表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜明け前の名前

掲載日:2025/12/25

短い恋愛小説です。アイデアは友人が出しました。

 僕の家の近くには、知り合いのマスターが経営する喫茶店があった。それはマスターの意向で夜の間も営業していた。

 僕はきっと忘れることはできないだろう、そこで出会った大切な人を。ほのかに苦い、コーヒーのような思い出を。


 夜明け前の喫茶店は、いつも薄暗い。窓の外では街灯がまだ仕事をしていて、コーヒーの湯気だけが現実を思い出させる。彼女はいつも同じ席に座り、同じようにカップを両手で包んでいた。


「今日も、眠れなかったんですか?」


 僕がそう聞くと、彼女は少し笑った。


「ええ。でも、ここに来る理由ができるから、悪くないですよ」


 理由。

 それが僕であることを、彼女は言わなかったし、僕も聞かなかった。

 僕たちは、お互いの過去を知らない。仕事のことも、家族のことも、未来の話も避けてきた。ただ、夜明け前の一時間だけを共有していた。それで十分だった。

 彼女の横顔は、いつも少し疲れていて、それでも綺麗だった。誰かを待ち続けた人の顔をしていた。

「ねえ」と彼女が言った。「人って、忘れられるときが一番幸せだと思いませんか?」

 僕は答えなかった。

 本当は、忘れられるより、覚えられたまま終わりたいと思っていたから。


 その日を最後に、彼女は来なくなった。

 喫茶店のマスターは何も言わなかった。ただ、今日だけは、僕のコーヒーについてくるシュガーの量が少しばかり多かった気がした。

 数週間後、夜明け前の街で、僕は偶然彼女を見かけた。誰かの隣で、昼の顔をしていた。声をかけなかった。名前も知らない人を、呼び止める理由はなかった。


 それでも、胸の奥で何かが静かに終わったのを感じた。

 今でも夜明け前になると、あの席を見てしまう。

 呼ばなかった名前と、始まらなかった恋を、確かに愛していた。


 僕は、夜明け前の名前を、ずっと、知らないままにした。だって………


 忘れたく、なかったから。

すぐに読み終わりましたでしょう。きっと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ