19.タウのニュー世代
大きな鞄を開けて、十数枚からなる機密失踪者リストを取り出した。印字の黒が光る。これに記されている人みんな、この平坦な世界の外周を覆っている分厚い氷の壁の向こう側にいなくなったんだって。ひらめく紙の束が手から手に渡る。受け取ったタウが速やかに次ページへとめくる。黙々と視線を進めてはいるが、理解の気配はまるでしなかった。
お隣でハローは品よく紅茶を含んだ。飲食をするに当たってもずっと美しい横顔。軽やかな仕草は逆立ちしたって真似事にもならない。着ているドレスの首元にあしらわれたフリルがお似合い、なのにどうしてそれが彼女だと途端に子供っぽく思えないのだろう。人の魅力は尽きない。
これはある日ハローの住むお屋敷、広い庭園の片隅に置かれた温室の中、花の匂いが充満した空間でのこと。
『そろそろ世界を理解しましょうの会』
そう銘打って集まった友人同士が3人。円卓には下品にも思えるほどの愉快な笑みを浮かべる男の姿もあった。オーバーサイズのアロハシャツは焦げ茶色のカバとイチョウの葉のプリントに埋め尽くされている。その淀んだ色のサングラスが不敵でとっても素敵だね、ニーハオ。ニーハオはお隣のタウから、さっき渡したばかりの失踪者リストを奪い取って再び鞄に引っ込めた。
タウはまだ手元にある資料の残像を眺めたままフリーズ。
ニーハオが冗談っぽい間を込め、「え~、始めよう」と場の舵を握った。
両手に包んだティーカップを口元に寄せたまま、ハローは微笑みを差し向けた。
「今日の議題はなあに?」
「今日の議題もオレが持ち込みだよ。」
「やったわ! 私、あなたの用意するお話が好きなの。」
実際、ハローはこの会においてまだ一度も議題を持ち込んだことがない。無垢な少女のように、他人の考えを聞くことは彼女にとって喜びだった。
その眩し過ぎる少女の眼差しをニーハオはサングラスのレンズ面で弾き返した。
「今日は、物事を細切れにせず理解できるのかっていう話をしよう。」
「なによそれ!」ハローは背もたれから身を浮かせた。
「科学の方法に嫌気が差したエンジェルファッション世代の反骨精神……。」
呟き、ニーハオは紅茶を一口流し入れる。グッと傾けた彼のティーカップの曲面は勇敢な青色を放っていた。
「イカすのね!」
ハローの胸の高鳴りは跳ね返されるほどに勢いを乗せてニーハオに向かった。
いつの間にかタウも残像なんて忘れて、ニーハオの話す方に体が向いていた。
ニーハオはティーカップを受け皿に戻し、指にハーブクッキーを摘まみ直す。
「**ザックザック**……世界の歴史を、仕組みを、秘密を、全て丸ごと頭の中に収めてしまいたい。どこまでも地続きに、一切の断絶もないままに。専門化やデジタル解析なんていう人類最大の誤魔化しに頼っているようでは到底通用しない、アナログ世界観の極致に辿り着きたい。全人類がそうありたいと日夜、同一の夢のさなかにあるんだ。」
「**ザックザック**……へえ、そうだったの? 私、知らなかったわ。」
「**ザックザック**……うん。」タウがハローに同意してニーハオを見る。
「オレが一昨日くらいに気づいたんだから。それは無理もない。」
ニーハオは言って2人を見やった。
「まずはっきりさせるべきは、理解というものについてだ。」そして話を続けた。「何かを理解するというのはどういった状況なのか。科学の方法が躍進する裏で、理解には再現性が伴っていなければならないという思い込みが蔓延しているが違う。理解はあくまで主観的なものであって、子供の頃に読んだおまじないが効力を秘めていると思っていてもいいし、後々になってそれは違っていたのだと思い直してもいい。」
「ちょっと待って」ハローが横から、たった今浮かんだばかりの疑問をぶつける。「理解が主観的だと言うなら、理解には再現性が伴うものだと思うのもまたよしってことになるわよね。」
これに対してニーハオの答えは淀みない。
「ああ、構わない。ただしそいつの理解の穴をオレは突くことができる。とはいえその主張に従うかどうかも相手の判断に委ねらるんだがな。言論もボクシングと同じ体力勝負だ。早いところ科学をパンチしたくてたまらなかったんだ、オレは。」
そう言ってニーハオは紅茶を飲み干した。するとドア音も靴音もさせない優雅な足取りでハウスメイドが円卓に現れ、ニーハオの青色のカップに新しく紅茶を注いだ。ハウスメイドは優雅な足取りで姿をくらます。
「思うに、理解とは2つ以上の事の間に関連を見出すことだ。まあ、これ自体に大した驚きはないだろう。だが今回の目標に到達するためにあえて言い換えよう。理解とは2つ以上の事の間に関連を思い出すことだと。つまりオレたちはすでに世界のあらゆる事柄の記述が済んでいることをよく知っている。問題として挙げられるのは、その内容の多くがどこかのタイミングですっかり抜け落ちているという点。しかし確かに記述は完了しているのだ。自然が体現し、発想が頭の中に電気的火花を散らしているのだから。そのことを思い出せないオレたちは、あらゆる場面において可能性と呼ぶことで一応の対処をするが、その可能性はどれもかつてはオレたち自身だった。オレたちは一生をかけて思い出しながら、安心して忘れていく。オレたちは過去から未来へと繋がる伝送路の線の束でありながら、際限のない夜空に浮かぶ星々だ。始点と終点を区別していながら始点と終点を同一視しなければいけない。時間を意識していながら時間を忘れなければいけない。」
「ちょっと待って」またしてもハローが疑問をぶつける。「それじゃあ全然訳が分からないわ。チンプンカンプンとはまさにこのことね。」
「科学も同じだ。万物は法則に従うという教義のもと担がれる一神教だ。違うとすれば世界に委ねるか自身に委ねるかという点において。言葉と音の違いほど。」
ニーハオの着る、膨らんだアロハシャツのオーバーサイズ部分が皺もなく波打った。プリントのカバが大口を開けて欠伸をかき、イチョウの葉の隙間から熟れた銀杏が落下する。
ハローはその主張に完璧には同意しかねた。しかしその熱にはしっかり当てられ、胸の高鳴りを隠し通すために言葉は少なかった。「確かに、一理あるわね。」
音もなくハウスメイドが3人に姿を現した。頼もしいエプロンドレスが恰好の印象だけで場の舵を奪取する。
「お嬢様。」その用件はハローに宛てられたものだった。「ご友人たちとのご歓談の途中、申し訳ありません。舞踏会の時間までもう間もなくです。準備いたしましょう。」
「あら、もうそんな時間だったかしら。ニーハオ、タウ、ごめんなさい。」
「いや、楽しんできなよ。」「うん。」
「よかったら2人でそのお菓子も食べて行ってね。それではごきげんよう。」
ハローはヒラヒラ手を振る。ハウスメイドと共に優雅な足取りで温室を後にする。
残されたニーハオとタウはクッキーを摘まんだ。
「**ザックザック**……さっすがに食べきれないよな。」
「**ザックザック**……うん。」
ニーハオはサングラスの曇りに気づき、耳から外した。レンズをシャツの袖で拭きながらタウに言った。
「タウは今日のオレの言ったこと、理解してくれたか?」
タウは「うん。」と答えたが、理解の気配はまるでしなかった。
そのタウのひたすら頷く姿が、ニーハオの目には何よりも羨ましく映っていた。
「なんか、お前が一番正しいのかもな……。」サングラスをかけ直した。
「うん。」
「……よし! タウにはフラミンゴとゼンマイの柄のアロハシャツを買ってやる。」
「ありがとう。」
「ちゃんと着ろよ。」
「うん。」
「似合うから。」
「うん。」
「絶対な?」
「うん。」
ニーハオは鞄を持った。タウは忘れものがないか確認した。2人はお屋敷を出て行った。




