第214話:出発前夜の貴志とスール
第214話として、整備ドックにおける貴志とスールの2人きりの時間と、それを遠くで見守るアスとフィフの姿を描きました。
【夜のドックにて】
――夜の〈アルカナ・トレードシティ〉修繕ドック。
群青のガラス越しに見えるのは、港区の街灯が無数の光粒となって揺れる人工海。
巨大な修繕ドックの片隅、常夜灯がぼんやりと照らす整備デッキ。そこには、アストラリスの白銀の艦腹がゆるやかに眠るように横たわり、
船体をなぞるように、ひとりの少女が工具を手に動いていた――スール。
「……ふぅ、これで最後のチェック完了、っと」
油の匂いに包まれた空間で、スールは工具を片手に額の汗をぬぐった。
まだ少し煤けた頬。艦腹の補修プレートに映る彼女の姿は、昼間の失敗を挽回しようとする気迫に満ちていた。
貴志はその後ろ姿を、少し離れた手すりの陰から見守っていた。
日勤の整備員達はすでに帰り、今このデッキにいるのは彼とスールの二人だけ。
貴志が着用しているイヤホンの奥からは、アスが送ってくる微弱音声――〈私は船体診断を続けてます。ごゆっくり〉という無言の気遣い。
「――こんな時間まで残ってたのか、スール」
振り返った瞬間、スールの表情がぱっと明るくなる。
「き、貴志さん! あ……はい、最後の確認です! もう、気になって眠れなくて……」
「だろうな。お前、そういう顔してた」
貴志は笑みを浮かべて、ゆっくり彼女の隣に立つ。
目の前のアストラリスは応急的とは言え、小惑星から脱出出来たのは、彼女の手で修繕したからだった。
それがなければ、小惑星で死にかけた船――それが今、再び星の海に戻ろうとしている。
「……きれいになったな」
「えへへ。主任技師さんに怒られたところも、ちゃんと直しました!」
「うん、よく頑張った」
「そ、そうですか……えへへ、ありがとうございます……」
照明の下、スールの髪が淡い琥珀色に光る。
工具ベルトを直しながら、彼女は少し視線を落とした。
昼間、修繕ドックの主任技師に怒鳴られていた光景が、貴志の脳裏に浮かぶ。
「――冷却ポンプの締め付けトルクが甘い! 炉心制御ユニットも逆向きだ! 一からやり直しだ、嬢ちゃん!」
それでも泣かなかった。スールは悔しそうに唇を噛みながら、すぐに作業台に戻っていた。
「……主任技師さん、怖かったな」
「う……やっぱ、見てたんですか……」
スールが俯きながらも、唇を尖らせる。
「でも、あれは私が悪かったんです。急ぎすぎて、冷却管の取り回しを間違えて……。
でもね、今はちゃんと直しました! もう大丈夫です!」
胸を張る仕草が小動物のようで、貴志は思わず微笑んだ。
「そうか。よく頑張ったな」
そう言って貴志が軽く頭を撫でると、スールはびくんと肩を跳ねさせた。
「ま、またですか……! そうやって簡単に撫でられると、なんか……ずるいです」
「ずるい?」
「だって……嬉しくなっちゃうじゃないですか」
その一言に、貴志の心臓が一拍、強く跳ねた。
撫でられた瞬間、スールの耳まで真っ赤に染まった。
その様子に、貴志も思わず目を逸らす。
――この静けさ、艦の鼓動、そして彼女の息づかい。
整備デッキの空気が、微かに甘く熱を帯びる。
少しの沈黙のあと、スールがぽつりと口を開いた。
「ねぇ……あの時のこと、覚えてます?」
「ん? どの時の?」
「ほら、小惑星で……アストラリスを再起動した直前。貴志さん、私の頭、撫でましたよね?」
その言葉に、貴志の心臓が跳ねた。
あの瞬間――
震える彼女の手に、自分は無意識のうちに手を伸ばし、“よくやった”と声をかけた。
柔らかくて、少し油の匂いがして、あの温もりが――まだ指先に残っている気がした。
「……あぁ、覚えてるよ。あれは――感謝のつもりだった」
「そ、そうですか……」
スールは顔を背けたが、頬が明らかに染まっていた。
「てっきり、その……ただの“慰め”かと思ってました。だから……」
「違う。スールがいたから、アストラリスは立ち上がれた。
あの夜、スールの手が、あの艦を生かしたんだ」
言葉が静かに響く。
スールは手に持っていたスパナをぎゅっと握りしめ、
「……そんな風に言われると、泣いちゃいそうですよ」
と、笑った。
その笑顔に、貴志の胸がまたドクンと鳴った。
――どうして、こんなに心が騒ぐのだろう。
艦長として、彼女の上官であるはずなのに。
「スール……ありがとう。お前の手は、もう立派な技術者の手だ」
「そ、そんな……! まだまだですってば!」
そう言いながらも、彼女は嬉しそうに目を細めた。
天井の補助灯が一瞬チラ つき、艦内通信が静かに鳴った。
〈アストラリス 全系統チェック完了。明朝、出港予定通り〉――アスの声だ。
貴志はスールの肩越しに、アストラリスを見上げた。
再び宇宙を駆けるための“艦体”。
そこにあるのは、数えきれない傷跡と、それを支えた小さな手の努力。
「……アストラリスも、お前も、よくここまで来たな」
「ふふっ、貴志さんも、ですよ。
……ねぇ、明日出港したら、ちゃんと見てくださいね。
この艦、私の全力整備ですから!」
「もちろんだ。――一番に、見届ける」
スールは目を細め、照れ隠しのようにヘルメットをかぶった。
「よーし、それじゃ、最終確認、行きましょう!」
【二人きりのドック】
――静かな空気。
艦の金属が冷え、デッキに小さな機械の音が響く。
彼女の瞳が夜灯の光を受けて揺らめくのを、貴志はただ見つめていた。
言葉にすれば、何かが壊れそうで。
でも、何も言わずにいることもまた、胸の奥を熱く締め付けた。
「……ねぇ、貴志さん」
「ん?」
「明日、出港したら、また危ないことに巻き込まれたりしませんか?」
「さぁ……広い宇宙は、何が起きるかわからない。だが――」
貴志は少し間を置いて、スールの方を見た。
「お前たちがいる。アスも、ルナも、フィフも。……だから、俺は負けない」
「……ずるい。そう言われたら、私、安心しちゃう」
スールは少し俯きながら、艦体を撫でた。
その小さな手が、まるでアストラリスの“心”を確かめているようだった。
【アスとフィフ】
そんな二人の様子を、少し離れた艦首観測デッキの影から見つめている二つの姿があった。
アストラリスの艦AI――アス。
そして惑星ガンマ防災センター出身のアンドロイド、フィフ。
アスは腕を組んだまま、微笑を浮かべていた。
「……ふふ、あの二人。やっぱり似てるのよね」
「ええ。どちらも真っすぐで、不器用で。……そして優しい」
フィフの声は、どこか母性のような温かさを帯びていた。
アスはそっとモニター越しに視線を向ける。
貴志の肩越しに笑うスールの姿。
それを見て、アスの瞳に一瞬、柔らかな光が宿った。
「ねぇ、フィフ」
「なあに?」
「今夜だけは……スールに貴志を貸してあげましょうか」
「ふふ……いい考えね。彼女、今回本当に頑張ったもの」
「そうよ。冷却系統も、炉心制御も、あの小さな手でここまで――
……誇らしいわ、うちのクルーは」
アスは軽く髪を揺らし、フィフの方を見た。
「まぁ、貴志があの調子だから、今夜もドキドキしてると思うけど」
「……でも、そんな姿を見るのも、悪くないでしょう?」
「ええ、まったくね」
二人は小さく笑い合った。
フィフの笑みは静かで、アスの笑いはどこか姉のように温かかった。
「明日になれば、また戦場へ向かう日々。
だから、今夜くらいは――人の温もりに包まれても、いいと思うの」
「同感よ。……スールには、貴志の優しさが、いちばんの燃料になるわ」
二人のAIが交わすその言葉は、まるで夜風のように静かで、
どこか人間らしい優しさを滲ませていた。
【明日への準備】
整備デッキ。
貴志はスールの肩に軽く手を置いたまま、静かに言った。
「明日は、俺が司令官として初陣だ。お前の整備を信じて、アストラリスを任せる」
「はいっ! 任せてください、艦長……いえ、“司令官”!」
スールの笑顔が、眩しいほどに輝いた。
遠くで見ていたアスとフィフが、そっと視線を交わす。
「……ね、貸してよかったでしょ?」
「ええ。貴志さん……きっと今、スールに励まされてる」
「じゃあ、もう少しだけ――見守りましょうか」
「うん。あの人たちの話しが尽きるまで」
――整備デッキには、二人の笑い声と、アストラリスの主機関部から響く穏やかな低音だけが、静かに漂っていた。
次話では、貴志は初の司令官として、海賊達との戦いに臨みます。
ご期待ください。




