8.タウの原理
黄色と黒のアラート模様。『この先危険』とある扉から頂上に出ると、時計塔には心地よい風が吹いていた。ドア枠から踏み外さないよう慎重に引っ込めた足下に目をやれば、新たな引力が働いて吸い込まれるような町の全貌が広がっている。妙に湾曲してみえる。
タウは扉をしめ、埃っぽい時計塔のなかに引き戻った。
タウの場合は不法侵入というより、そもそもこの場に居て、しばらくしたらいつの間にか不法を侵していたという説明が妥当だろう──世界の縁に立つ観測者によれば、タウの居た場所に時計塔が出現したようにも見えたが、記録は取っておらず、また彼の記憶も曖昧だった。記録簿としての人は劣等種である。そして世界の縁に到達する推進力を、科学はいつまでも獲得できないでいる。
タウはどこで何をしていたのか?
──家で昼寝をしていたのさ。
タウの家は時計塔と同じくらい高さなのか?
──全然。時計塔はこの町一番の高さだから。
2ヶ所の高さが一緒なら納得したってわけ?
──いや、そうではない。
ううむ、これは夢なのだろうか?
──これが夢だと片付けるにはまず目を覚まさなきゃだね。
「起きろタウ!」
タウの頭の中で、この世のどんなCMよりも印象的な声色が弾けた。タウはその声と全く同時に目を覚まし、覚ました後に残っていたのは自分の体と、さっきまでと同じ時計塔の裏側にある埃っぽい空間だった。でもまだ夢じゃないと決めつけるには早いね。タウは千夜一夜も真っ青な夢の奥深くにディープダイブ中なのかも。
階段が軋んで、頂上へ上がって来る誰かの足音がした。こんな時、タウなら逃げも隠れもしない。ただつっ立っていた。
階段を上がって来た男は、タウの姿を認めるなり後ろにひっくり返った。
「うわあっ」
その声はどこか変声期以前の風味を残している。
転げながらダブダブの作業着を空中に余す。少年と呼ぶには顔つきも体も成長し過ぎているが、青年と呼べるほどの頼りがいはまだ身につけていない。絶妙な年ごろ。四葉マークの缶バッジを作業着の脇腹あたりにつけている。町のクリニックから電子カルテを拝借すれば、名前をワルツといい、163cm、40kg、O型、春の半ば生まれ、年一ペースの風邪っぴき、杉花粉・ハウスダスト・犬猫……。
「アンタ誰だよお! こ、ここは勝手に入っちゃダメなんだ!」
「ごめんなさい。」
「ご、ごめんなさいじゃなくて……出てって!」
言われた通り、タウは階段を下りて行った。
一人になったワルツは尻もちをついたまま、癖で缶バッジの表面を軽く親指の腹で撫でると、それからひょいと跳ねるように立ち上がった。大変な事態にはならず、いつも通り仕事に取り掛かれることを安堵した。ワルツは仕事を始めた。すると一日は早く過ぎ去った。
タウは帰り道、その一日に置いていかれたような気分だった。嫌な考えばかりが浮かぶ。感情、現実感の喪失。鬱病インターネット診断の項目。社会から切り離され同期がうまく行かないとこうなるという立派な見本だった。クラシックで格調高い<様々な見本が枝分かれし進行する世界>という一種の世界標本……。グリニッジ標準時の明石天文台っつうか、朝昼晩がやって来る前提っつうか、電波時計っつうか、通信制御っつうか……「ぜんぶコミュニケーションなわけよお!」アニメチックギャルが皆さん大好きな真理を叫んで通り過ぎる。漢字も覚えないで、ひらがなのみで哲学領域に繰り出したモンスター。これくらい動かせたら楽しいだろうなー、とかいうヘボゲーマーの羨望の眼差し然り、つまりは単純な知識のスタックだけではシンプルコンピューターすら動かないという訳だ。これは全部スマートフォンに書いてあることだ。タウの頭はめちゃくちゃに冴えていたからこそ、今日は一日に置いてかれた気分だったのだ。
タウの認識ではまだ夜なのに、もう朝。カーテンの閉じていない窓の外が白んで青みがかって、目の前がチカチカして、キ・レ・イなんて3文字思い浮かべる暇もなかった。ワルツはワルツで今日も時計塔で働いている。タウはどこで何してる? 家で昼寝してて、なんだか今にも何か起こりそう! あ、飛んでった!
今回はタオルケットを体にかけたまま浮遊。太陽に近くなると暑い。タオルケットは空中で邪険にされ落下。時計塔で働いてたワルツは飛んできたタウを見て腰を抜かした。
「昨日のヤツ! 出てってよ!」
でもタウは寝てる。聞こえてない。その場所は寝てても特に邪魔にならない。そして瞬く間に挿しこまれる、世界の縁よりのコショコショ。
「……ま、起きたらでいいか。」
「うん。ま、いっか。」
ワルツって優しい奴! だから好きさ! 僕は人の優しさにいつまでも甘えていたいから、今日も誰かの心を優しくするのさ! タウは寝てていいよ! タウに優しくするのは僕というか、僕の優しさを発散する相手がタウなのさ!
時計はとどまることを知らないべきである。路地裏の猫たちはファミレスのゴミ漁りを始め、しばらくしてそこに残っていたのはガタイの良いボス猫だけだった。彼らは勝っても負けてもミャーといい、世の言語が発音部分とセンテンス部分に分けられることを、真向いのマンションの3階に暮らす少年は本で学んだ。彼の睡眠学習時間、朝を待って眠っている時間、タウは家に着いてからずっと眠れなかった。一方でワルツは眠っていた。寝息でワルツの三拍子を刻み、ぐっすりウキウキ眠っていた。