夜の火
村はいつもより静かだった。
だがその静けさは、嵐の前のそれではなかった。
人々の胸に溜まった不安が、抑えきれない怒りへと変わっていった。
「この病を広めているのは、あのヴァルド家のせいだ」
葬列の前で、領地の役人が低く囁く。
喪に服した親は、泣きながらもその言葉を耳にして――
抱えた幼い身体の重さよりも、胸の中の怒りの方が重くなっていた。
あちこちでそんな場面が起きていた。
喪に追われる者の悲しみは、誰かの口に触れると毒のように増幅する。
「ヴァルド家め」と、声が連鎖していく。
火種は町の隅々に飛び散った。
城下の高台では、計画が綿密に整えられていた。
長い夜、男たちは酒をあおりながら地図に指を這わせる。
「首尾は順調か」囁くように城主が訊ねれば、側近は軽く頷く。
「上々です。いまにでも向かわせられます」
誰の目にも、これは“正義の執行”に見えるべく仕組まれている。
「ヴァルド家は目立ちすぎた。奴らがあのまま成り上がるなどあってはならぬ」
そう言ったのは、よく笑う貴族の一人だ。
彼の背後には、息のかかった山賊の頭や、暗殺集団の名が並べられていた。
「山賊風に仕立て上げ、村を襲わせる。あとは我々が“鎮圧”すればよい」
冷たい計算が、低い声で交わされる。
夜風が町を吹き抜けるころ、槍声と叫びが遠くから聞こえてきた。
最初は犬の吠えかと思った。次に、扉が叩き壊される音。
火がひとつ、ふたつと灯り、影が家々を駆け抜ける。
「ヴァルド家を討て!」
「森の呪いを浄めろ!」
――それは、恐怖と嫉妬に燃やされた人の声だった。
そして、その声の影で、いくつもの金貨が動いていた。
屋敷の門が破られる音。
リオンは母の腕の中で目を覚ました。
遠くで剣が鳴り、怒鳴り声が混ざる。
父の声が響いた。
「リネア、子どもたちを頼む!」
その声に応えるように、風がうなった。
父――レオンハルトは剣を構え、
足元の魔法陣から淡い青緑の風を立ち上らせる。
「ヴァルド卿だ! やつが森を操っている!」
叫びながら突進してくる敵兵たち。
レオンハルトは息を整え、剣を一閃――
刃が風を纏い、三人まとめて吹き飛ばした。
「貴様らは誰の言葉を信じている!」
怒声が夜に響く。
風が荒れ、屋根の上の火が一瞬だけかき消えた。
その横では、祖父エルドが両手を地に押し当てる。
土が震え、地面がせり上がる。
侵入者たちの足元が割れ、厚い土壁が立ちはだかった。
「ここは通さん!」
その声に、魔力がこもっていた。
壁は石のように硬く、矢を弾き、
門を破ろうとした者たちを押し返す。
「じいさま!」リオンが叫ぶ。
「リオン、見るな! お前は行け!」
祖父は振り返らず、土壁の向こうから轟音が響いた。
母リネアは、リオンの手を強く握る。
「こっちへ、森へ行くの!」
走り出すその背後、炎の舌が屋敷を舐める。
リネアの瞳に、水色の光が宿った。
掌を掲げると、透明な波が地を滑る。
炎が消え、道が開かれる。
「あなたの道を焼かせはしない……」
彼女の声は震えていた。
それでも笑っていた。
「大丈夫、リオン。怖くないわ。ほら、森まであと少し。」
そのとき、背後で雷鳴のような音がした。
土壁が砕け、風が散る。
敵がなだれ込む。
父の剣が閃き、祖父の声が響く。
「リネア、行け!」
リオンは立ち止まった。
母の手が血で濡れているのを見た。
「母上、傷が――」
「大丈夫、かすり傷よ。」
そう言いながら、彼女は一歩しゃがみ込み、
リオンの顔を両手で包んだ。
その手は温かく、震えていた。
「リオン、いい? あなたは生きなさい。
この森があなたを守る。だから……だから振り返ってはだめ。」
「でも母上……!」
涙で声が詰まる。
リネアはその頬を撫で、微笑んだ。
「あなたが生きることが、みんなの幸せなのよ。」
その言葉とともに、水の波が再び走る。
道を覆う炎が一斉に消え、
森へ続く細い小径が開いた。
リオンは走った。
背後で、父の咆哮と、土が崩れる音が重なる。
振り返ることはできなかった。
ただ、耳の奥に家族の声が焼きついた。
「――風よ、守れ!」
「――大地よ、我が盾となれ!」
「――水よ、導け!」
森の入り口。
リオンは立ち止まり、
頬を濡らす涙を拭おうとしても、もう手が震えていた。
背後では炎が舞い上がり、屋敷が崩れる音が夜を覆っていた。
「森よ……どうか、みんなを……」
言葉は震えたが、森が答えたように風が吹いた。
草の匂いが、母の髪の香りと重なる。
リオンは走り出す。
木々の間を、光のように。
血の匂いと涙の味と、母の声を胸に抱いて――
彼は、ただ走り続けた。




