第242話:リオナの呪い
【蒼泪鉱の錬成──貴志の祈り】
夜の風が、都の尖塔群をなでる。
〈風の都エル=サリエ〉の上空では、魔導灯が微かに瞬き、風見鶏の影が月光の中で揺れていた。
街の喧騒はとうに収まり、宿屋〈白翼亭〉の窓からは、わずかな蝋燭の明かりだけが漏れている。
貴志はその光を振り返り、一度、深く息を吸った。
そこには、苦しげに眠るリオナの姿があった。
蒼白い顔、汗ばむ額、そして包帯の下から滲み出す黒。
腕の呪いは肩口まで達しており、魔法薬ももはや痛みを誤魔化す程度にしかならなかった。
――一刻も早く、〈蒼泪鉱〉を精製しなければ。
ギルドの受付嬢が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
「“錬成”を行えるのはただ一人。この街で“蒼泪鉱”を扱い、呪いを解く儀式を行えるのは、魔法師リュークだけです……ただ、彼は気難しく、誰にも会おうとしません。」
だが貴志には、迷っている時間など残されていなかった。
彼は包みを抱え、夜の街へと踏み出す。
月光に照らされた石畳の道を、靴底の音だけが乾いた音を立てて響く。
道行く人影はない。
風が吹くたび、古い看板が軋み、どこからか猫の鳴き声が短くこだました。
不気味なほど静かな夜――まるで街そのものが、何かを息潜めているかのようだった。
魔法師街区は、街の北端にあった。
他の区域よりも建物が密集し、塔や煙突が林立している。
石造りのアーチをくぐると、空気が変わった。
ひやりとした圧が、肌を刺す。魔力の密度が、まるで霧のように漂っている。
その最奥に、それはあった。
黒曜石のような漆黒の塔。窓は閉ざされ、灯火もない。
だが、扉の前に立った瞬間、貴志の背筋を電撃のようなものが走った。
――見られている。
どこからともなく、視線を感じる。
塔の壁面、風に揺れる紋章、あるいは……空そのものから。
まるで意思を持つ塔のように、侵入者を試す眼差しがそこにあった。
「……リューク師。俺は、“助けてくれ”とは言えない。けど、時間がないんだ。――頼む、力を貸してくれ。私の前に出てきて欲しい!」
扉に手をかけた瞬間、周囲の空気が弾けた。
雷鳴のような音。
足元に刻まれた魔法陣が光を放ち、貴志の全身を絡め取る。
「そこの侵入者へ告ぐ。貴様の名を言え。」
頭上から、冷たく鋭い声が落ちてきた。
姿は見えない。だが、声の主の威圧感だけで、空気が震える。
「……私の名は貴志。この星の住民ではなく、外宇宙から迷い込んで来た傭兵だ。俺の仲間が〈グレイル・イーター〉の呪いを受けた。蒼泪鉱を持ってきた。精製を頼みたい」
短い沈黙。
そして、塔の扉がゆっくりと開いた。
【魔法師、リュークの研究室】
内部は薄暗く、壁面一面に瓶と魔導器具が並んでいた。
部屋の中央では、青白い光が脈打つように揺れている。
それは魔法陣の灯。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
長い灰髪、鋭い紫の瞳。
外見はまだ若いが、その瞳の奥には、百年を超える記憶のような冷たさが宿っている。
「……貴様、“この星以外から来た”の人間だな」
「……分かるのか」
「空気が違う。魂の匂いが異なる。――この世界の理に属しておらぬ」
リュークの声は低く、だがどこか退屈そうでもあった。
彼は蒼泪鉱の包みを受け取ると、指先で軽く弾き、光を確かめた。
「……悪くない結晶だ。だが、“錬成”には代償が要る」
「代償?」
「命を削ることになる。貴様の、あるいはその女の」
貴志の拳がわずかに震える。
だが躊躇はなかった。
「構わない。やってくれ」
リュークの唇がわずかに歪んだ。
「……そう言うと思った。だが、これは“術”ではない。“儀式”だ。恐れるなよ、外界の戦士」
【呪いを解く儀式】
錬成は始まった。
塔の中央に描かれた円環が淡く光り、空気が振動する。
リュークが詠唱を始めると同時に、〈蒼泪鉱〉が宙に浮かび上がる。
光が滴る。まるで鉱石が涙を流しているかのようだった。
だがその光が広がるほどに、空間が歪む。
床の魔法陣から伸びる影が、まるで生き物のように蠢く。
天井から垂れる鎖が勝手に揺れ、どこからか呻き声のような音がした。
「……呪いを受けたその者、リオナの体内には“何か”が棲んでいる」
「は……?」
「〈グレイル・イーター〉の呪いは、喰らった者の心と身体を喰う。つまり、貴様らが殺したその怪物の“残滓”が、このリオナと呼ぶ者の奥に眠っているということだ」
その言葉と同時に、光の中から黒い手が伸びた。
それは煙のように形を変えながら、貴志の足を掴む。
氷のように冷たい。心臓が掴まれるような恐怖が一気に押し寄せる。
「う、うわっ――!」
咄嗟に剣を抜こうとするが、身体が動かない。
リュークの声が響く。
「動くな! 抗えば奴の呪いに呑まれるぞ! これは呪いの“記憶”だ!」
――だが、その囁きが聞こえたのは、その直後だった。
《リオナ、を……返せ……》
空気が凍りつく。
貴志の頭の中に、あの怪物の声が直接流れ込んできた。
〈グレイル・イーター〉の、あの眼球だらけの化け物。
その断末魔が、今ここに蘇る。
「やめろ……お前はもう、消えたはずだ!」
叫びと同時に、貴志はその手を掴み返した。
光が弾ける。
黒と青の光がぶつかり、部屋全体が震動する。
リュークが詠唱を変える。
「――“この者「貴志」の命数を対価に、呪いを祓え”!」
雷鳴のような閃光が走り、黒い手が焼けるように溶けていった。
悲鳴。耳を劈くような咆哮。
そして――すべての音が止む。
蒼泪鉱は、ゆっくりとビーカーに落下した。
もはや鉱石ではなかった。
透き通るほど澄んだ青い液体――〈蒼涙薬〉。
リュークがそれを瓶に注ぎ、息をつく。
「……できたぞ。だが、何度も同じことはできん。お前の寿命が数年分“向こう側”に流れた」
貴志は膝をつきながら、汗だくの顔を上げた。
「……構わない。助けられるなら、それでいい」
その瞳には、迷いも恐れもなかった。
ただ一人の仲間を――守るという決意だけが、そこにあった。
【リオナの元へ】
夜明け前、〈白翼亭〉の部屋で。
貴志は瓶を握りしめ、眠るリオナの傍らに膝をついた。
静かな息遣い。
それでも彼女の腕は、まだ黒に侵されている。
震える手で、蒼き薬をその唇に垂らす。
青い光が、彼女の体内に染み渡る。
やがて、黒が薄れていき――代わりに白い光が、彼女の肌を包んだ。
貴志は安堵の息を吐いた。
その瞬間、彼の手の甲に、微かに皺が浮かんでいることに気づいた。
――“寿命の代償”。
貴志は一気に数年分、年齢を重ねてしまったかのようだった。
だが、彼は微笑んだ。
「……これくらい、安いもんだ」
朝日が差し込む。
リオナの瞳が、ゆっくりと開かれた。
そして、微笑んだ。
「……おはよう、貴志さん」
その声に、貴志はただ静かに頷いた。
――蒼涙薬の青い光が、まだ瓶の中で淡く光っていた。
第242話として、リオナの命が一刻を争う状況で、貴志が単身〈蒼泪鉱〉を抱え、未知の“錬成”に挑む姿を描きました。
次話では、呪いが解けたリオナの姿を描きます。
ご期待ください




