承段 温かい家
エディ達がカーフェイの家に住み込む事を決めたその晩、早速とばかりに彼はテーブルの上に紙や筆記用具を散らかし、エディとヘレンを自分の向かいに座らせた。
「さあ。早速取材させてもらうよ」
カーフェイが軽く会釈するのを、ルーシーは耳の後ろを掻きながら口を尖らせ見ていた。
「カーフ、取材はいいけど、ちゃんと片付けてね?」
「わかってるって」
真っさらな紙面に見ながらカーフェイは口先で答え、すぐにエディと目を合わせた。手には鉛筆が握られ、書き出す準備は万端だ。
「さて、まずは何処へ行く予定だい? まさか、当てもなく探しているということでもないでしょ?」
エディは頷くと、旅嚢から年季の入った世界地図を取り出した。素早くテーブルの上に広げた途端、カーフェイは驚きに目を見開き、そしてエディの顔を上目遣いで見つめた。首が少し左右に振れている。
「悪いけど……よくそんな地図で旅をしようと思ったね。夕食の時に苗字は測量士だと言っていたじゃない」
カーフェイは心配そうな面持ちで地図に目を下ろした。エディ達もその目の動きに釣られてしまう。
エディが持っていたその地図は、現在のメルカトル図法、モルワイデ図法で描かれた地図とは遠くかけ離れており、旅をするには堪えないものだった。
そこは測量士、地図描きの子ども、自分でも薄々分かっていたことだけに、エディは苦しい。ランプの火が窓から吹き込む夜の風に揺れるのを見つめながら、エディは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それしか無かったんです」
「うーん……これじゃあ迷子になるなあ……ん? 待てよ……そうだ!」
腕組みをし、窓の外を見つめてぶつぶつ独り言をつぶやいていたかと思うと、突然手を打って立ち上がり、カーフェイは自分の机の引き出しをここでもないそこでもないと引っ掻き回し始めた。ルーシーが嫌そうな顔をしているのは言うまでもないが、エディ達もカーフェイは創作活動とかそういったことも関係なしに机を片付けられない性格なのだと確信した。妻の白い目も気にせず、カーフェイはいいだけ引っ掻き回した後、ようやく何かを取り出して、子どものように顔を輝かせながら持って来ようとした。しかし、仁王立ちのルーシーがそれを拒む。
「まずは片付けなさい!」
「は、はい! ごめんなさい……」
ヘレンも八つくらいまでしかされなかった叱られ方をしたカーフェイは、仕方なくそれをエディが広げた世界地図の上に放った。巻かれた羊皮紙は、上手い具合にエディの目の前で僅かに広がる。描かれていたものを見たエディは、その目を丸くした。
「これは!」
思わずエディはそれを広げてまじまじと見つめる。世界地図だった。それに、今まで自分が持っていた物とは格が違い、ほぼ完全とも言える代物らしかった。父の描いたイングランドと、目の前のイングランドが一致している。
「何処でこれを?」
「イングランドにいた時に買ったんだ。複製とはいえ、世界で一番の地図、だなんて言われたら買いたくならない?」
ルーシーに監督されながら、カーフェイは机の上を片付けつつ答える。エディは夢中で頷いた。ヨーロッパ近辺のみだが、国境まで引かれている。思えば、父の日記の一ページにもこの地図について書かれていた。それを見た時は、今のエディと同じく自分が描いたイングランドの地図とその地図の地形が一致しているのを見て安心したという。その現物が目の前にあるのだ。父への憧れも相まって、興味は一段とそそられる。
「もっと見せてもらっていいですか?」
机の体裁だけは整えて戻ってきたカーフェイが頷き、右手を差し出す。
「もちろん。欲しいなら、持って行っても構わないよ」
「本当ですか!?」
エディが大声を上げる。ランプの火が一段と大きく揺れた。旅の供にするなら、人も物も信頼性が高い方が良い。その点で言うなら最高の物をカーフェイは簡単にくれると言い出したのだ。驚かずにはいられない。エディが思わず理由を尋ねると、カーフェイは照れたような笑みを浮かべる。
「ああ。衝動買いだったからね。何か執筆活動の役に立つかと思ったけど、何の役にも立たなかったし」
「ありがとうございます!」
いよいよエディは全力で協力し始めることにし、勢い良く息を吐き出して気合を入れた。カーフェイも椅子に深く座り直して鉛筆を取り直す。
「さあ、まず、目的地はどこなんだい?」
「『デオドゥンガ』です」
「はい?」
聞きなれない単語にカーフェイが思わず聞き返すと、エディは世界地図にあるムガル帝国と明国の間あたりを指差した。カーフェイが目をきょろきょろさせている前で、エディは屈託の無い笑顔を浮かべて言う。
「ここに、世界一高い山があるんだそうです。何だか、そこに行けば神がいそうな気がしまして」
カーフェイは戸惑った。自分はイングランドからここまで引っ越したのが、旅といえば旅だが、ここまで来るのに五ヶ月かかった。アジアのど真ん中まで行く旅など、どれほどの時間がかかるか想像もつかない。アジアのことは知らないが、現在オスマン帝国がヨーロッパに進出して治安もあまり良くない。カーフェイは作家以前に、子を持つ親に立ち返って心配になった。
「そんな、わざわざそんなところまで行く必要あるかい? もっと、こう、色々あると思うけど……」
「もう決めたことです。確かに危ないかもしれない。でも、危険をおかさないで何か大きなものが得られると僕は思いません」
カーフェイはエディの目を訝った。一瞬だが、変に光を帯びたように見えたからだ。だが、エディの言葉には、微塵も揺るがない決意があった。他人がどうこう口出ししても意味が無いと諦めると、カーフェイは本職、そして自分の好奇心に正直になることにした。咳払いし、カーフェイは再び柔らかく微笑みながら質問を再開した。
「仕方ないね。じゃあ、次の質問だよ……」
エディやヘレンへの質問は三日にわたって繰り返された。その後一日カーフェイがああでもないこうでもないとエディ達の話をまとめあげ、五日目の早朝、突如鷲の羽ペンを走らせ始めたのだ。起きだしてきたエディは、カーフェイの迫力を見て息を呑みそうになるほどだった。日を追う毎にその速さは増す一方で、一週間も立つと、鬼気迫るという表現がしっくりくるほどになっていた。
「早ーいですよカーフェイさーん。私追い付けませーん」
翻訳を買って出たドイツ人のユリアンはてんてこ舞いだ。ドイツ語発音がきつく残っている英語で、ユリアンはカーフェイに向かって悲鳴を上げてしまう。
「別に急がなくていいよ。でも、原稿はエディ達の為にさっさと上げたいんだ」
そう言っている間にも、カーフェイの羽根ペンは凄まじい速さで動かされるせいですぐ擦り切れていく。再び紙や空のインク壺などが散らかったテーブルの上には、もうすぐ羽根飾りでも作れそうなほど羽根ペンの残骸が積み上げられていた。
「そうなんでーすか? でーも、そんなーの見せられたら、急がないわけに行きませーん」
二人がこんなやり取りを繰り返している中、エディがペンナイフをテーブルに置く。そして羽根ペンはカーフェイの脇に置く。
「はいカーフェイさん、羽根ペン削り終わったよ」
「ありがとう。助かるよ。最近は一日一本ダメになる。高いけど、丈夫なのを買った方が良いかなぁ」
エディはカーフェイの原稿を覗き込んだ。彼の性格とは対照的な尖った字が、激流のペン運びで奔流のように現れてくる。一日三食、七時間睡眠の規則正しい生活を続けているカーフェイだが、仕事の最中は全くペン先が止まらない。先日エディが聞いた話では、カーフェイの頭の中ではもう既に物語が完結しているらしい。彩りを添えて料理が美味しくなるように、比喩を添える事で物語も深みが増す。冗談めかして、カーフェイはそんなことも言っていた。
「もうどれくらい進んだんですか?」
「まだまだかな。山で言えば三合目ってところ。後二週間くらいかかるかなあ」
「わかりました。楽しみにしてます」
エディは頷くと、カーフェイが再び放ってよこした羽根ペンの先を見つめる。摩耗が酷く、直すのも一苦労だった。カーフェイは筆圧が高く、そして何故か羊皮紙を二枚重ねにしてここまで書き続けていた。しかも、裏写りしているわけでもない白紙の羊皮紙をルーシェに集め、まとめさせているのだ。このやり方を一週間見ても、エディは首を傾げてしまう。
「どうしてそんな面倒な事を?」
「え? ああ、それは……あっ」
言わん事ではなく、筆圧に耐えきれなくなった羽根ペンは、エディが首を傾げて見ている前で折れた。カーフェイは深くため息をつきながら残骸を見つめる。
「ごめん。二週間と三日四日はかかりそうだよ」
「お父さん、買いもの行く?」
ルーシェが父親に向かって、両手を皿のように差し出した。カーフェイは頷くと、懐から小さな銀貨が詰まった巾着を取り出し、ルーシェの手の上にポンと置いた。しっかり握りしめたルーシェは、エディの方を向いてにっこり笑う。
「お兄ちゃんも一緒に行こうよ!」
「ああ。そうしよっか」
エディは頷くと、ルーシェと手を繋いで階段を降りた。
一方、ヘレンは下の洋裁店でルーシーの手伝いをしていた。最初はおぼつかない手つきだったヘレンだが、元々手先が器用だったことも相まって、今では問題なく針を滑らかに動かしていた。洋裁店はやや異常な賑わいを見せていた。普段は婦女子しか立ち入らないような場所なのだが、何故か男子もちらほらいるのだ。
というのも、滞在してから一カ月、下の階にある洋裁店はちょっとした話題で持ち切りになっていた。ルーシーの手伝いを始めたヘレンが、無口が玉に瑕――人見知り以前に、ドイツ語が話せないのだから仕方無い事だったが――でも、小綺麗な顔立ちの少女が居るとして評判になったのだ。(十代前半なのは見ればわかるはずなのに)ヘレン目当てに来る独り身の若者のお陰で洋裁店は変に人が集まった。そこそこ若者たちの顔がいいため、それ目当ての女子まで集まったからだ。
「Helen, ist ganz heute!」
(ヘレン、今日も可愛いな!)
細身の若者が愛想笑いを浮かべながら、カウンターの奥で針を扱っているヘレンに声をかける。何を言っているのだか訳の分からないヘレンは首を傾げるだけ、何も言葉を返さない(返せない)。素気無く思いを払われたのだと思い込み、若者は肩を落としてその場を立ち去ろうとする。その肩を叩き、いかにも色男という顔立ちをした背の高い青年がヘレンの目の前に立つ。
「Ist fuer Sie unmoeglich. Aussehen」
(お前には無理だ。見てろ)
それだけ言うと、青年は何処からともなくバラを取り出し、ヘレンの前に突き出す。ヘレンは腕を自分の胸の前まで引き、上目遣いをしてその色男を見つめる。
「Gehen Sie nicht zu einer Mahlzeit?」
(お食事に行きませんか?)
言っている事はわからなくても、バラを取り出して話しかけてくるという古典的な行為に添えられる言葉は何となく想像できる。ヘレンは愛想笑いを浮かべつつ、小さく首を振った。青年はがっかりしたような表情をした時、他の客と応対していたルーシーが口を挟む。
「Beruhigen Sie sich. Das Maedchen ist 13 Jahre alt!」
(落ち着いて下さい。その子はまだ十三ですよ!)
青年達は雷に打たれたような表情をした。
「Ich glaubte, dass es um 16 Jahre alt war......」
(十六歳くらいだと思ってた……)
ヘレンは年相応の顔立ちだったが、独り身の寂しい男達は子供っぽい容姿をしているだけと勝手に決め込んでいたのだ。ぞろぞろと店を後にする男達の寂しい背中を見つめ、ルーシーは溜息をつく。思わず自国の言葉が口をついてしまった。
「しょうがない人達ね……また数日立ったらケロッと忘れて来るのよね。惚れた男はおっそろしいわ……」
ヘレンはルーシーの呆れたような独り言を聞き、針の手を休めてくすくす笑う。居住空間へと続く扉が開き、エディとルーシェが現れた。ルーシーはドレスを修繕する手を休めて尋ねる。
「あら? お父さんのお手伝いはいいの?」
ルーシェは、弾む気分のままにエディの腕を振り回しながら頷く。
「うん! お父さんは今休けい中。私が羽ペンをおつかいしてくるの! お兄ちゃんといっしょに!」
「ほんとに? よかったわねぇ。エディもありがとね」
エディは後頭部に左手をあてがいながら頭を下げる。
「ええ。行ってきますね」
「行ってらっしゃい」
二人に手を振り、エディとルーシェが店の外へ出ていくのを見送っていたヘレンだが、太ももあたりが急に生温かくなったのを感じて弾かれたように立ち上がった。椅子を見つめ、ヘレンは耳まで赤らめて俯く。ヘレンの様子がおかしくなったのに気が付き、ルーシーは服をカウンターの上に置いてそばまで近寄る。
「どうしたの? ヘレン」
まなじりに涙の粒を浮かべ、ヘレンはとにかく頭を下げた、
「ごめんなさい。どこか具合が悪いと思ってたら……私、どうにかなっちゃったんでしょうか」
ルーシーが椅子に目を落とすと、彼女は何故か母親らしい温かみに溢れた笑みを浮かべて深々と、そして何度も頷いた。自分の体への心配と、ルーシーに対して粗相を働いたという自責の念に肩を軽く震わせているヘレンを、ルーシーは柔らかく抱きしめてあげた。
「心配しないで。女の子だったら誰でもあるもの……さてと」
ルーシーはカウンターの下にある棚から、『Geschlossen』(ただいま休止中)と書かれた立て板を取り出し、カウンターの上に置いた。それに気がついた一人の若い女性が首を傾げながら歩いて来る。
「Auf der Erde, wie Sie es machten, ploetzlich eine Pause zu machen?」
(どうしたの? いきなり休憩?)
「Ja, der Grund ist, weil es Unentbehrlichkeit ein kleines gibt.」
(ええ、ちょっと用事ができちゃって)
納得した彼女は、友人に渡りを付けて店を立ち去った。それを見届けると、ルーシーは膝を曲げてヘレンと視線の高さを合わせる。
「この前、ヘレンは親を亡くしちゃったって言ってたわね」
「はい」
「その調子じゃ、まだ“何にも”教えてもらってないんでしょ」
「はい?」
ヘレンが潤む目を拭いながら首を傾げた。ルーシーは一人納得して頷くと、ヘレンの肩を叩いて二階への階段へと導いた。
「心配しないで。ここでは私がお母さんだから……大人になるまでに知っとかなきゃならないことってあるし、時間は限られてるけどちゃんと教えてあげるから」
「……ありがとうございます」
心苦しさ、息苦しさから一気に解放され、ヘレンは涙が拭いきれなくなったのに気がついた。久方ぶりに感じた愛情は、とても温かいものだった。しゃくりあげてしまわないよう、静かに息を吸い込むと、ルーシーに付き従いながら二階へ向かって一段一段登りだした。
「Was kann ich fuer Sie machen? Sie erwachen gut vor kurzem aus der Bewusstlosigkeit hier.」
(いらっしゃい。最近よく来るねえ、二人とも)
「ええと、いらっしゃいませ……何?」
行きつけの文房具屋の前、長い髪を後ろで束ねた若い男性店主が、笑顔で店先まであらわれる。言われたことが半分しか分からず、エディはルーシェに耳打ちした。ルーシェはエディの役に立てるのが嬉しいのか、歯を見せ得意げに笑いながら答えてくれた。
「最近よく来るね、二人とも、だって!」
エディは姿勢を正し、にこやかに会釈した。
「Guten Tag.」
(こんにちは)
早速店主はタンスの引き出しをあさり、鷲の羽根ペンを三本取り出してきた。そのまま店主は手を伸ばしてきたルーシェに手渡す。
「Ich habe gelernt vollkommen das, was Sie vor kurzem wollten, weil ich haeufig zum Geschäft kam.」
(最近良く来るから、すっかり何が欲しいか覚えちゃったよ)
ルーシェも店主の手のひらに銀貨を十枚置く。そのまま、ルーシェは鼻息荒く腕を組んで母の受け売りをした。
「Nun! Ich breche sofort einen Federkugelschreiber, und es ist eine Verschwendung!」
(そうだよ。すぐにこわしてばっかり! もったいないよね!)
その仕草がカーフェイに片付けを命じているルーシーの姿にぴったりと重なり、エディはルーシェの背中で思わず笑ってしまった。その声を聞き逃さなかったルーシェが、いきなりきびすを返す。
「どうして笑うの?」
「うん? いや……家族はやっぱりいいなあ、って思ってさ」
そう。カーフェイ達に囲まれて、エディは五年来にほっとしたような、心に余裕が生まれたような気分になっていた。特にルーシェの存在などは、自分にも妹がいたらと思わせ、かわいらしい仕草を見ているうちに自分まで楽しくなれた。
ただ、エディには引っ掛かりがあった。いくら楽しい日々でも、必ず別れなければいけない日が来てしまう。いつまでもこの喜びに甘んじてはいられないのだ。
「どうしたの? ぼーっとして」
いつの間にか、ルーシェはその丸い目をくりくりさせながら首を傾げていた。その笑顔が愛らしく、エディは悩みが消えてしまうのを感じた。
……そうだ。別れる日は来るけど、それまでは精一杯この懐かしさを味わっていよう。この家族の温かさを。
髪をくしゃくしゃと撫でてやると、ルーシェは目をつむって気持ち良さそうな顔をした。エディは胸に陽だまりのような熱が宿るのを感じていた。