結段 レ・ユグノー
「君達は、」ポルトスが、ラグー(シチュー)の牛肉に舌鼓を打ちながら口を開く。「どうして旅なんかしているんだ?」
「はい。そうですね……」
エディはこぶし大の白パンに手を伸ばしながら、普段のように何でもない様子でごまかそうとした。だが、ちょうどその時に、ラグーの野菜をすくうアトスと目が合ってしまう。エディは口の中が乾いてパンから手を引っ込めた。彼の視線は嘘を許さない。 嘘をつこうとした瞬間、エディは舌を縛られた気がした。諦めたエディは、息を整えてから一気に言い切る。
「神様を探す旅をしているんです」
アラミスはスプーンを置いて腕組みをした。椅子に深くもたれかかる。彼は敬虔なキリスト教徒で、そもそも牧師になろうと思っていたほどだ。そんな男にとって、『神様を探す』という事は非常に興味深いことだった。いたく感心したような声を上げる。
「なるほど。父なる神は天から我々を見守ってくださるというが……信心深いというか無謀というか。だが、現実に出会えれば信者冥利に尽きるな」
アトスはスプーンを口に運ぶ手を休めようとしない。以前は旧教徒だった彼だが、彼の運命を揺るがしたとある一件以来宗教というものに悲観的になっていた。酒に手を伸ばしつつ、その観念そのままに彼は口を開く。
「いつも言っているが、キリストは単に道徳観を説いただけで、私は神などいないと思っている」
ランプの火が弱まり、薄暗くなった部屋は沈黙した。相変わらずのアトスに、ポルトスはやれやれと首を振る。
「わざわざそんな事言わなくていいじゃないの。二人は希望を持って旅してるんだしさ。二人とも、アトスの言うことは信じなくていいから。うん」
「私も神様がいるとはあまり信じてません」
間を分かたずに放たれたヘレンの寂しげな呟き。聞いた銃士の三人は、肩にのしかかる重い空気に耐えかね気まずそうに顔を見合わせた。エディは目を瞬かせながら、隣を見てヘレンの感情が無くなった瞳を心配そうに窺う。やがて沈黙に耐えかね、アラミスがヘレンに尋ねた。
「どうして、一体君はそんな事を? もし仮に神がいないとしよう。だが、その存在を信じることが希望に繋がるじゃないか」
確かに、アラミスの言うことだって一理あるだろう。ヘレンも、信じるほうが楽なら信じたかった。
「信じたら……もし神様が本当にいたら、私達はもっと惨めです。何も悪い事してないのに、神様に見放されたも同然です……」
華奢な肩を震わせ、急に泣き出したヘレンを見て、まずいことを言ってしまったとアラミスはおろおろした。自分の殻に閉じこもって離せなくなったヘレンの代わりに、エディは事情を話した。二ヶ月前にヘレンが親を亡くした事、陰険ないじめを受けたこと、自らも孤児だった自分が神探しを誘ったこと。納得がいった銃士達は、それぞれ腕組みなどして考えこむような仕草をする。
「それは……気の毒だとしか言い様がない。すまない。月並みの言葉しか出てこない」
気にしないでください。とでも言うように首を振り、ヘレンは涙を拭う。泣いたところで両親は帰って来ないのだ。ヘレンは何とか気を落ち着かせようとする。
……もう泣かない。泣いたって悲しくなるだけ。
エディが慰めるようにヘレンの頭を撫で、ハンカチを渡す。ヘレンは力なく微笑んだ。慰められるのも、これで最後にしよう。ヘレンはそう心に決めた。
「宗教、と言えばだ」
今までずっと考え込んでいたアラミスが、おもむろに口を開いた。エディとヘレンは彼の方へと向き直る。
「君達はきっと、ラ・ロシェルの攻防戦を知っているだろう?」
二人は頷いた。カレーの港では取り調べが行われていたし、ドーバーの船賃が値上がりしたのは、間もなく港が封鎖されるのを見越して足元を見たからだろう。アラミスは神妙な顔でスプーンをテーブルの上に置いた。静かな音が部屋を満たす。
「ラ・ロシェルには抵抗者達が立てこもっているんだ」
エディの肩がぴくりと動いた。それにまるで気がつかないアラミスが、遠い目をしてそのまま言葉を続ける。
「最近プロテスタントに対する弾圧が強くなっているんだ。それに反感を持ったラ・ロシェルの市民達が、今も抵抗を続けているんだ」
俯いたエディの顔にランプの薄暗い光が当たり、真っ黒い影が差す。どうして、どの国でもプロテスタント――清教徒は弾圧を受けなければならないのだろう。信じる神は旧教徒も清教徒も変わらないというのに。思うと、エディからは自然とため息が洩れる。ポルトスはエディの態度の急変を見て彼の表情をよく窺おうとする。
「一体どうしたんだよ?」
エディはきっと顔を上げた。その目は強く見開かれ、眉根にしわが寄っている。心底神の存在というもの、宗教というものを疑っている目だった。ともすれば、怒りさえ覚えているかの様に見える。
「どうして清教徒は弾圧されなければならないのです? 邪神を信じているわけでもない。同じ神を信仰しているのに」
アラミスは伏し目がちに腕を組み、大分冷めてしまったラグーを見つめながらぼそりと呟く。
「私もそれには同意だ。カトリックもプロテスタントも同じくキリストを信仰するには変わりない。互いに共存しようと働きかけなければならないはずなんだ」
同意をされたところで疑問は晴れない。心持ち悪くラグーの肉を凝視するエディにちらりと目を向けると、アトスは天井に目を移しながら話し始めた。宗教観の対立の理由は、神への信仰のあり方だけではなかったのだ。
「まず、プロテスタントがこれほどまでに早く浸透し始めている理由は、民衆が信仰しやすいものだったからだ。加えて、カトリックは教会建設などの為の資金集めに贖宥状を売り始め、腐敗しているという印象をプロテスタントの筆頭であるルターによって流布されたことが、一層カトリック離れを強めた」
エディもその話は父の日記で読んだ。普段は性格通り字体も大らかな父の日記だったが、宗教観を述懐している日の文面は、エディが知らない、彼が抱いていた激情を垣間見せる鋭角な字になっていた。特に、この贖宥状とも免罪符とも言われている、買うことで罪が赦されるという代物に付いて記した文面は、エディが読むのを苦慮するほどだった。何とかかんとか読んだエディも、そのような神との向き合い方に甚だ疑問を感じていた。
エディは父の感情が乗り移ったように吐き捨てる。
「ええ。お金で罪を晴らせるだなんて、信心の深さを証明しようだなんて、汚い。腐ってる」
今までいっぺんたりとも言わなかった悪口雑言をいとも簡単に言い捨てたエディに驚き、ヘレンは顔をエディに向ける。彼も両親が奪われた痛みを忘れたわけではない。そう思わせる表情だった。アトスは静かに続ける。
「そう思えるなら話は早い。他にも、プロテスタントは職業召命観といって、聖職のみが価値ある仕事とされてきたカトリックの主張を真っ向から否定した。就いた職業は神の召命によるものだから、どんな職業であれ利潤を求めていいと。これが民衆に受け入れられた大きな理由だ」
確かに、カトリックは自分の主張を真っ向から否定されては面白く無いだろう。しかし、エディにしてみればここまで弾圧を受ける理由と思えない。エディはアトスに向かって、刃のような光を抱く目を向けた。
「どうしてそれだけの事で弾圧を受けなければならないのですか? 生きるためにお金を求めて何が悪いんですか」
「私に聞くな。だが、そこは些細な事だ。問題は聖職だけが価値ある仕事ではないといったことに問題がある。特に、ルターという人物は神の前では誰でも等しく平等などと言ってしまった。カトリックはおろか、王家が黙ってはいない」
やはり権力か。エディは溜め息が自然と洩れた。権力争いに両親は巻き込まれて殺された。そんな下らないものの為に。虚しくなったエディは、急にナイフを取って目の前の肉に突き刺し、えぐった。その様子に同情の目を寄せながら、アトスは噛んで含めるように続けた。
「フランスは枢機卿が政治の根幹に関わっている。この枢機卿というのは、カトリックの大司教に与えられる称号だ。これが何を意味するかは、言わずともわかるだろう」
エディはナイフを引き抜き、今度はフォークを突き刺す。カトリックの権威を否定するということは、枢機卿の権威を否定することだ。自分の権勢を維持するため、ラ・ロシェルに立て篭るプロテスタントを断罪している。エディはそう理解した。その時、ついに油が切れたかランプの火が消える。月明かりだけとなった部屋の暗がりが、エディの表情を一層陰鬱なものとする。そんな表情を見ていたポルトスが、あることに気がつく。
「君もプロテスタントなんだね」
やりきれない思いに苛まれながらエディは頷いた。
「正確には僕の両親です。プロテスタントとカトリックの衝突に巻き込まれて亡くなりました」
三人の銃士達は、エディの悲しみと怒りが入り混じる言動のわけをようやく理解した。昨今大分収まり気味とはいえ、清教徒とカトリックの対立が激しいことは聞いていた。
「どうやら、私達は君達にかなり殺生な話をしてしまったようだな」
アトスは相変わらずの仏頂面だが、言葉の端々に謝罪の念が込められていた。
「気にしないでください」
エディはそう言ったが、投げやりな口調で言われると三人は気にしないわけにもいかない。ポルトスはあることをどう言い出したものか迷ったが、結局は二人の気持ちも少しは楽になるはずだと思い直して口を開いた。
「なあ。手紙見ようぜ」
エディの鋭い視線がポルトスに向く。
「今ですか?」
「いつまでも辛気臭くしてたらダメだって。病気になるぞ。こういう時は明るくなるのが一番さ。で、今一番明るい話題を秘めてるのはダルタニアンの手紙で間違いないさ」
あまりにも力強い物言いに、エディは無意識のうちに手紙を差し出していた。ポルトスは素早くそれをひったくる。
「うん。この下手なような上手いような字。まさにダルタニアンの文字だ」
「早く開けて読め」
アトスに急かされ、ポルトスは封を破り開けて中に目を通そうとする。だが、暗くて見えない。気を利かして上階から降りてきた女主人が、ランプに油を入れ直した。再び光が部屋を満たす。
「何々……港について早々、追っ手に襲われた。しかし、この手紙を託した少年達によって政務官の庭に秘密の通り道を見出し、その中で一人の剣士と戦ったがそれを退け、何とか追っ手を撒くことも出来た。まことにこの少年達には感謝している。私に与えられた使命も、問題なく達成できそうだ……うん。良かった良かった」
最初は不安そうな顔で、次にはらはらしているような顔、最後には満足したような顔でその手紙を読み終えた。
「ダルタニアンは大丈夫みたいだ。追っ手も撒いたってさ」
それを聞いてエディは聞きたいと思っていたことを思い出した。
「そういえば、どうしてダルタニアンさんはイングランドに来ていたんです?」
アラミスは何処からともなく地図を取り出してきた。中心には『ラ・ロシェル』と書かれている。アラミスがドーバー港から矢印を引っ張ってきた時、ヘレンは思わず声を上げた。
「もしかして、ドーバーにいた軍船はラ・ロシェル軍の援軍なんですか?」
アトスは頷く。
「ああ。だが、そこで艦隊戦までも加わってしまったら戦いが長引く。だからダルタニアンはイングランドまで行って、秘密裏に援軍をやめさせようとしているわけだ」
「そんな交渉が上手く行くんですか?」
エディの疑問ももっともだ。だが、銃士たちには十分信頼できる根拠があった。アラミスは不敵な笑みを浮かべる。
「心配は要らない。情というものは時に建前を軽々乗り越えてしまうものだからね」
その手の事情に疎い二人は、曖昧な笑みを浮かべたままで首を傾げる。ポルトスは大人が幼児に社会のしきたりを諭すかのような口調で説明する。
「エディ、ヘレン。男女の関係は単に好きか嫌いかだけじゃないのさ。そう、バッキンガム公とフランス王妃は恋仲なんだ。恋人からの頼みは断れないだろう?」
その気持ちくらいならエディやヘレンにもわかる。が、自分の国の『素晴らしい』公爵は公私の区別すらしないのだと思うと少し寂しい気分だった。それを言うと、ポルトスは笑い出した。
「ああ。確かにその通りさ。けど、これでラ・ロシェル側が降参すれば、どんな形であれ余計な犠牲は避けられる。そうは思わないかい?」
アラミスはにやりと笑った顔をポルトスに向けて付け足した。
「まあ、枢機卿もバッキンガム公を秘密裏に暗殺して同じようにするつもりみたいだが、そんな姑息な真似はいけない。いつだって堂々としているべきさ」
三人のしたり顔を見て、エディは思わず笑ってしまった。どことなくのらくらしていて掴み所がなく、そしてどこか温かい。自由と誇りを愛する三人には、二つの宗教観同士のごたごたなど大して関係なさそうだ。エディは深く息をつく。いつまでも怒りを覚えている自分が馬鹿らしくなってしまった。疲れや何やからではなく、今まで何処かにあった重苦しい感覚を降ろしてしまおうという気持ちを長い息に乗せた。エディはゆっくり肉を取り、口に運んだ。硬くなっていたが、エディはしっかり噛み砕いて呑み込んだ。側に座っていた女主人が静かに手を叩く。
「さあ、今日は泊まっていきなさいな。これから先も長いでしょう? これから先は長い。ゆっくり休むことだ」
女主人がそう言うと、エディ達より先にポルトスが嬉しそうな顔をした。
「本当ですか? 帰るのが面倒だと思って――」
「あなた様は……ちょっと……」
「がっかり」
初夏の夜に、明るい笑い声が響いた。遠くでは、丘の上に植わった大樹が、その緑の葉を伸ばして夜月の白い光を跳ね返しながらそよそよと揺れていた。
「何だ。お前らはそんな格好で旅を続けるつもりなのか」
次の日の朝、旅支度を整えているエディ達を見て、アトスは呆れたような声を上げた。旅嚢を持ち上げながら彼らの履いている靴を指差した。
「こんな靴だと歩いているうちにすぐ破ける。袋にしたってそうだ」
ヘレンは気まずそうな顔をした。パリに着いたあたりから、自分でも薄々感じ始めていたことだ。
「私達にはこれくらいしかなくて……」
それを聞くと、アトスはどこかへ行ってしまった。エディは自分の身なりに目を落とす。確かに彼の言う通りだ。まだ隣国にしか辿り着いていないのに、旅嚢は大分擦り切れている。麻製にしては丈夫な方ではあるのだが。靴にしても、薄っぺらでいつまで持つかは怪しいところがあった。しかし、孤児二人ではこの程度が関の山だ。
「新調したほうがいいのかな……」
ヘレンは困ったように呟く。エディも頷きがちにはするが、所持金は限られている上に幾らかかるかもわからない。どうしてもしっかり頷くという事は出来ないでいた。
「どうしたらいいんだろうね」
エディがぽつりとこぼしたその時、何やら大きな箱を抱えてアトスが戻ってきた。無造作に床に落としながら開けると、中には革製の立派な旅嚢と、厚手のブーツが入っていた。
「これを使うといい。私が昔使っていたものだが、ずっと丈夫なはずだ」
確かに軽く擦りきれてはいるが、簡単には破けそうにない。靴も温かく、歩きやすい感触だった。ヘレンもブーツに履き替えている。女主人がどこからともなく現れ、ヘレンの履き心地の感想を確かめていた。
「私が昔履いていた物ですが、どうやらピッタリみたいですね」
「ありがとうございます。丈夫な上にこんなにお洒落なブーツをもらえるなんて……」
ヘレンは女主人に頭を下げ通しだ。エディもアトスに頭を下げる。
「僕達なんかの為に、わざわざありがとうございます」
アトスは首を振る。微かに笑った。エディにはそのように見えた。
「気にするな。実のところイングランド人は好きではないが、それでも君達にはダルタニアンの手助けをしてくれたという借りがある。その礼をするまでだ」
勢い良くドアが開き、アラミスとポルトスが入って来た。アラミスは小脇に厚手の本を抱えている。不躾な二人の行動に、アトスは不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
「他人の家に入るのにノックさえしないのか」
それをさらりと無視したアラミスは、エディに持っていた本を手渡す。聖書だった。エディは一瞬眉根にしわを寄せたが、何も言わずにそれを受け取った。
「もし神がこの世に降りて来られたなら、もっと詳しい話を神の口から教えてもらって欲しい。どうだろう。頼まれてくれないかな?」
エディは頷いた。ダルタニアンを助けた礼とアトスは言うが、一泊させてくれた上に、旅装まで整えてくれた恩は更にそれを上回っている。返さなければいけないと思った。そう思っていたら、髪を掻き上げながらポルトスも気楽な調子で頼みごとをしてきた。
「なあ、ダメ元でいいからさ、『世界一の美人がポルトスを好きになる』ようにお願いしてくれないかな」
アトス達は失笑してしまった。鼻をこすりながらアラミスはポルトスのことを笑う。
「そんな都合のいい願いを叶えてくれるわけ無いじゃないか」
「ちぇ。やっぱりだめか」
エディ達は穏やかな顔で笑いあう三人の姿を眺めていた。これからの旅路に思いを馳せながら。
この後、三銃士はそれぞれ違う道を歩んでいった。アトスは彼らしく、寡黙に職務を勤め上げ、アラミスは結局銃士をやめて誠実に神と向き合う牧師となり、ポルトスは、その持ち前の明るさで人望を集め、皆に親しまれる貴族になったという。だが、ダルタニアン、アトス、アラミス、ポルトスの絆は永遠に絶えることが無かった。