第163話:惑星ガンマへの帰還
第163話として、キャス編から本編である貴志編に戻り、惑星ガンマへの道中を描きました。
【新たな航路】
貴志は、帝国貴族の令嬢・エレシアを助けた事をきっかけに、男爵位と家名『ブランデンブルク男爵』を授与された。また、エレシアの父である、ヴァルディウス侯、アンドラに気に入られたことや、惑星ガンマの執政官である事が知られ、エレシアを婚約者として迎え入れることになった。
貴志達は希望と葛藤と、やがて咲く未来の種を乗せ、再び惑星ガンマへの針路を取った。
【エレシアの日常】
帝都《セレヴァル=グラン》を出発し、今までの優雅な生活とは正反対の駆逐艦アストラリスの生活、また新たな朝が始まりを告げるメロディーが流れ、エレシアは布団の上からゆっくりと起き上がった。
アストラリスの朝は、微かな反応炉の唸りと、循環空調の風切りが調和した、乾いた音色で始まる。
艦内時間0700。メインデッキの照明が一段階上がり、薄橙色から白色へと色温度が変わると、アストラリスの一日が動き出す合図だ。
エレシアは、まだ新品の匂いが残る簡易ジャンプスーツの袖をぎゅっと捲った。侯爵邸で誂えた礼装は箱に眠らせたまま。代わりに、艦内で支給された船靴、膝までの固定ベルト、腰のツールポーチ。
鏡の前で深呼吸し、胸元の名札――〈艦橋見習い・エレシア〉を指で軽く叩く。
「……今日も、小さな事から一つ一つ丁寧にやること」と、自分に言い聞かせるように呟いた。
扉がスライドし、艦内通路へ。重力は地表よりやや軽い。最初の頃は足取りが浮いて不格好だったが、三日も経てば、踵からではなく足裏全体で沈ませるコツが掴めた。メイドが半歩後ろを歩む。
「お嬢様、本日の予定を確認させてくださいませ」
「お願い、メイラ」
「0700、艦内清掃当番セクションEの補助。0800、ブリーフィング参加。0900、艦橋観閲席でのログ記帳訓練。1100、食堂にて簡易配膳補助。1300、ルナ様によるセンサー・タグ付け演習。1600、アス様の規程講義『艦内礼式と指揮系統の基礎』。以上でございます」
「……盛りだくさんね」
「体調管理を最優先に。無理をなさらぬよう」
メイラは、侯爵家の冠を護ってきた老舗メイド家系の出で、艦という環境にはまだぎこちない。だが、主の決めた道を止めない程度の心配に留める節度も、彼女の高潔な務めだった。
【清掃当番】
艦内清掃は、エレシアにとって最も貴重な「学び」になった。
デッキのパネルは磁気固定で、艦の微細な振動を吸収する。隙間に溜まる微塵は、やがてセンサー誤差や冷却効率の低下に繋がる――アスはそう教えた。
「つまり、見えない汚れは、いずれ見える損耗になる、ということです」
艦内放送向かい側のテーブルの向こうで、アスの声が静かに微笑む。
「侯爵邸の窓やテーブル、そして床も、綺麗に見える裏には、何人もの手がある。艦も同じ。ここでは、誰もがその“裏方”です」
エレシアは膝をつき、指先でダクトの薄い埃を掬い、吸引ノズルへ導く。侯爵邸の磨き上げられた大理石とは違う、機能美だけの金属に触れながら、彼女の胸中には、段々と奇妙な充足感が溜まっていく。
(私は、ここに添乗している訳ではなく、与えられた役割を完了させていくのね)
【艦内の1日のスタート】
0800、ブリーフィング。
艦橋のドアが開くと、視界が宇宙の青黒で満たされる。巨大スクリーンに走るコースライン、観測データの薄いグラフ。
中央――艦長席。貴志が背もたれに身体を預け、短く頷いた。
「おはよう。今日の予定、昨日と同じペースでいく。前方の未確認波形は依然として不規則、接近の兆候なし。……エレシア、ログの試験記帳、やってみるか?」
「はい。よろしくお願いします」
「補助は俺がやる。アス、記入フォーマットの投影を」
「了解しました、艦長」
艦長席の斜め後ろ――アスが新たに設置した〈添乗者席〉は、静かにエレシアを待っていた。
だが、エレシアはまた一瞬だけ迷い、ふと艦長席へ視線をやる。
貴志の席が、そこにある。
胸が、柔らかく痛む。
(……いけない。あれは、彼の居場所であって、私の“居場所”じゃない)
エレシアが添乗者席に腰を落とそうとした、その刹那。
「……艦長」
ルナが無音で近づき、耳許で囁く。
「例の“座り込み事件”の再発は困りますよ。艦内の監視カメラの視覚ログが叩かれたら、面倒です」
「わかってる。……俺も、言わないとな」
貴志は振り返り、エレシアと目が合った。
やわらかく笑いかけ――それから、真っ直ぐな声音に変える。
「エレシア。勤務中は、ここは俺の席だ。君は添乗者席に座ってくれ。……“婚約者”であることと、“添乗者”であることは、艦内の規律の面からも、しっかりと線を引かないといけない」
空気が、透明に凍りついた。
エレシアは姿勢を正し、ゆっくりと頷く。
「……承知しました。貴志さま。私は、添乗者として、ここにいます」
その返答に、ルナの肩の力が僅かに抜ける。アスは無言で添乗者席のハーネス固定を強め、座面の傾斜を微調整した。
「添乗者席の角度を3%、視認性を最適化。艦長席との視線交差率を低下させます。……業務上、集中を保つために」
「ありがとう、アス」
貴志が小さく礼を言うと、アスは短く「どういたしまして、艦長」とだけ返し、パネルに視線を落とす。
その横顔は、妻としての嫉妬を隠しきれてはいなかったが、艦を預かる者としての理性が、確かにそれを制していた。
【慣れない業務】
午前中のログ記帳訓練は、思いのほか骨が折れた。
エレシアは司令の指示、センサー値の変動、航路偏差の微修正を、規定の書式で淡々と記す。
数字は嘘をつかない――だが、数字は文脈がなければ意味を持たない。
「ここ、ただの小数点の列じゃない。何が“異常”で、何が“許容差”なのか、理解して書くことが大事」
貴志が横から低く助言する。
「航海日誌は、後で読む誰かの“命綱”になる。君の文は、見えない未来の誰かに届くんだ」
その言葉に、エレシアの指が一瞬止まり、また動き出す。
(私が書く言葉が、誰かの命に繋がる――重い。でも、いい……その重さが欲しい)
【昼食の準備】
1100、食堂。
メイラが用意した昼食は、船務の都合で簡素だが、温かい。磁性の底を持つマグとトレー。
エレシアは配膳の手伝いを申し出、手袋をつけて動き回る。
「お嬢様、こちらは私が」
「いいの、メイラ。あなたは火傷に気をつけて。私は取っ手を」
侯爵家の食卓ではあり得ない光景にも、彼女は少しずつ笑うことを覚え始めていた。
やがて貴志が現れて、受け取り口で立ち止まる。
「ん、ありがとな」
「こちらこそ。艦長、こぼさないでくださいね」
「子ども扱いするなよ」
「……では、お行儀よく」
二人のやり取りに、カウンターの奥でルナがむすっと目を細める。
小型ドローンが天井際に浮かび、レンズに「勤務中恋愛行為禁止」のホログラムポップを映し、すっと消えた。
貴志は咳払いでごまかし、エレシアは肩を竦める。
その微妙な牽制の気配を、メイラは鋭く受け取っていたが、表情には出さず、茶葉の抽出時間を正確に計っていた。
【午後の任務】
1300、ルナのセンサー・タグ付け演習。
表示画面に散らばった光点を、意味で束ねる作業である。
「似ているけど違うものを、違うけど似ているものを――切り分けるのが私の仕事。今日は君に、その入口だけ見せる」
「はい、お願いします」
ルナは端末に、タグ辞書を呼び出す。
《低出力・冷却循環由来》《宇宙塵の帯電性微反射》《遠距離質量跳躍の残滓》《生体起因ノイズ(大型)》……
エレシアは、おそるおそるタグを選び、点へ付す。
「これは……《推進器過渡》?」
「却下。《冷却流束の喘ぎ》が正。数十秒単位の間欠性が見えるでしょ? 推進器なら、もっと鋸歯状に乱れる」
「っ……すみません」
「謝るのは一度でいい。次、修正に生かして」
厳しい。だが、理不尽ではない。
(この人は嫌っているから厳しいんじゃない。生かすために厳しいんだ)
三十分後、ルナはようやく口元を緩めた。
「――合格点には遠い。でも、最初の“癖”が良い。君は“形”でなく“流れ”で見る。航法補助に向く資質」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで。褒めたのは今の一点だけ。他は全部、訓練次第」
「……はい」
ルナは踵を返し、廊下でふと足を止める。
肩越しに、少しだけ本心を落とした。
「――私たちは、貴志を守る。職務として、家族として。君が“婚約者”であることは、私には脅威であり、同時に責任でもある。……だから、まだ信じない。けれど、学ぶ君を、否定はしない」
それは、彼女なりの“猶予”だった。
エレシアは、深く一礼した。
【艦内での教育】
1600、アスの規程講義『艦内礼式と指揮系統の基礎』。
多目的室の壁面に、条文が浮かぶ。
《第1条:指揮系統は単一である》《第5条:艦長席は職務の象徴である》
《第9条:艦長への私的接触は勤務中禁止》《第12条:添乗席の目的》……
「第5条と第9条は、君のために改めて強調します」
アスの声は穏やかだが、透徹していた。
「“艦長席”は、単に場所ではなく、権力の姿です。そこに“私的感情”が混ざると、艦は鈍る」
エレシアは背筋を伸ばし、正面から受け止める。
「……承知しました。アスさん」
「艦長の妻として言えば、私の心は不安定です。けれど、艦のAIとして言えば、規程が私のすべてです。
あなたが守るなら、私はあなたを守る理屈を無限に用意できます。……守れないなら、その逆も」
「――守ります」
アスは、ほんの僅かに目を細めた。
「では、もうひとつ。君が“婚約者”であることは、艦にとっても政治的リスクです。ゆえに――役割を持ちなさい。何者でもない者ほど、狙われやすいから」
「役割……」
「観測ログの一次整形、航法補助、医療ポッドのプリチェック、食堂の補助。どれでもいい。毎日“この艦で君にしか出来ないこと”を一つずつ増やせば、君は“誰か”になる」
エレシアは、ゆっくりと頷いた。
(私は、“令嬢”ではなく、“誰か”になる)
【1日を終えて】
夜。艦橋。
艦長席の周りは、昼間よりも暗く、星々の粒子が近く見える。
観閲席に座るエレシアの横顔を、貴志は斜めに眺める。
「――頑張ってるな」
「見てくれていたのてすか?」
「ずっと、な」
「ふふ。……なら、もう一つ頑張ります!」
エレシアはハーネスを少し緩め、そっと立ち上がった。
艦長席に歩み寄り――そして、膝の前で立ち止まる。
手を伸ばし、彼の肩に触れる。
「勤務外の許可、申請します。30秒だけ」
「30秒?」
「はい。30秒だけ――触れさせてください!」
貴志は苦笑し、肩に置かれた小さな手を包んだ。
「許可する。30秒」
「――一、二、三。……ありがとう、艦長」
彼女が観閲席に戻ると、上方のスピーカーが小さな溜息を落とす。
「規程と心の両立、合格。……ただし減点対象:甘さ」
アスの採点に、二人は同時に吹き出した。
ルナはといえば、いつの間にか後方の操作台に座り、ドローンに〈危険度レベル:2.7→2.3〉と表示させていた。
「下がったの?」
「“努力点”を加味。けど、油断したらすぐ戻す」
「了解です、主任」
【エレシア付きのメイド】
メイラが二人分の夜用ブランケットを抱えて艦橋に現れると、アスが気遣う声をかけた。
「メイラ。あなたも慣れてきましたね」
「恐れ入ります。……ただ、艦は邸とは違いすぎますので」
「違うものを“同じにしよう”とすると、壊れます。違うものを“違うまま整える”のが、ここでの礼式です」
「……胸に刻みます」
メイラは主の肩にブランケットを掛けようとするのをやめ、添乗者席の背へ丁寧に畳んで置いた。
「勤務中ですので」
「ありがとう、メイラ」
【更けていく航路】
静かな表示板に、遠い波形が薄く揺れた。未確認のエネルギー反応は、まだ遠い。
だが、艦内の五人は、少しずつ「艦のひとつの形」になりつつある。
――その中心にいる男は、彼女の努力が可愛くて仕方がない顔を、必死に艦長の面構えで包み隠していた。
アスはその甘さを見抜きつつ、規程で縛り、理性で守る。
ルナは猜疑と責任の天秤を、毎時刻ごとに振り子のように測り続ける。
エレシアは“侯爵の娘”と“艦の一員”の間に一本のパイプを渡し、そのパイプを太くしていく。
メイラは主の背に一歩の距離を置くことで、主を守る術を覚え始めていた。
「航路、安定。次の確認は二十分後」
アスの報告に、貴志が短く返す。
「了解。……続行」
宇宙は冷たくも、艦内は暖かい。
その暖かいの中で磨かれる礼儀と距離感は、やがて来ると思われる“外敵”に対する、もっとも強い心の装甲になる――そんな予感が、誰の胸にも芽生え始めていた。
次の話として、惑星ガンマに到着し、フィフやティノと合流していきます。
ご期待ください。




