森の目覚め
どれくらい走っただろうか。
もうへとへとで足が動かない。
風も火も遠くに消え、
残ったのは静けさだけ。
リオンは倒れた。
冷たい土の上で息を切らし、
涙も声も、もう出なかった。
耳の奥で、母の声が何度も響いていた。
――生きなさい。
その言葉だけが、暗闇の中で形を持っていた。
どれほど時が過ぎたのか、
空気が少しだけ変わった。
夜の湿った匂いの中に、
花の香りが混じったのだ。
「……ここは……」
目を開けると、周囲の木々が淡く光っていた。
葉が揺れ、枝の影が優しく頬を撫でる。
まるで、そこに“心”があるかのようだった。
どこからか、水の音が聞こえる。
歩き出すと、細い川が月明かりを反射して流れていた。
その水面に、青白い小さな粒が浮かんでいる。
触れると、光が指先を伝って消えた。
その瞬間――
リオンの胸の奥で、何かがざわめいた。
温かくて、懐かしいような感覚。
森が、彼を“知っている”。
『泣かないで、呼び子よ。』
声が聞こえた。
風のような、葉擦れのような。
でも確かに、誰かが語りかけていた。
「だれ……?」
リオンは涙を拭いながら、周囲を見渡した。
『ここはあなたの森。
あなたの家族が守りたかった場所。
そして、あなたをこれから守る場所。』
木々が音もなく揺れ、
その枝の先に光が生まれた。
小さな粒が集まり、ひとつの形をつくる。
それは――
角に若葉を宿した鹿の姿をしていた。
毛並みに緑が混じり、瞳は深い琥珀色。
聖獣――ミリウス。
その名を、リオンは知らない。
けれど胸の奥が懐かしさで震えた。
『あなたを迎えに来ました。
森は、ずっとあなたを待っていたのです。』
ミリウスが一歩近づくと、
森全体が息をするようにざわめいた。
小鳥が枝から羽ばたき、花が夜に咲き始める。
リオンはその光景に息を呑み、
膝をついたまま、ただ呟いた。
「母上、父上、叔父上…」涙とともに言葉がこぼれてきた。
ミリウスは静かに首を傾げ、
リオンの額に鼻先を寄せた。
温かい光が走り、
森のざわめきが遠くまで響いた。
もう大丈夫ですよ。とそう言ってくれるような優しさに包まれた。
ミリウスは体を寄せてリオンの体を温める。
周りの風が巻き上がり、
それはまるで森そのものが、
“ひとつの命”として目を覚ましたかのようだった。
リオンはその光の中で目を閉じた。
怖さも、悲しみも、全部その中に溶けていく。
ただ、胸の奥に確かに感じた。
――この森は生きている。
――この森は、僕の家族の声だ。
夜が明けかけていた。
木々の間から差し込む淡い光。
鳥の声。花の匂い。
そして、温かい風。
リオンはゆっくりと立ち上がった。
その小さな背中に、森の風が絡みつく。
緑の光が、彼の掌で揺れた。
「ともに生きていこう……」
森の奥で、ミリウスの鳴き声が響いた。
それは祝福のように優しく、
けれど確かに、新しい物語の始まりを告げていた。




