだったが、人畜無害の雰囲気を全身にまとっているカーフェイが、よりにもよって最も近しい存在の人に暴力を振るったなど今まで考えもしなかった。だが、ルーシーはやはり笑っている。
「右、左、右って。思いっきりね。でも、痛いとは思ったけど悲しいとは思わなかった。むしろ嬉しかったかも。カーフは酒に任せて私に本当の苦しみを隠してたけど、それをはっきり教えてくれたんだもの。だから、私はカーフの心を助けてあげることが出来たから」
再び編み棒を手に取ったルーシーは、手際よくマフラーを編み進めながら言葉も紡いでいく。
「彼、いきなり私の事を『アヴェ・マリア』なんて呼び始めて、急に私のことをがっちり抱きしめて、わんわん泣いたわ。あの人、やっぱり子どもなんだと思う。いつまでも純粋で、真っ直ぐなの。曲がることを知らないから、私がいてあげないと、あの時みたいにぽっきり折れちゃう」
ルーシーは、ヘレンに向かって照れくさそうに笑ってみせた。
「聖母マリアなんて、私はそんな大したものじゃないわ。私はツタ。大きな木のそばにそっと寄り添うの。あの時は、ちょっと恩返ししただけ」
親指と人差し指で小さな隙間を作ってみせたルーシーを、ヘレンは尊敬の眼差しで見つめた。先の分からない旅だ。気丈なエディだって、自分をこれまで明るく励ましてくれた彼だって、カーフェイと同じくいつか折れてしまうことがあるかもしれない。そんな時、自分はエディの事を支えていけるだろうか。ヘレンはちらりとそう思い、そして改めた。
……もしその時が来たら、私がエディのことを支えるんだ。だって、私にはエディしかいないし、エディにも私しかいないんだもの。
「まあ、なんだかんだあったけどね、今になってようやく『これでもよかったかな』って思えるようになってきたんだ」
「どうしてですか?」
エディはいつの間にか円形に開けた場所に来ていることに気がついた。石畳で舗装されているわけでもなく、家がひしめいているわけでもなく、ただ中心に太くどっしり構えた大樹があるだけだ。カーフェイはその大樹の前で足を止め、その木を見上げた。エディの質問には答えず、カーフェイは夜風にそよぐ枝をじっと見つめる。
「いいでしょ、この木。ここに越してきてから、一年に一度、この桜が満開になった日にみんなで来て、この桜を見上げるんだよ。そして、『みんなで一年頑張ろう』って、みんなで約束しあうんだ。それを君に紹介しようと思って、ほんとは散歩に誘ったんだけど……何だかしんみりしちゃったね。ごめん」
カーフェイはようやくエディの方をちらりと振り向き、そしてすまなそうに笑ってみせる。エディは肩をすくめ、同じ表情を返す。心地の良い沈黙がしばらく二人の間を埋めた後、カーフェイは再び緑の葉が茂った桜の木を見上げる。
「君がここに来たのは運命だと思う。全ては星の巡り合わせだったんだ、って思えるようになったよ。僕が罰を受けてから、ルースとルーシェに再起を促されたり、このフライブルグの街に引っ越してきたり。その果てに、神様を探しているなんていう面白い少年に出会えた。出来過ぎてるけど、偶然だよ」
それだけ言うと、カーフェイは一歩間合いを置いているエディを手招きした。そっと、擦るような足取りで、エディはカーフェイの隣に立って大樹を見上げた。
「綺麗だろう? さあ、約束して。きっと無事でいるって」
カーフェイが右手を差し出すと、エディは両手でしかと握った。
「はい。もちろんですとも」