起段 アルビオンを背に
Eventful Item
ダルタニアンの手紙 エディの父の日記 ヘレンの母の図鑑 古い世界地図
Money
九十七シリング
「どこからこのような大金を手に入れたのですか?」
受付は、たった一刻のうちに大金を用意したエディとヘレンを見て怪訝な表情をする。当たり前の事だ。元々大金があるなら出し惜しみなどしないだろうし、お金を稼ぐにしても一時間と少しで百シリングに相当する金貨五枚を集めることなど出来ない。受付の怪しむ視線を感じ取ったエディは苦笑いをする。
「装飾品を売ったらお金になりました」
一概に間違いではなかったが、やはり受付の顔には『怪しい』と書いてある。だが、受付も犯罪を取り締まる係ではなく、いちいち客に目くじらを立てるのは面倒だった。天秤を取り出すと、手元にある金貨の重量と比べる。もちろん贋金ではない。ため息をつくと、受付は十シリングをエディ達に手渡した。
「まあいいでしょう。贋金ではないなら、こちらとして特に言う事はありません」
それだけ言って、受付は港へ続く扉を開いた。エディ達はほっと息をつくと、港の桟橋に足を踏み込んだ。
「うわあっ。近くで見ると迫力が違うね、やっぱり」
エディは目の前に泊まっている軍艦を見て、改めてその大きさを実感する。五十人は楽に暮らせそうだ。そんな大きさの船が五隻も並んで停泊している様を見ているだけで、エディは押し潰されそうな気がした。
「軍船はともかく、私達の船はどこかな」
五隻の迫力に圧倒されているエディの肩を叩き、ヘレンは彼を現実に引き戻そうとする。エディは四、五回叩かれてようやく振り向いた。
「うん、そうだ。僕達の乗る船は……あ、あれだ」
エディは港の端に停泊している船を指差した。確かに周辺の軍船と比べて、大きさははるかに見劣りしている。三十人がようやく入れる程度の大きさしか無い、カラック船だった。エディは目を陽の光に輝かせた。晴れた海の向こうには、うっすらと緑色の大地が見える。幾度と無く耳にしながら、一度も足を踏み入れたことはない、エウロパの大地だった。ヘレンの方に振り向くと、エディはにっと笑ってみせた。
「さあ、行くかい?」
ヘレンは自分の足元を見つめていた。生まれてこのかた、自分がブリテン島から足を離すなど思ってもみなかった。この先の事を思うと、何故だか足に力が入らなくなってくる。無意識に旅を拒んでいるのかもしれない。しかし、エディの腕を掴んだだけで、足に力が蘇ってくるのだ。ヘレンは不思議で仕方がなかった。エディの屈託の無い笑みを見つめると、ヘレンも自然に口元が微かに引き伸ばされる。
「うん」
エディは嬉しそうに何度も頷くと、先に船へと続く桟橋の上に立ち、ヘレンをエスコートするために手を差し伸べる。
「さあ、気をつけてください。お嬢様?」
ヘレンは思わずはにかんで頬を赤らめる。自分を元気づけるために道化を演じてくれているのが彼の笑顔でわかった。嬉しくもあり、『お嬢様』という言葉回しに照れてもしまった。うつむいて手いじりをしていると、エディはその手を静かに取る。
「行こうか」
「うん」
エディ達は桟橋の上を渡り始める。床が軋み、波に揺れる船に合わせて桟橋も揺れる。ブリテン島を離れ始めたことをわずかに感じさせた。ヘレンは肩越しに振り返る。一歩ごとにドーバーの街並みが離れていく。白い町並みが太陽の下で明るく光る。母に抱きしめられているように心地良く、温かい景色だった。エディも足を止めて向き直る。
「戻ってきたら、この街はどんな風に見えるんだろうね」
ヘレンは頷くと、静かに呟いた。
「今よりきれいになってるといいな」
エディの後に付き、ヘレンは船に乗り込んだ。
風を受けて帆は膨らみ、穏やかな海を二つに割って船は進む。鉄の嵐を目前にした海は束の間の静寂を保ち、カモメが空で鳴き交わしていた。
「思ったより人が少ないね。もっと多いかと思ってたけど」
「確かに……そうかも」
エディの意外そうな口振りにヘレンも合わせる。法外な運賃のために乗船を断念する人も多かったのか、両手で(乗組員を含めるならそれに片足を加えて)数えられるくらいの人しか乗っていなかった。甲板の上も人影はまばらだ。退屈しのぎに、エディはヘレンの持ってきた植物図鑑を眺めていた。一方のヘレンは、飽きもせずに静寂の海を見つめている。エディは図鑑越しにヘレンの背中を眺めてみた。潮風を受けて、ヘレンの柔らかい栗色の髪が揺れている。
「海ばっかり見て、飽きないんだね」
横顔だけエディに見せて、ヘレンはこくりと頷いた。目の前の海は陽の光を浴びて、白く輝いている。船が立てる波が、その表情を数百幾千にも変える。両親との思い出を反芻しながらぼんやり眺めている分には最高だった。むしろ、エディが海を見飽きるということの方が不思議だった。
「どうして飽きちゃうの?」
「何も変わらないじゃないか」
エディは肩を竦めながらヘレンと正反対の事を言った。口を尖らせると、ヘレンはエディを手招きする。
「ううん。そんな事ないわ。ちょっと来てよ」
ヒヤシンスが描かれているページに栞を挟み、エディは髪を掻きながら立ち上がった。ヘレンの隣に立って眺めてみるが、やはり海は微笑んだまま何も表情を崩そうとしない。エディは長々と息を吐き出した。小さな頃はヘレンのように感動を覚えられた気がしたが、今はもうだめだった。
「だめだ。僕にはよく分からないよ」
「ふぅん……残念」
それだけ言うと、ヘレンは急に辺りを見回し始めた。海を割る船首。風を受ける帆。ヘレンは小さく首を傾げた。エディはヘレンの疑問符を受け取る。
「ねえ。何が不思議なんだい?」
相槌を打ち、ヘレンは海の上を飛び交うカモメを見つめた。ヘレンは以前にも船に乗った事はあった。だが、その時乗ったのはせいぜい二人か一人しか乗れないような舟遊び用の小さなボートだ。この巨体とは比べ物にならない。
「こんな大きなお船が水に浮かぶなんて、エディは不思議だと思わないの?」
「それは、浮力という力が働いているからさ。水に浮かぶ物体は、その物体が押しのけた重さと同じだけの力で持ち上げられるんだけど、船の重さよりその力の方が大きいから浮かぶんだよ」
「そういう事じゃないよ。それでも不思議だと思わない? 事実としてそうなってるけど、どうしてそうなるかなんて分からないでしょ?」
間合いに踏み込んだヘレンの言葉に、エディは戸惑ってしまう。今までそんな事など考えたことも無かった。知識として浮かぶ理由は知っている。しかし、ヘレンの言葉を聞いた後で船を見回してみると、得体のしれない力が作用しているように思えて仕方なくなってきた。エディは小さく頷く。
「そうかも。こんな大きな船が風一つで動くなんて、よくよく考えたら不思議なことなのかもしれない」
エディが隣で呟くのを聞きながら、ヘレンは船尾の方へ振り返った。アルビオンの、絹のように白い岸壁が眩しく光っている。間近で見た時はこれほどまでに白く輝いているものだとは気がつかなかった。今度は船首の方を見つめる。霞んで見えていたヨーロッパの緑が徐々に濃さを増し始め、視界いっぱいに広がり始めた。ヨーロッパはブリテン島の何倍も広いという。アジアも含めれば、何十倍あるかもしれない。自分達は旅の果てに神を見つけられるのだろうか。ヘレンはぼんやりと考え、ふと思ったことを呟いた。
「みんなが当たり前だと思ってる事も、神様が決めたのかな」
遠い目をしているヘレンの横顔を、エディは隣でじっと見つめていた。
その一時間ほど後、カレーの港にようやく辿りついたわけだが、早速エディ達二人は何か様子が変わってしまっていることに気がついた。埠頭に降り立った人々が、フランス軍の兵士に連れられどこかへ行ってしまうのだ。エディ達は顔を見合わせた。近々フランスとイングランドで海戦が起きるという魚屋の話を思い出し、辺りを見回してみればドーバーと同じく軍船ばかりが停泊している。見ていたエディがピンと来た。
「きっと警戒しているんだよ。不穏な空気だし、フランス軍としてはイングランドから来る船には気をつけたいと思うでしょ?」
ヘレンは埠頭に立っている一人の兵士の表情に目を凝らす。しかめっ面で仲間の兵士に乗客を引き渡していて、その緊張が周囲に発散されているようにヘレンは思った。自分まで緊張し、その緊張を軽い恐怖と受け取ったヘレンは、静かにエディの背中に張り付く。
「何だか怖い。あの人」
ヘレンの重みは責任の重みだった。旅に引き込んだ以上、ヘレンは自分が守ると決めたのだ。何かあったら、背負って一緒に逃げてしまおう。エディは意を決して埠頭に降り立ち、兵士の前に赴いてその目を合わせる。大きな帽子のつばの影に隠れた視線がこちらに突き刺さってきて、エディは口の中が乾くのを感じたが、エディは息を強く吸って尋ねた。
「私達はどこへ連れて行かれるのですか?」
フランス兵は一瞬戸惑ったようだったが、間もなく兵士は内陸の方、大きな赤レンガの豪奢な建物がたっている方角を指さし、たどたどしい英語で教えてくれた。
「今、ラ・ロシェルで包囲戦、行われている。イングランドはラ・ロシェルの味方。私達は間諜がいないか調べている」
エディは背中のヘレンと目を合わせ、首を振ってみせた。仕方がない。自分の無実を証明して、何とか解放してもらおう。
「それなら仕方ないですね。どこに行くのですか?」
「お前らは子どもだ。子どもに間諜が務まるとは思えないから、取り調べは免除だ」
首を振りながら言った兵士の言葉を耳にし、エディ達は思わず兵士の表情を窺った。今までしかめっ面だった兵士がわずかに微笑みを浮かべ、優しい眼差しをこちらへ向けて送っていた。肩の力を抜いた兵士は、打って変わった優しげな口調でエディ達に尋ねる。
「どうして、今フランスに来た?」
神様を探しています、とは答えないことにしておいて、代わりにエディは懐から手紙を取り出した。シャルルから彼の親友に宛てて送られた手紙だ。エディは兵士に宛名を見せる。
「この人達を探しているんですけど」
「む……君達はダルタニアン伯に会ったのか。Je vois……(なるほど……)」
フランス語の独り言を呟いた兵士は、しばらく唸って考えていた。やがて手を打つと、懐から鉛筆を取り出して、エディの持っている手紙に一筆付け足した。
「紙が無いから、勘弁してくれ。君達に馬を手配した。食事や宿も用意してくれる。伯爵の伝令だからな」
兵士の何とも粋な計らいに、エディは顔を晴れやかにしながらヘレンと目配せすると、ヘレンも控えめな笑顔で応えた。エディも少し粋なお返しをしてみたくなる。父の手記に記されていたフランス語を思い出し、エディは笑顔で礼を言った。
「Merci!(ありがとう!)」
兵士は一瞬目を丸くした後、再び柔和な表情に返りながら頷いた。
「C'est la condition. Pratiquez plus.」(その調子。もっと練習するんだ)
言葉の意味はわからなかったが、兵士の言わんとする事は伝わってきた。褒められた嬉しさに、エディは満面の笑みで兵士と握手をかわし、兵士が指で示してくれた停留所を目指して歩き始めた。ヘレンは珍しく弾んだ声でエディに話しかけた。
「優しい兵隊さんで良かったね」
「ああ。とても助かったよ」