第239話:グレイル・イーターの呪い
【呪われし手と黒き鉱石】
グレイル洞窟を出たのは、ほとんど夜明け前だった。
出口に差し込む朝の光が、二人にはまるで別の世界の輝きのように感じられた。
「……ようやく……終わったな」
息を切らしながら、貴志が呟く。
その声は震えていたが、確かな安堵があった。
リオナは小さく頷き、胸の前で手を握る。
「はい……でも、怖かったですね……。あの怪物……眼、いくつあったんでしょう……」
彼女の声はまだ掠れている。戦いの最中、マナと体力を極限まで使い切ったせいだ。
髪には血と泥が絡み、額には小さな傷が走っている。
それでも、その瞳はどこか誇らしげだった。
──今回も生き延びた。
それだけで、奇跡のように思えた。
「光茸は……これで十分だな」
貴志は採取袋の中身を確認する。
青白く光る茸が、まるで呼吸するように淡く脈打っていた。
それは美しくも、不気味な光だった。
「……グレイル・イーターに喰われていなかった分を集めて……これだけあれば、ギルドの依頼は達成できます」
「よし、じゃあ帰ろう。報告して、風呂入って、寝る……それだけでいい」
リオナは微笑んだ。けれどその表情の裏で、彼女は右手を隠すようにしていた。
貴志は気づかなかった──その手の甲が、うっすらと黒ずんでいることに。
【冒険者ギルドへの帰還】
風の都"エル=サリエ"の石畳を踏みしめると、久々に“人の営み”を感じられた。
市場の喧騒。風を運ぶ鐘の音。
魔法都市らしい清らかな風が街を流れている。
ギルドの扉を押し開けると、ざわめきが一瞬止まった。
泥と血にまみれた二人の姿を見て、他の冒険者たちが息を呑む。
「……お、おい……あいつら……グレイル洞窟に行ってたんじゃ……」
「戻ってきた……? まさか……」
受付嬢のリーネが驚きの声を上げた。
「え……! あなたたち……無事に!?」
貴志は苦笑いを浮かべ、袋を差し出す。
「依頼の光茸。規定数はたぶん満たしてる。確認してくれ」
「は、はい……!」
リーネは袋を受け取り、中を覗き込んだ瞬間、目を見張った。
「これ……! こんなに綺麗な形で残ってるなんて……! 本当に、あの洞窟で採取したんですか!?」
「……グレイル・イーターを、倒しました」
静かに答えたのはリオナだった。
その一言で、空気が凍りついた。
「な……なにを……?」
「信じられない……あれを……?」
ざわつく冒険者たちの視線をよそに、リーネの顔から血の気が引いていく。
彼女の目は、リオナの右手に釘付けになった。
「リオナさん……その手、どうされたんですか?」
「え……? あ……これ……?」
リオナはおずおずと手を見せた。
手の甲から指先にかけて、黒い筋のようなものが走っている。
まるで皮膚の下に黒い血が流れているようだった。
「少し痛いんですけど……大丈夫、だと……」
「ダメです!」
リーネが叫ぶように言った。
「それ……グレイル・イーターの呪いです! あの魔物は、触れた者の生命力を喰い取る……! 放っておくと、全身に広がって──」
彼女は震える手で引き出しを開け、小瓶を取り出した。
中には淡い銀色の液体が揺れている。
「これを……すぐに飲んでください。完全な治療ではありませんが……進行を遅らせることはできます」
リオナは頷き、小瓶を受け取って一気に飲み干す。
冷たい液体が喉を通り、苦味が残る。
「……少し、楽になった……」
そう呟いたが、貴志は見逃さなかった。
黒ずみは、わずかに広がっていた。
「……完全に治す方法は?」
貴志の声が低く響く。
リーネは一瞬ためらったが、決意したように口を開いた。
「〈トルヴァ鉱山〉です。そこにしか存在しない〈蒼泪鉱〉という鉱石が必要なんです」
「鉱石……?」
「はい。〈蒼泪鉱〉は“闇を清める鉱石”と呼ばれています。
古代から呪詛や穢れを祓う儀式に使われるもので……でも、あの鉱山は今……」
「今?」
リーネは唇を噛んだ。
「……封鎖されています。数ヶ月前、鉱山に巣くった“人喰いゴブリン”の群れによって、多くの採掘者が……」
静まり返るギルド。
リオナの肩が小さく震える。
「……それでも、行くしかないですね」
彼女の声は震えていたが、瞳には決意が宿っていた。
「このまま放っておくわけにはいかない。……でしょ、貴志さん?」
貴志は彼女の右手を見つめた。
黒い筋が、まるで生き物のように脈動している。
“時間がない”――それを告げているようだった。
「……ああ、行こう。すぐに」
「待ってください!」
リーネが机越しに身を乗り出した。
「トルヴァ鉱山は……夜になると、“マナを奪う霧”が発生し、魔法が使用出来なくなります。
昼間でも、マナが少しでも弱まると、人喰いゴブリンが襲ってくるんです。行くなら──」
「夜明け前に出る」
貴志が言い切った。
「間に合うかどうか分からなくても、やるしかない」
リオナが小さく笑った。
「本当に……あなたって無茶する人ですね」
「いつも言われてるよ。……でも、もう一度、あんな笑顔を見たいからな」
リオナは目を丸くしたあと、頬を赤らめて俯いた。
「……そんなの、ずるいですよ……」
それでも、彼女の瞳には希望の色が戻っていた。
呪いが広がる恐怖に怯えながらも、
彼女は貴志と共に、再び“未知の壁”へと踏み出す覚悟を決めていた。
外では、風の都の鐘が鳴り響く。
その音が、まるで不吉な運命の前奏のように、長く、深く、街の空を震わせていた。
第239話として、怪物〈グレイル・イーター〉との死闘の後、辛くも生還した貴志とリオナが“呪い”の代償に直面する様子を描きました。
次話では、リオナの呪いを解く為、トルヴァ鉱山に向かう様子を描きます。
ご期待ください。




