夜明け前の名前
短い恋愛小説です。アイデアは友人が出しました。
僕の家の近くには、知り合いのマスターが経営する喫茶店があった。それはマスターの意向で夜の間も営業していた。
僕はきっと忘れることはできないだろう、そこで出会った大切な人を。ほのかに苦い、コーヒーのような思い出を。
夜明け前の喫茶店は、いつも薄暗い。窓の外では街灯がまだ仕事をしていて、コーヒーの湯気だけが現実を思い出させる。彼女はいつも同じ席に座り、同じようにカップを両手で包んでいた。
「今日も、眠れなかったんですか?」
僕がそう聞くと、彼女は少し笑った。
「ええ。でも、ここに来る理由ができるから、悪くないですよ」
理由。
それが僕であることを、彼女は言わなかったし、僕も聞かなかった。
僕たちは、お互いの過去を知らない。仕事のことも、家族のことも、未来の話も避けてきた。ただ、夜明け前の一時間だけを共有していた。それで十分だった。
彼女の横顔は、いつも少し疲れていて、それでも綺麗だった。誰かを待ち続けた人の顔をしていた。
「ねえ」と彼女が言った。「人って、忘れられるときが一番幸せだと思いませんか?」
僕は答えなかった。
本当は、忘れられるより、覚えられたまま終わりたいと思っていたから。
その日を最後に、彼女は来なくなった。
喫茶店のマスターは何も言わなかった。ただ、今日だけは、僕のコーヒーについてくるシュガーの量が少しばかり多かった気がした。
数週間後、夜明け前の街で、僕は偶然彼女を見かけた。誰かの隣で、昼の顔をしていた。声をかけなかった。名前も知らない人を、呼び止める理由はなかった。
それでも、胸の奥で何かが静かに終わったのを感じた。
今でも夜明け前になると、あの席を見てしまう。
呼ばなかった名前と、始まらなかった恋を、確かに愛していた。
僕は、夜明け前の名前を、ずっと、知らないままにした。だって………
忘れたく、なかったから。
すぐに読み終わりましたでしょう。きっと。




