18.タウのお尋ね者(後編)
助手席のサチが目を覚まし、ひとしきり不満を吐き出した後。それでも体の傷は残ったままだった。サチが自分の手首を気にしてさすっている。
「うーん、この掴まれた跡、どうにかなんないのかなあ。」
「ナーコ。もう気にするのは止めたらどうだ。」
「アンタが悪いんでしょうがっ。タウ君、言ってやってっ!」
「うん。」
『ハンマーヘッドシャーク』は街道を抜け、真っ黒い防風林がささやく海道へと差し掛かった。オープンカーに不慣れなタウとサチの2人は、走行の風が打ちつけておでこ全開オールバック、まばたきも追い付かないドライアイでは景色を眺めることもできずに苦労していた。ちょっとしたお喋りをするにもいちいち声を張らなくてはいけないし、案外オープンカーも悪いものなんだとサチは今回で学んだ。「タ~ウ~く~ん~ってさ~!」「な~に~」
一方ジャンゴロウの目は乾燥してもおかまいなしというように、真っ直ぐ正面を見据えていた。アクセルに片足を乗せ、可動域の底が削れるほど強く入れ続ける。したがって車は加速を続ける。彼のようなスピード狂から見る世界は分泌する快楽の波によって著しく歪められてしまうものだが、その波に抗うことによってのみ世界は真の姿を見せてくれる。黄金郷までの距離が急速に縮まってきていることは漏れなく直感が掴んでいた。
オレンジライトが連続する深いトンネルに入った。車の走行音が籠ると共に2人の話し声も通りやすくなる。「聞こえるようになった?」「うん。」そうしてお喋りに興じはじめる。ドライバーを務めるジャンゴロウは2人の会話に耳を貸さないどころか彼の耳には車の走行音すら届いていない。彼に聞こえているのはけたたましい鐘の音だけだ。その鐘の音は時を超える性質を有し、応用によって神の奇跡を再現することができた。現在のジャンゴロウの鼓膜を音圧によって破裂させ、それがトリガーとなって鼓膜が破れる寸前に潜り込んで過去にまだ残っている彼の鼓膜も破る。さらにまた寸前の過去に潜って同じことを繰り返す。それら記憶同士が時系列の問題で食い違いを起こしたとしても実際の感触だけは脳に残留したまま、現在までのジャンゴロウの人生は聴力の有無を語る暇なく鼓膜が破裂する痛みに代替された。こうして鐘の音の速度は音速も光速も遥かに超越したが、一個人の主観としての現在に完全に追いつくことはこれを以てしても不可能だった。ジャンゴロウはこの鐘の音よりも一瞬だけ速い自我から得ることのできるわずかな周辺情報を積み重ね、運転を続けた。彼はイカレているが、イカレているからこそ鐘の音の観測は可能だった。常人では器に留めていられない。認識することもかなわない。ジャンゴロウの精神は己を信じることでのみ炎を絶やさないでいられる直感の源流だった。フロントガラスを抜けた先、全身全霊から啓示される道筋の向こう、ジャンゴロウは目前、失明する光量の爆発を手繰り寄せた。この爆発は本当の、つまり彼だけではなく全人類が共有できるという意味で現実に起きた出来事だった。隣のサチや後ろのタウを見れば分かる。まず助手席にいたサチは前後ろ逆に座っていた背中から焼かれ、反り返るように膨張した体の前面が革張りのシートに押し潰される。爆発の範囲がシートにまで及んだならタウも同じ、見る影もなく光の波に揉み消される。爆発はトンネルの内部に大破した車体だけを残した。
これまでに黄金郷へ辿り着いたのは決して彼らだけではない。黄金郷はそういう類の人間たちが生まれながらに定められた最終到達点だった。黄金郷へ来るにはある種の才能が必要だった。マルロクという名前の男は文字通りの、無学文盲のまま生涯を遂げた。文盲どころか発話すら怪しいほどの知能の持ち主だったが、そんな彼の辿った道筋を追いかけてみれば実に数奇な人生である。まず驚くことに、彼は正式なルートで大学を卒業している。それも彼が暮らしていた国内でも有数の大学の出身であり、学部は情報学部。成績はほぼ毎回トップを維持していた。しかし華やかなキャンパスライフを謳歌した種類の学生とは言えず、かといって鬱屈とした青春を送っていた訳でもない。このマルロクという男にはあらゆるコミュニケーションが通用しないし、反対に内から湧き出てくる感情というものも存在しない。彼は死ぬまで生きたうえで何も学んでこなかったのだ。学ぶことなく生き抜くとは一体どういうことなのか、彼の幸運が頭角を現したのは小学校時代、ある日の三時間目の漢字のテストでのことだった。ストップウォッチを押した先生が「始め!」と令を出すと、周囲の生徒たちが一斉に鉛筆を取り、配られた紙に何かを書き込み始める。マルロクにもそれだけの状況を察する程度の能力は備わっていた。それに加え、とりあえず目に付いた人の真似をしてみるというインコのような性格でもあった。あとは猿がシェイクスピア劇をタイプするという具合に、彼はこれから何度も取ることになる生まれて初めての100点満点を授かった。これは大学を100点満点の首席で卒業後、社会人として仕事に就いてからも変わらなかった。マルロクは大学から紹介を受けた地元の企業にプログラマーとして雇われることになった。当時プログラマーにとって円滑なコミュニケーションなんてものは二の次、まともなコードが書けるならとりあえずやっていけるという世界だった。とてもマルロク向きな仕事だったと言える。彼はコードなんか理解できないが、とにかく書けるのだ。チームの規格に合わないから修正して欲しいと言われても彼は理解できないが、なぜか次に提出される頃にはきっちり直してある。こうして無学文盲が何の問題もなく日々は過ぎて行った。だが彼の幸運はある日何の前触れもなく尽きることとなる。彼をギリギリで社会に繋ぎとめていた砦は崩落してしまった。当然の話だ。彼は自分の仕事内容を何も理解していないのだ。シンタックスエラーが多発するなんてレベルではない。1行目から何の命令を書いているのか、マルロクを含めて職場の誰も検討が付かなかったのだ。『ljkljkljkjlkjsakajdlskjlk』。彼が最後に書いたプログラムコードは1行目から最後までずっとこんな調子だった。最初はこういうネタ言語を作ってきたのかと面白がろうとした人物もいたが、当のマルロクは何も喋ってくれないし、解釈担当である彼のコンピューターもエラーを吐き出すだけだから、その後ややあって会社からサヨナラ。マルロクはそれからしばらく実家で過ごした。両親からの援助を多大に受け、その間に何とか雇ってもらえたバイト先でも彼の幸運はあの頃のようには輝いてくれずたったの数カ月でクビ。クビを言い渡されたその日、彼はもう帰り道につくことすらできなくなっていた。夜遅くになってバイト先の店長から実家に連絡が入った。連絡から急いで駆け付けた両親はさらに五年も経つとご高齢で亡くなり、自分では何もできないマルロクは衰弱して死んだ。かくして彼はこの巨大な黄金郷へと辿り着く。だからといって彼が何か感想を持つことなどあり得なかった。ずっと立っている以上の行動は取れなかったのだ。
黄金郷に足を踏み入れたマルロクの体内に大地から流れ込んだのはかつての記憶、かつてここに辿り着いたバドーという男の記憶だった。バドーは戦争の際、敵国の捕虜として捕まり命を落とした兵士だった。一生の内どの時期に焦点を当てても気の合う仲間に恵まれていた彼は、マルロクとは違って感情が豊か、戦果を称えられた日には愛らしく調子にも乗ってしまうほど愉快な人物だった。とある森の奥地での作戦を遂行する途中、彼の所属していた部隊は敵の張っていた罠にかかり大打撃を受け、バドーを含む生き残りたちは捕虜として敵国の占領地に連行されてしまった。捕虜としての暮らしは酷いものだった。食料や水分が制限されるのは勿論だが、週に二度、自国の兵士向けにとある催事が開かれた。それは四つ這いの姿勢を取らせた捕虜全員を一同に走らせ、たった一皿の食事を賞品として争わせるというものだった。観戦する兵士たちの間では密かに賭博まで取り仕切られていた。初めはまだよかった。喧嘩になってしまわないよう、あらかじめバドーたちの中で誰が優勝するかを決めておいて、美味しい目に遭う役は順番に回していく。こうして一致団結の機会とすることで、むしろこのレースが開かれるたびにバドーたちの絆は部隊として従事していた頃よりもずっと深まったほどだ。だが観戦する敵兵たちは賭けをしていた訳だし、中には熱心にメモを取っている連中までいた。彼らは手製のメモを見返していると、ある法則に気が付いた。書き留めてある全レースを捕虜の総数ずつ区切りを入れたときに、その単位期間中は重複して優勝する捕虜馬が一切おらず、代わりに捕虜馬たちはちょうど一回ずつだけの優勝で綺麗に揃っていたのだ。明らかに人為的な工作が隠れているぞと、バドーたちの思惑は呆気なく白日のもとに暴かれたのだが、単に罰を与えるだけでは済ませないのが奴らの嫌なところ。敵兵たちは今後のレースをさらに盛り上げる要素としてタイムの計測を導入し、さらに捕虜馬の育成という名目で、優勝者のタイムがこれまでの記録を塗り替えるか、全走者の平均タイムが前回までの平均タイムを超えない場合は優勝者も関係なく全員食事抜きという意地の悪いルールを打ち立てた。バドーたちはこの新たなルールにも適応したうえでこれまで通りのルーティンを守ろうとするが、何度か走るうちに優勝者のタイムは横倍、次いで平均タイムの壁にもぶつかる。初めの何度かは許し合えた。だがたった一度でも、誰か一人でも恨み節を効かせたら罵り合いは止まることを知らない。お前がもう少し頑張ってくれれば、俺は前回も食べれてねえんだ、それは俺だって同じだ、情けないこと言うな、うるせえ黙れ……バドーらによる計画競馬は生き死にのレースへと早変わりした。そんな牢内に漂う血なまぐさい臭いを嗅ぎつけた外野の連中は捕虜間のデッドヒートにさらなる追い込みをかけるべく、普段の食事にも手を入れ、わざと量をケチるようになった。するとある日のレース、歓声の渦巻くなか、一匹の馬がゴールに辿り着く前に倒れる事態が起きた。その痛切な姿に捕虜馬たちは一瞬我を取り戻しかけたが、その隙を突いたバドーが一着をモノにし、久々の最高記録を叩きだした。レース終了後、バドーが大事そうに腕に抱きかかえて食事を摂っている間、他の捕虜からの視線は冷たかったがバドーの強かな肌を突き破るほど苛烈なものではなかった。このことを皮切りにバドーの生存本能は捕虜馬たちの群を抜いて開花した。たとえば他の馬たちがいずれ訪れる死という現実から目を背けるべく必死の形相で走るのだとすれば、バトーはその真逆。限られたエネルギーを存分に酷使し、目の前にぶら下がった死を追い回すように突っ走る感覚だ。すると彼はよく知らない内に勝ち、よく知らない内に生き残っていた。数々のレースの記録を塗り替え、塵も積もれば山の如き食料を掻っ攫った。新入りの捕虜馬が補充されたことも数度あったが、結局はバドーの活躍を前に蹴散らされてしまう展開に変わりはなかった。バドーが捕まってから二年経ち、無情にも来たる銃殺刑の日だった。獰猛で知られているバトーは朝の眠っているうちに張り付け台に縛られていた。他の仲間はもう残っていない。空に厳しい日差しが照り付けている。隊列を成した銀色の銃口はキンピカに輝いている。上官の撃ての合図で放たれた銃弾のうち三発が、バドーの肩と腹と心臓に命中した。この程度でバドーの炎が消えるはずがない。身動きのとれないバドーは銃弾で致命傷を負った状態で、まだ目の前にチラついている死の奴と己の意識だけで追跡ごっこを続けていた。意識がフェイドアウトする予感を背中に感じながら、フルスロットルで死を追いかけているとバドーは生きる足を止められなかった。心臓を撃ち抜かれたはずのバドーが未だに元気だと知れ渡ると、刑執行役の兵士も見物人の兵士も誰もがバドーのことを気味悪がった。もっと撃ち込んでしまえとか、叩き殺せとかいう野次も飛び交ったが、一人の上官が、バドーに呪われても構わないという者だけが追撃をしなさいと諭すとみんな怖くて手を出せなくなり、バドーはそのまま放置されることとなった。銃殺刑が執行されたその後、バドーは同じ場所に縛られ血を流したままで七日間は息をしていた。だが七日を過ぎてしまうとついに、尋常な魂の持ち主ではない彼であっても限界の到来、死んで、ここ黄金郷に到達するに至る。黄金郷に着いた彼は五体満足である己の体とこの大地とを確かめるように踏みしめると、見渡す限り生前のあの死がどこにも見つけられず、この状況に安堵していいのか絶望していいのかすっかり困り果てた。困り果てているその隙を見てバドーの体内へ流れ込んできたのが、農協と漁協の二重スパイの罪で死刑判決を受けた少女パウラの記憶……続いて莫大詐欺集団が展開する永遠のたらい回しに遭った挙句、手元にできあがったその圧倒的に不純で前人未踏の利潤をぶん取られて死んだコルコルの記憶……お次はとある小国の王から宇宙帝王に、宇宙帝王から次元覇王になるも次元覇王の座から転落する際に素粒子単位までほどけ死んだホーヴァクラの記憶……そういった骸たちの記憶は、彼らが眠るこの大地の深くから足の裏を伝い全身へと永遠に流れ込んで来るようだった。
トンネルの爆発に飲み込まれたジャンゴロウとタウは結末を定められた黄金郷へと辿り着いた。歴代の記憶たちを浴びせられたばかりで、2人とも柄にもなく落ち着きがない様子だった。
「ナーコは居なくなったのか。」
「うん。」
「そうか。残念だ。」
「うん。」
2人の側にサチの姿はなかった。荒涼とした大地がどこまでも続き、地中深くから染み出した骸たちの魂がアンクル丈の霧を醸し出している。そして研磨された鏡面のように美しい湖を挟んだ向こう側、そびえているのがここ黄金郷の、本殿? 祭殿? 神殿? とにかくそういった名前に似合う立派な建造物だった。熟練の風景画家も遠近感を狂わされる超規模。黄金郷に到達する選ばれし人間に対してすら接近を拒絶する鋭角の絶壁。その奇妙で厳めしい風貌をもってして、退屈な俗人が得意げに振り撒く美術評論も価格査定も先行投資も年代考証も何もかも、全ての技能の刃をへし折ってやってくれ! でもアイツらって却ってそっちの方が喜んだりするんだぜ変態! てかそもそも、なんでこんな場所に建物があるんだ? 誰もいないのに。でも足を運ぶ価値のある素晴らしい建築物には違いなかった。
「うーむ。美しい。来た甲斐があった。」
「うん。」
「見たいものも見れた。帰るか。」
「うん。」
ジャンゴロウは黄金郷の空間に塞がってしまった来た道をその剛腕で無理矢理こじ開けると、わずかに光を漏らした狭い隙間に自分の巨体を滑り込ませた。続いてタウが滑り込む。2人は爆発に巻き込まれたトンネルまで戻って来た。ぐしゃぐしゃになった『ハンマーヘッドシャーク』から上がる炎はもう鎮火されていた。すでに多くの警察と消防隊が駆け付けており、現場は大忙しみたいだった。
「帰りの車が無くなってしまった。」
ジャンゴロウは呟いた。タウの腕を片手で掴んで引き摺り、近くに停まっていた一番デカい消防車の運転席に乗り込んだ。タウのことは助手席に引っ張り上げた。「こういうとき、決まりきったことなのだ。」
ジャンゴロウはサイレンのスイッチを入れた。トンネルの壁に連なるオレンジライトと重なって警察も消防員もみんな目を眩まされた。ジャンゴロウは寸胴な消防車であっても無問題に素早くUターンを決め、砂漠の我が家を目掛け走りだした。トンネルを抜けると静かな夜の海が飛び込んできた。




