第243話:呪いの代償
【夜明けと貴志の代償】
柔らかな光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。
風の都エル=サリエの朝。宿〈白翼亭〉の一室には、
鳥の声と遠くの鐘の音が、どこか現実の輪郭を確かめるように響いていた。
ベッドの上、リオナは静かに瞼を開いた。
頭の奥で残るのは、長い夢の名残のような――あの、青白い光の中の声。
(……貴志さん……?)
夢の中で何度も呼んだその名が、唇から自然とこぼれた。
視界が徐々に焦点を結ぶ。
窓辺の椅子に腰かけている影。
朝日を背に、静かに息をしている男。
「……おはよう、貴志さん」
リオナの声に反応して、彼がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、疲労の色が深く刻まれている。
けれど、その奥に浮かぶのは――限りなく優しい、安堵の光。
「おはよう、リオナ。」
声は少しかすれていたが、穏やかだった。
リオナは反射的に自分の右手を見た。
あの黒ずみは、もう――消えていた。
ただ、代わりにそこには淡い青の痕跡がわずかに残り、
朝日を受けてかすかに光っていた。
「あ……治ってる……? 本当に……」
彼女の声が震える。
まるでそれが幻のようで、触れるのが怖いというように。
貴志は微笑んで、短く頷いた。
「もう、呪いはない。完全に解けたよ。」
リオナの胸が熱くなった。
あの、終わりの見えない苦痛が――もう、ない。
夢のように軽い。
泣き出したいほどの安堵が、波のように押し寄せた。
「……ありがとう、貴志さん。本当に……」
そう言って、リオナはベッドの上で体を起こし、
彼の手をそっと握った。
だが――
その瞬間、彼女の表情がふと変わった。
指先に、妙な違和感が伝わったのだ。
(……この手……)
手のひらは温かい。けれど――以前より、硬い。
そして、指の節が、深く皺を刻んでいた。
「……貴志さん、手……どうしたの?」
小さく問いかける。
貴志はわずかに目を伏せた。
一瞬、答えを探すように沈黙した。
「少し……儀式の副作用があっただけだ。」
静かにそう言ったが、その声の奥に、
どこか決意にも似た硬さがあった。
リオナの胸が、不意にざわめく。
(副作用……? そんな……私の為に)
昨日の夜、彼女は意識を失う直前に、確かに見た。
蒼涙薬が口の中に流れ込むと同時に、自分の身体から白い光放たれ、彼女の肌を包んだ。
蒼涙薬の瓶を持っている貴志も、青い光に身体が包まれ、まるで“何かを削り取られていくように”霞んでいった。
だが、それは夢だったのか、現実だったのか、境界が曖昧だった。
今になって、その断片が、胸の奥で鈍く疼く。
「……ねえ、本当に大丈夫? これ……まるで……」
リオナは彼の手を包み直した。
指先がかすかに震える。
「……まるで、急に歳を重ねた人の手みたい……」
その言葉に、貴志は小さく息を吐いた。
そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺も、少しは年を取ったってことだな。」
軽く笑いながらも、
その手の中にある皺の深さは――たった一晩でできるものではなかった。
リオナの胸の奥で、恐怖が芽生え始めた。
心臓が、早鐘を打つ。
(まさか……そんなはず、ない……)
呪いを解く儀式――あの魔法使いの言葉が、頭をよぎる。
『“寿命を供物にする方法”もある。だが、それは一番安全な方法だ。
対象の魂を完全に守る代わりに、代償は術者の寿命だ。』
リオナは唇を噛んだ。
そして、震える声で問う。
「……貴志さん。もしかして、私のために……寿命を……?」
彼は答えなかった。
ただ、静かに窓の外を見つめた。
朝霧が晴れ、陽光が二人の間に差し込む。
その光の中で、彼の手の甲の皺が、かすかに輝いた。
まるで、何かを肯定するように。
「……リオナ。」
彼は、優しく言った。
「もし、もう一度同じ選択があっても、俺はきっと同じことをする。」
リオナの目から、涙がこぼれ落ちた。
「そんなの……そんなの間違ってるよ……!」
「間違ってなんかいない。」
貴志は彼女の涙を拭い、静かに微笑む。
「リオナ、君が生きてる。それだけで、十分だ。」
その笑顔が、あまりに穏やかで、
それが逆に恐ろしかった。
――彼が、本当に“失ってしまったもの”の大きさを、今になって、リオナは理解し始めていた。
「……私、取り返す方法を探す。絶対に。」
リオナの声が震える。
「あなたが私に命を分けてくれたなら、今度は私が返す番だから。」
リオナの呪いは消えた。
貴志は何かを言いかけたが、
その瞬間――窓の外で風が鳴った。
朝霧の奥、遠くの空で、黒い影が一瞬だけ横切った。
その影はまるで、“闇の様に暗く”何かの形を現しているかのようだった。
貴志の胸が、わずかに疼く。
視界の端で、手の皺が一瞬、蒼白く輝いた。
(……まだ俺の命は終わっていないのだな……?)
貴志の“寿命”は、確実に歳を重ねたが、まだ終わりを告げていなかった。彼の残された命の灯はこれから燃え上がるのであった。
第243話として、リオナの呪いが完全に消えた代わりに、彼女は“貴志の寿命”が供物として捧げられていたことを知ってしまったリオナの、どこか胸を締め付けるような不安な様子を描きました。
次話として、舞台を空母セラフィムに移し、貴志達を探す様子を描きます。
ご期待ください。




