6.タウの貸借
タウは銀行に来ていた。袖には汗っかきの詐欺師がしがみついている。
「タウさん。ほら、言ってみて。おかねをかりにきました。せーのっ。」
タウは一切口を開かなかった。
地方銀行は決まって中が細い廊下みたいなつくりになっていた。とりわけこの支店は改装元が古い木造建築の教会だったため、一つの広い空間をいくつかの部屋に分けようと背の高い壁を差し込んである。つまり壁に挟み込まれた道を真っ直ぐ講壇へ向かうように、小さな階段を二つ三つ上がったところには受付窓口が一つ、ポツンと置かれていた。たった一つしかない窓口の内側には銀行員も一人だけ配置されている。
窓口の背後にそびえるモノトーン調の壁には、左右に一つずつ扉が取り付けられていた。右の扉のプレートには「WC」、もう片方には「STAFF ONLY」と刻まれている。「STAFF ONLY」の壁の向こうからは、おびただしい数の人が駆け回る足音がしていた。好きに使えるかは置いといてとりあえず銀行には山ほど金がある。
詐欺師はそれを借りる責任を全てタウに押し付けようという魂胆なのだ。
窓口の向こうの銀行員が、タウが用件を言うのを待っている。彼は早く支店長に昇進したくて、机の下で隠れてする貧乏ゆすりを止められなかった。その落ち着きない様子を防犯カメラはばっちり捉えているのだが、モニターだけが明かりの真っ暗な警備室では誰も見張っていない。教会だった頃と比べ、床がピカピカの大理石に張り替えられているので、周囲にバレないよう靴底の音を軽減するにも力加減が微妙だった。それを気にしたせいで勢いを緩めすぎても本末転倒でいけない。この銀行員はとにかく、日頃のテキトウな仕事ぶりでも悠々昇進できるのだという学生時代からのスピリットを胸に、短髪の爽やかなセットが今日も若々しい。
詐欺師の襟元に結ばれた派手なネクタイが緩んできている。タウの誘導に手こずりつつもまだ諦めていない様子。
「タウさーん。聞こえてますかー? もう一度一緒に言いましょう。じゃあいいですか? せーのっ、おかねを、かりにきました。」
「WC」と書かれたプレートの扉から人が出てくる。その目に優しい黒板色のスーツを着た男はハンカチを両手でこね回しながら、チラチラと窓口のいざこざに目をくれる。彼もまたここの銀行員の一人だった。濡れた手を入念に拭きながら、「STAFF ONLY」のドアの中へ吸い込まれていく。一瞬覗けたのは慌ただしく飛び交う書類とハンコと仕事着の人々。宇宙ステーションみたくコーヒーの水滴も浮かんでいた。
唯一の窓口担当である彼は、こう何十日、何百日、何千日と客を待って立ち続けていると、足下から人生が崩れ去るような感覚に陥ることがあった。それはちょうど疲れた日の入浴の直前に似ている。彼は脱衣所で服を脱いで、浴室へのドアの前に立った。いったいどうしたら浴槽に行けるんだっけ。どのようにしたら高校を卒業し、大学を終え、結婚することができるのだろうか。しかしそのあと僕は浴槽に浸かっているし、こうしてドアの前にもどってきたではないか。卒研を片付け、結婚して三人の子どもがいる。ずいぶんと時間が経ってしまったものだ。
まさに彼は、タウと詐欺師のやり取りを前にしてそんな気分だった。二人がお湯を貯めておくための向かい合った壁に見える。他の3枚の壁は透明。透明の浴槽に浸かる、歳を取り脂肪のついた自分の身体を眺めながら思った。自分はこの銀行の窓口を担当しているのだから、目の前で詐欺行為が行われようとしている今、それを防がなければならない。彼はデスクの引き出しの内側に仕掛けられた8種類の非常用ボタンのうち、詐欺発生を報せるボタンを的確に入れる。途端、銀行の三角屋根の上の空をヘリコプターの羽が切る音が響いた。
陽光を取り入れるために開いた天窓から頑丈なロープが垂れて、滑りながらセキュリティサービスが降下してくる。もれなく全員装着したヘルメットは蝿のような顔つきをしている。ゴム弾を装填した自動小銃を一斉に構え、汗だくの詐欺師を銀行で鎮圧。明日のビッグ良いニュースは彼らが飾ったも同然だった。もと来たロープに掴まって天窓から部隊を引き上げる。
タウはいつの間にか帰っていた。残された銀行員は背後から同僚たちの慌ただしい足音を耳にしながら、これからも何万日という時間を支店長になれないまま過ごすのだった。
ある日、壁のどこに埋め込まれているのか見分けがつかないほど精細に切り開かれた支店長室直通エレベーターから、支店長が出て来た。支店長の背中、歩幅、各種器官は、そのどこを切り取っても常人のサイズを遥かに超え、種明かしをすれば彼は、対峙した相手の自虐的な感情を膨らませ認知を歪ませる人心掌握術に長けていただけのことなのだが、いずれにせよトップに居続ける人間というのはそういうものだ。今年で241歳を迎えるという彼の体は健康そのもの。地面から垂直に伸びた足腰背筋は、銀行の従業員と床が媚びへつらいで斜めっていない限り、紛れもない本物に違いなかった。この銀行の窓口に居続ける彼は毎日その定位置に立って、支店長の来る姿帰る姿を目にしているせいで、マインドコントロールの支配下ど真ん中にあると考えられる。しかし窓口業務は問題なくこなしている。支店長としても家族としても、仕事さえやってくれれば何も問題はなかった。時々風呂の入り方を忘れるくらい構いはしない。ああ聖なる地方銀行。これがあと何百億日とつづく。