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命の旅路  作者: シルエット
独立第三章「天狗様のかがり火」
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独立第三章・天狗様のかがり火(愛されたあの子)

独立章なので、これより前の話との繋がりはありません。

ここから読んでいただいて大丈夫です。

時代設定などうまくできていませんが、よろしくお願いします。

今から数百年も昔、霧雨が降る曇りの日のことだった。

畑仕事をしていた村の老人の手に、ポツッと雨粒が落ちた。


顔を上げると、遥か遠くに霞む山体が見える。

深い森に覆われた山頂に雲が怪しく棚引き、何か得体の知れないものが隠れ潜んでいるような、そんな気持ちになった。


「あの霧の向こう、天狗様でもいらっしゃるんじゃろうか。」


その呟きは偶然にも、隣で鍬を振るっていた子供の耳に入った。


「お爺ちゃん、てんぐさまって誰?」


「天狗様というのはな、山の上に住んどる神様のことだよ。」


「山の上に住んでるんだ…。ねえ、神様ってどんな人?」


老人はこの問いの答えに困ってしまった。

というのも彼自身、実際に天狗を見たことなどなかったからだ。

若い頃、偶然村を訪れた山伏から何か聞いた気がするが、てんで思い出せない。


しかし子供相手に知らないと言ってしまうのも気が引ける。

微かな記憶を手繰り寄せながら、なんとかそれらしいものを作ろうと躍起になった。


「天狗様はなあ…燃えるような赤い髪で、高い歯の下駄を履いて、枯れ葉の蓑を着とる。

村のはずれに神社があるだろ。

夕方には山から風が降りてくる。それに乗って村中駆け回っては、ほれ、お前みたいな小さな子供が日暮まで遊んでたらな。山に連れ帰って食べてしまうんだ。」


「食べられちゃうの?神様なのにひどいことするんだね。」


「神様は、無礼を働かんかったら豊作をもたらしてくださるが、怒らせたら怖い。

だからもう帰りぃ!天狗様に攫われちまうぞ!」


「はぁーい。」


子供は不貞腐れた返事で家の方へ走って行った。

老人は少しホッとして、また自分の作業に戻った。


老人の意地が生んだ、よくある作り話。

ただそれだけのはずだった。


しかし、物語はそこで終わらない。



数日後、子供たちが集まって遊んでいたときのことだ。

「ねえ、てんぐさまって知ってる?

あっちの山に住んでるって、お爺ちゃんが言ってた!」


「知らなーい。何それ?」


「えっとね…」


彼女はなんとか思い出そうとしたが、小さい子供が大人の話をこと細かに覚えているはずもなかった。


「なんか、あっちの山の上に住んでる、赤い髪をした神様なんだって。

夕方に遅くまで遊んでたら、神社の方から風に乗ってやってきて、子供を食べちゃうって言ってた。」


「怖い神様だね…じゃあきっと、こんな顔だ!」

そう言って彼は両手で目を吊り上げて、歯を剥き出して見せた。


「ガー!食べてやるぞ〜!」


「にげろー!」


"てんぐさま"の真似をした1人が鬼で、他の子を追いかける追いかけっこが始まる。

山に住む不思議な神様の存在は、好奇心の強い子供の心を掴んで離さなかった。


こうして老人の言葉は、知らず知らずのうちに子供を攫う山の神"てんぐさま"として、子供達の間に広まって行った。


***


村はずれの神社には広い境内と大きなイチョウの木があり、彼らのいい遊び場となっていた。

午前中のまだ涼しい内は石垣を登ったり、砂をいじったりして遊んだ。

秋には大粒の銀杏が転がり、大人も子供も数を競うように一生懸命に拾った。


昼頃、境内での遊びに飽きてくると、誰かの「別の場所行こー。」の一言で、全員が立ち上がる。


行き先は村の東側を流れる小川だ。

森と集落の境目を流れ、水面には木漏れ日が揺れている。

水は足首くらい、深くても膝上までしかないが、彼らが遊ぶにはかえって都合が良かった。溺れる心配もないので、大人たちが見張っておく必要もない。


最後に鳥居を潜った1人は、精一杯怖い顔をしながら「食べてやるぞー!」と叫びんで追いかける。

川に着くまでに捕まったら、次の日はその子が鬼をやらされる。そんなだから、大抵足が遅い子の間で当番が回ってしまう。

いつの間にか"てんぐ"という名前には「のろま」というイメージがついた。


「逃げろ〜!"てんぐさま"に捕まったら、あいつみたいに足が遅くなるぞ!」


追われる子供たちは、鬼役の子供に「やーい、のろまのてんぐ!ここまでおいで!」と囃し立てた。


どんな大仰な伝承も、その始まりは些細なことに過ぎない。

「天狗様」は世代を越え、意味を広げながら生き残り続ける。

更に数年が経ち、彼らが大人になる頃には、"てんぐさま"の追いかけっこは、村の子供達の定番の遊びとなっていた。


内容も少し変わって、鬼になった子供は赤い頭巾を被って"てんぐさま"に扮するようになった。また、鬼は必ず頭の上に、前屈みで手を構えて走るようになった。手が振れないので、鬼は多少走りづらい。

足が遅い者の間でばかりが鬼をすることのないよう、親たちが考えたせめてものルールであった。


「悪いことをすると、天狗様がペロリと食べてしまうからね。」


村の大人たちも、その"てんぐさま"を誰が言い出したのかも忘れて、さも昔からあったかのように受け入れていた。

しかしそれは、遅くまで帰ってこない子供をいましめる作り話くらいの認識で、決して信仰などとは呼べない浅いものに過ぎなかった。


***


そんなある日、事件は起こる。

村人の中に、"てんぐさま"に遭ったという者が現れたのだ。


名を佐吉といい、その日は隣の村まで山菜を売りに出かけていた。

村を囲む山は高くはないが尾根が幾つも走っており、そこに食い込むように村が散在している。

この集落もその一つであった。

村同士でも多少の交流があり、外貨を求めて、佐吉のように尾根を越えて物品の売買に行く者もいた。


昼頃に荷物を纏め、ブナの森を抜けて隣の村へ向かった。馴染みの家に声をかけて周り、肩が軽くなった頃には日がだいぶ傾いていた。

歩き慣れた道とはいえ、獣道と言っても差し支えがないほど細い道だ。

木の根に足を引っ掛けながら、よいさよいさと下っていくが中々麓につかない。

しかしそんなことは日常茶飯事で、彼はさほど気にしていなかった。


異変が現れたのは、峠を越えて少し経った頃であった。

突然妙な体のだるさを覚えて、彼はその場に座り込んだ。足が重い。

地面についた手のひらに小枝が食い込む。


必死に体を動かそうとするが、まるで肌の下を鉛が流れているかのように動かなかった。

顔から冷や汗が吹き出す。


生まれつき体は丈夫な方で、大きな病気をしたこともない。もちろんこんなことは初めてだった。


何かに取り憑かれたか。


そんな考えが頭をよぎった。

体が重い。足が思うように動かない。


その時、ハッと、脳裏に子供の頃、無邪気に遊んでいた時の記憶が蘇った。

足が遅い佐吉はいつも揶揄われていた。

「やーいやーい、のろまのてんぐ!ここまでおいで!」


「逃げろ〜!"てんぐさま"に捕まったら、あいつみたいにのろまになるぞ!」


鼓動が速くなる。

気のせいか手が震えて力が入らない。

逃げなければ、今すぐに!

早く!早く!早く!


「グッ、くそっ!」


そううめいた途端、バサバサバサッ!

大きな羽音と共に、横の笹藪から何か大きなものが飛び出した。

舞い散る落ち葉、そしてその向こうに揺れる、燃えるように真っ赤な髪。


「うああああああああっ!」

薄れていく意識の中、頭上を飛び去る黒い影が見えた。

佐吉はそのまま気を失ってしまった。


***


帰ってこない彼を心配した村の人々のもとに、佐吉が戻ってきたという知らせが届いたのは、翌日の朝のことであった。

酷く怯えた様子で、身につけていたはずの商売道具もほとんど残っていなかった。


何があったと尋ねる村人に、佐吉はしきりに「"てんぐさま"に襲われた」と言い張った。


山に棲まう悪神。

それは子供の頃によく聞いた御伽噺だ。


疑う者も多かったが、日頃の佐吉を知っている者は、彼が嘘をついているとは思えなかった。



真実はどうか。

超常の力などあるはずも無く、それは昼食もそこそこに長く歩き続けたことによる低血糖症である。


体のだるさも、手足の震えや冷や汗も、それに付随する症状であった。

藪から飛び出した怪物とは、無論天狗などでは無い。

藪を棲家としていたキジが、佐吉の声に驚いて飛び出したのだ。


低血糖症による視界の歪みと恐怖が、ただの鳥を"てんぐさま"に仕立て上げた。

しかし佐吉がそんなことを知る由もない。



聞いたか?佐吉が"てんぐさま"に襲われたそうだ。

急に体がだるくなったと思ったら、横の藪から飛び出してきたんだと。

鬼のような恐ろしい顔で、口には牙が生えていたらしい。


多くの怪談がそうであるように、噂は馬の足よりも速く村中に広がった。

人の口から口に伝わるうちに尾鰭がつき、本来の天狗とは似ても似つかない、恐ろしい化け物の話に変わって行った。


それに乗っかるように、"てんぐさま"に遭ったという者が何人も現れた。

ある者は夜道を歩いていると急に体が重くなり、頭上の木から鬼火がスルスルと落ちてきたと語った。


またある者は、夕方近くに神社の掃き掃除をしていると、急に生暖かい風が降りてきて木の葉を巻き込んで飛び去って行ったと語った。


何人もの大人が、立て続けにそんなことを言うのだから皆気味が悪くなって、夕方の神社には近づかなくなった。

心の底から信じている訳ではないが、余計な問題には巻き込まれたくないという心理が働いた。


しかし大人がいくら叱っても、子供たちの無邪気な遊び心を抑えられるはずもなく、その後も"てんぐさま"の追いかけっこは続いていく。


***


そして更に数年が経過した。


人々の興味が離れれば、どんなに強固な信仰も、やがて廃れ行くものである。

佐吉の話も下火になり、この頃には天狗に遭ったという話はまるで聞かれなくなっていた。

相変わらず神社には近づくものはいなかったが、そんな空気も、あとどれほど続くかというところであった。



その日、子供たちはいつものように神社へと遊びに行った。丁度ドングリの季節だったので、投げたり、皮を剥いてみたり、おままごとに使ったりと、思い思いのやり方で秋を楽しんでいた。


全員がそれに夢中になって、気づくと夕方近くになっていた。

山の端が太陽を飲み込もうとする中、神社から家が近い数人はそのまま帰宅し、川の方に家がある残りはそちらへ向かった。


恒例の追いかけっこだ。

今回は村で1番足の遅い平助へいすけという子が鬼の役だった。

足が遅いだけではなく何をするにも鈍臭い、冴えない子供だった。

使い古されて多少色が抜けた頭巾を絞めると、他の子供たちは弾かれたように駆け出す。


「逃げろ逃げろ〜!」


ワイワイと騒ぎながら石段を飛び降り、あっという間にいなくなる。

平助も後を追ったが、やはり足の遅さでは誰にも負けない彼のことであるから、すぐに置いてきぼりを食らった。


秋のはじめは残暑も厳しく、昼の強光で熱せられた空気が肌を焼く。額から汗が吹き出す。


「ちょっと…待って…!」


ハア、ハアと必死で息をするが、肺に吸い込む空気すら熱い。


これは明日も鬼をやらされる。

きっとその次の日も…


そんな風に考えた時だった。

急に神社の方から一陣の風が、びゅうっと吹き出した。その風は平助の背中を舐め、彼の頭を撫でて通り過ぎて行った。


汗で濡れた背中がひやっと冷たくなる。


振り返ると、鳥居の向こうに暗い森が、誘うようにぽっかりと口を開けていた。


薄気味悪くなって、早くみんなに追いつこうとしたところで、頭が妙に冷えることに気づいた。



…頭巾がない!



頭に手を遣るも、そこにあったはずの布の感触は感じられない。

走ってくる途中に落としてしまったのか、きっちりと締めていたはずなのに。


どうしよう。あれは村の子供全員の共用だ。

無くしてしまったら、もう仲間に入れてもらえないかもしれない。


しかし探すためには、あの神社まで戻らないといけない。臆病な平助に、そんなことをする勇気はなかった。

みんなも川で待っている。明日改めて探しに来ればいいだけのことだ。


そう自分を納得させて、平助はまた走り出した。



黄金色の稲穂の道を走り抜け、トンボの群れを潜って、やっと川に着いた頃にはほとんど日が沈んでいた。

フキが群生する斜面を横切って川辺に降りるが、他の子供の姿はない。

「おーい!半平〜、又七〜! みんなどこ…?」


名前を呼んだが、返事はなかった。

自分の声だけが微かにこだまして、それもすぐに水音に飲み込まれてしまう。


やっぱり怖い。

でもここで帰ってしまったら、後でなんて言われるか…

そんな心配が彼の家への道を阻んだ。


暗い川面に月の光がちらつく。

去年の夏、仲のいい友達数人と、この川に蛍を見にきたことがあった。

夜の川の水は墨汁のように真っ黒で、手で掬えば紙に黒く残りそうな、どろどろとした流れであった。


何か違う世界に迷い込んでしまったかのように、彼らは幻想的な雰囲気に囚われた。


蛍は沢山湧いていた。

例年の倍はいるかという数の蛍が、光の柱を作って飛び回る姿に、子供たちは目を輝かせていた。


しかし、当の平助はそれどころではなかった。

足元を流れる、底なしの暗闇から目が離せなかった。

今にも橋が落ちて、どす黒い水の底にに沈んでしまうんじゃないか…

そんな不安で頭がいっぱいになる。


「平ちゃんも来なよ!蛍捕まえて持って帰ろう!」


光の尾を追いかけながら、ずんずんと進んでいく他の子供に対し、平助はといえば、母の腰にしがみつくので精一杯だった。


「ほら、平助。蛍さんだよ。」


泣きながらぐすぐす言っている彼の目の前に、母の手のひらがすっと伸びてきた。

その指の隙間がポウッと光ったかと思うと、1匹の蛍がお尻に火を灯して這い出てきた。


「きれい…」


それを聞いて、母は嬉しそうに笑った。


「うん、きれいだね。

あっちの方にはもっと沢山飛んでるから、もうちょっと頑張れる?」


平助は泣きながらぶんぶんと首を横に振った。

そんな彼の頭を優しく撫でながら、母は少し困った顔でため息をついた。


「もう…本当に甘えん坊さんなんだから。こんなんで大きくなって、うまくやっていけるのかしら?」




幼い日の記憶は、平助の心に小さな勇気の火を灯した。


自分が意気地なしで、情け無い子供だってことは、僕にも分かってるよ。

いつまでもお母さんとお父さん二人に、迷惑をかけてちゃいけないってことも。


大丈夫、いつもの川だ。

ただ暗いだけ。勇気を出さないと。


もしかしたら、みんな下流の滝の方に涼みに行ったのかもしれない。この時期にはよくあることだ。

きっとそうに違いない。



薄暗い河原に、砂を踏むジャリッ、ジャリッという音がやけに大きく聞こえる。

晴れた日は輝く水面も、紫色の夕焼けの下でおどろおどろしい色に染まって見える。

身を縮めておっかなびっくり歩く姿は、誰かが見ればたいそう滑稽だったことだろう。

押し潰されるような不安の中で、それでも彼は勇気を振り絞って進んだ。



転がる丸い石を飛び越え、小屋ほどもある大岩を登る。

進むごとに、ザアアア…という水音が段々大きくなってきた。ひんやりとした空気が頬を掠める。

気がつくと、滝はもう目の前だった。


「おーい!誰かー!」


呼びかけへの返事はない。

滝壺から、水流が砕けるドドドド…という唸り声が響いてくるのみである。


…もう十分頑張って探したんだ。帰っても怒られないよね?


ここまで我慢していた恐怖が、誰もいないと分かった途端一気に吹き出してきて、これ以上は耐えられそうになかった。


ここから家まではそんなに遠くない。

早くお母さんたちに会いたい!

怖いのによく頑張ったねって、褒めてもらうんだ。



焦る気持ちを抑えて、苔むした大岩の端に手をかけたときだった。



_また、あの風が吹いた。


谷の向こうから、大きな空気の塊が迫ってくる感覚。腐った木の皮のような、すえた臭いが鼻をついた。

生暖かい息が木の葉を揺らし、平助の足を這い上がる。


ぞわぞわとした感触と共に腹を潜り、首筋を撫でて…

ついに耳元をすり抜けて行こうとしたその時、彼は確かに聞いた。


何人もの子供が同時に口を開いたような、木の葉の擦れるような声で。




「「食ってやる」」




心臓が跳ねる。

恐怖に体が固まった瞬間、全身を浮遊感が襲った。


手が滑った、それに気づいた時にはもう手遅れだった。

勢いで血が吸い上げられ、視界が赤く染まる。



ドムッ



静かな川底に、肉を打つ湿った音が響いた。

叫び声を上げる間もなく、彼の体は硬い石の上に叩きつけられた。


***


「あの子、帰ってこないわねぇ…」


平助の家では、彼の両親が囲炉裏を囲んで、一人息子の帰りを待っていた。

いつもならとっくに帰り着いて、夕飯の準備を手伝っている時間だ。


あの子に限って、家出ということもないだろう。

いつもおどおどして自信なさげだが、自分の我儘で約束を破ったことはついぞ無かった。

いつものように友達に連れまわされているのか。


黙りこくっていた父・弥平やへいも、耐えかねたように腰を上げた。


「おれ、ちょっと近所を見て回ってくるわ。」


そう言って扉に立てかけてあった棒切れを手に取り、家を出た。

それを聞いて母・きよも居ても立っても居られなくなって、


「わたしも行きます!」


と叫んで、夫の後を追った。



両親は、平助がよく一緒に遊んでいる他の子たちの家を訪ねて周った。

しかしどの家の子供も、神社で別れて以降見ていないという。


その内の一人が、鬼の役を任されたはずの平助が、みんな川に着いてからいつまで待っても来ないので、先に解散してしまったと、泣きべそをかきながら話した。



それを聞いて、村の若い男たちが松明を片手に、神社から川への畦道を探しに行った。


「おーい!平ちゃん! おったら返事しろー!」


しかし手がかり一つ見つからない。

神社から田んぼにかけての道をくまなく探しても、平助の姿はない。


田んぼに落ちて動けなくなったのか。

森の中で迷子になったのか。


しかし、いつもお母ちゃん、お母ちゃんとくっついて周る臆病な平助が、そう離れたところへ行くとは思えなかった。


いつもたむろしている川辺にも姿はない。

まるで忽然と消えてしまったように。



普段なら川に流されたか、崖から落ちたかと疑うべき状況で、昔を知る村人の間には、佐吉の一件が思い出されていた。


「天狗様に攫われたんじゃあ…」


誰も大きく口には出さないが、そんな囁きが飛び交った。


不穏な空気が漂う中、追い討ちをかけるように月に雲がかかり出した。

灯りと言っても松明に頼らなければならなかった当時、完全な暗闇の中での捜索は困難を極める。

藁を燃やした黄色い光は、土の色と同化して、ものの輪郭をぼやけさせてしまうのだ。


神社付近の森を探していた若者が、転んで足の骨を折ったのをきっかけに、村の長が捜索を打ち切る決断を下した。


打ちひしがれた様子で帰ってきた夫を見て、母もことの次第を察した。

長の決断にそれでもなお食い下がった彼であったが、長が首を縦に振ることは無かった。


「平助んところの二人にはすまんと思っとる。

だがこれ以上は危険だ。

明日、夜が明ければすぐにでも人を動かすと約束する。だから…ここはどうか、我慢してくれ。」


長の言うことはもっともである。

ここまで探しても見つからないのであれば、人目につきづらい奥まったところへ迷い込んでしまったか、穴か何かに落ちてしまったとしか考えられない。

この時間から捜索したところで望みは薄い。


怪我をした若者というのもまたこの村の人間で、弥平自身、その若者のことを家族同然に思っていた。

それを踏まえた上で、まだうちの子を探してくれと主張することは、責任感の強い彼にはできなかった。


夫婦は無力感と絶望の中、眠れない夜を過ごした。


***


その頃、微かに血の匂いが漂う川底に、血を流した死体が無惨に横たわっていた。

冷たい沢の流れが、その体に残る熱の最後のひとしずくを平らげ、下流へと降っていく。

物言わぬ肉の塊に成り果てた平助の身体に、しかし、何故か誰も近づこうとしなかった。


辺りの山中に巣喰う野犬の群れが、その様子を遠巻きに伺っていた。

平助の、恐怖で引き攣ったまま固まった顔。

その眼球は星空の一点を見つめている。


その時、奇妙なことが起こった。

沢の水と一緒になって流れていくはずの空気が平助の頭上で澱み、死体に群がった蝿のように付き纏って離れないのだ。

しかし聞こえてくるのは蝿の羽音ではなく、木の葉が風に舞うような、バサバサバサという異音だった。


その澱みが僅かな動きを見せるたびに、ポッ、ポッと赤い光が散る。見間違いなどではなく、それは確かにそこに浮かんでいた。

丁度人の頭くらいの高さで、はたから見れば、まるで背が高い何者かが、真っ赤な髪を振り乱して平助の顔を覗き込んでいるかのように見えたことだろう。


目の前で起きている異常に怯えて、野犬の群れは手を出せない。

藪の中で群れのリーダーの判断を待っていた。


その時、静止していた空気が、大きく渦を巻き始めた。ごうごうという音と共に紅色の光が明滅し、平助の体を飲み込んでいく。


あまりに異様な光景に、群れはリーダーの指示を待たずして、我先にと逃げ出した。


***


何もない虚空を、老人の言葉が切り分け、色をつけ、名を与えた。


"てんぐさま"


山の主。

赤い髪と目が吊り上がった鬼のような形相、牙を剥き出しにした口という姿。

村外れの神社から夕方の風と共に吹き出し、木の葉を纏って子供を襲う悪神。


噂に過ぎなかったそれは、どの要素一つとっても抽象的で、お互いに確固とした繋がりを持たない不安定なものだ。


誰も"てんぐさま"というものをはっきりと見たことはないために、具体的な姿形を持たず、もやのように漂うのみだった。


しかし村人が立てた根拠のない噂は、知らず知らずのうちに「平助」という誰もが知る人物、人格と、"てんぐさま"を結びつけてしまった。

「平助」の名が内包する共通認識を、その亡骸ごと飲み込んだ風は、噂に左右されない確固たる芯、つまり「平助」としての自我を手に入れることとなる。


今、彼を中心として新たな"てんぐさま"が作り出されようとしていた。


***


土を蹴り上げて進む野犬たち。


群れの先頭を走るリーダーは、異変に気づいて一早く駆け出した。

感情もなく、静かに渦巻くのみだった空気が、突如として明確な意思を持って動き出したのだ。


走り出した直後、背後で()()も動き出したのを感じた。


ザザザザザ…という落ち葉の擦れる音と共に、ものすごい勢いで何かが迫ってくる。

全身の筋肉を使って走っているにも関わらず、引き離せる気配がない。それどころか、落ち葉を巻き上げる音はだんだんと大きくなっていた。


耳をドクドクと流れる血流の中に、後ろの仲間の足音が聞こえる。

まだ捕まっていない。だが時間の問題だ。


群れは半ば恐慌状態に陥っていた。

このまま逃げ続けていてもいずれバラバラになってしまう。

リーダーは斜めに進路を変えた。

群れは川縁を駆け上がり、普段人を恐れて決して出ることはない田んぼの畦道へと追い込まれていく。


遠くに松明の灯りが見える。


人間だ。

いつもであれば、こんな時間まで起きているはずがないのに、今日は本当に運が悪い。

ギャン!ギャン!と怯えた仲間が叫ぶ。

駄目だ!叫んでは!


明かりが揺れ、幾つもの視線がこちらへ向けられるのが見えた。

人里は食べ物が多いが、山よりはるかに危険だ。

今まで何匹もの仲間が、人間に打ち殺されている。


「何の騒ぎだ?」


「犬が吠えよる!誰か襲われとるかもしれん!」


火の中に照らされた彼らの手に、鎌の刃が鈍い光を放つ。

前後に立ち塞がった敵への逃げ場のない恐怖で彼女の足は一歩、また一歩と遅くなり、ついに止まってしまった。


人里に出てしまったら、慣れない地で逃げる自分たちに未来はない。

囲まれて、殴り殺されて終わりだ。


一瞬の迷いの末、彼女は決断を下した。


死を覚悟して臨むのなら、せめて地の利がある森の中で!

仲間たちに鋭く号令をかけ、後ろを振り返る。



_しかし、あるはずの返事がない。



振り返った先には、何も無かった。

炎も、仲間たちも、誰もいない。

ただ静かに流れる沢があるだけだった。


仲間たちはどこへ? あの怪物は?


事態に驚く暇もなく、人間の声が迫る。


「こっちだ!」


「気をつけろ!噛まれたら大怪我じゃ済まんぞ!」


考えている場合ではない!

とにかく森に戻らねば!

そうして彼女は、冷たい沢の水に一歩踏み入れた。


ボッ


「「「捕まえた! 次は辰吉が鬼ね!」」」


***


数秒後、追いついた若者が照らした先にあったのは、彼女が見たのと同じ、誰もいない白い河原だった。

松明の灯りに照らされて、木の影が生き物のように揺らめく。

さっきまで確かに野犬の群れを追いかけていたはずなのに、目の前で煙のように消えてしまった。


遅れて二人目も追いついた。


「どうだ?犬は! 平ちゃんはおったか?」


再度見渡したが、何もいない。


「いや、何も見えん… さっきまで確かに、この辺に犬の群れが…」


気になった彼は、下草をかき分けて川辺に降りようとした。

「それ以上は行くな。さっき長から、これ以上探さんごと指示が出た。戻るぞ。」


その一言が、結果的に彼の命を救うこととなる。

彼は河原に足が触れるギリギリで足を戻した。


若者は最後に一度松明を掲げた。

やはり気のせいだったのだろうか?


「ああ、今行く。」


二人の影が遠のき、小川に静寂が残された。


***


山陰がうっすらと白みを帯びると同時に、村の男衆による二度目の平助捜索が開始された。

指揮を務めたのは村長ではなく、意外にも平助の父であった。


昨晩、村長の言葉に渋々頷いた弥平であったが、


「言いたいことは分かった。俺もこの村の人間だ。

皆に無理言ってまで押し通そうとは思わん。

だが、代わりに明日の指揮は俺にやらせてくれ。あいつが行きそうな場所なら誰よりも詳しいはずだ。」 


そう言って引かなかった。


普段は大人しい彼のあまりの気迫に、反対する声は無かった。


作物の収穫が始まるこの時期に、子供を探すためとはいえ、一日手を止めるわけにはいかない。

かけられる時間は長くて正午まで、それ以降は彼ら家族だけで探すという約束だ。


「皆、どうかうちの息子を頼む。」


疲れの色が濃く、血走った目でそう告げると同時に捜索が開始された。

男たちは三手に分かれ、それぞれ北の沢と神社のある東の山、佐吉が越えた西の山をくまなく巡った。


「おうい!平ちゃあん!どこだ〜!」


「平助!いたら返事して〜!」


きよは、喉から血が出るまで叫び続けた。


彼のよくを知る子供たちも、眠い目をこすりながら平助を呼び続けた。

心中には、毎日一緒に遊んだ友達を想う心配と、彼を一人川に置いていった罪悪感が入り混じっていた。


長い棒を片手に、穴や崖下を隈なく探すこと数刻が経過した。


「すまんがこれ以上は付き合いきれない。

うちにも小さい子がいるんだ。分かってくれ。」


仕方のないこととはいえ、あまりに残酷な声にも、弥平は取り乱さなかった。

むしろ誰が見ても無理していると分かる引き攣った笑顔で、


「ありがとうございます。うちの家族のためにここまで時間をかけていただいて。

きっと私たちで見つけ出しますから。」と礼を述べた。


日頃親しくしていた者の中には、泣きながらその手を握って、本当にすまないと謝る人もいた。


そんなことを歯牙にもかけない様子で、太陽は空へと昇っていく。


夜明けから休まずに走り続け、体力の限界を迎えていた清は、北の森を探している最中に倒れた。

一緒に探していた数人が咄嗟に支え、大事には至らなかったが当分は動けないとのことだった。

弥平も、心に体がついていかない様子だった。一足ごとにふらつき、定まらない視線で息子の名を呼び続けていた。


一切の手掛かりが掴めないまま、ついに約束の時間はやってきた。

「弥平さん、ここまでだ…」


肩に置かれた手は震えていた。


父は膝から崩れ落ちた。


「うっ…うおおおおおぉぉお!…」


涙を流し、拳で地面を打つ彼の背中に、言葉をかけられる者は誰一人としていなかった。


***


一月後、夫婦のもとにある物が届けられた。

「これ…神社の大イチョウに引っかかってたのを源蔵さんが見つけてさ…」


差し出された手に握られていたのは、あの赤い頭巾だった。

「平助…」


あの後も、夫婦は毎日朝早くから夜遅くまで、息子の姿を追い続けていた。

大人でも滅多に入らないような山の、奥の奥まで、取り憑かれたように探し回った。

しかし、正しく神隠しのように、あの日から平助の痕跡はパッタリと途絶えていた。


ほつれた頭巾を手にして、彼はようやく理解した。


息子は"てんぐさま"に攫われたのだ。

あの温かい体を、この腕で抱き締めることができる日はもう永遠に来ないのだと。



無論、小さな農家の子供のために、葬式など行われない。

せいぜい近所から追悼の言葉が贈られるだけだ。

弔おうにも、墓に収めるべき遺体さえ見つかっていないのだから。


子供の命が軽かった当時、生きていくだけでも命懸けの庶民に、悲しみに暮れる余裕など無かった。


だが平助の失踪は、"てんぐさま"が人に害をなした初めての例として、村全体に重く受け止められた。

もうそこに御伽噺であった頃の面影はなく、ただ得体の知れない力を奮って、命を脅かす祟り神の姿があった。


村の重鎮数人の合議によって、村長は、子供が夕刻に出歩くことを厳格に禁止した。特にあの神社に近づくことは禁忌とされた。

平助の父の強い提案もあってのことだった。


「いいか、夕方に神社の辺りを歩くことは絶対にしちゃならん。"てんぐさま"に攫われたら二度と戻って来れんくなるぞ!」


どの家でも、子供にそう強く言いつけた。

大人の言うことなど半端にしか守らない子供たちも、よく知る友達が連れ去られたのだ。

酷く怯えて、絶対に近づこうとはしなかった。


村全体が"てんぐさま"に恐怖し、その存在を信じたことが、皮肉にも"てんぐさま"の怪談をより確かなものに変えていく。


***


指示が出された数日後のことである。

近づいてはいけないといっても神社の周りもやはり収穫期を迎えた田んぼであり、それを放り出せなどという指示は村長にも出せない。


その田んぼの持ち主、名前を源蔵という、は交渉の末、大事をとって夕方には作業を終わらせることを条件に、田に近づくことを認められた。

そんなわけで、彼は片手に鎌をたずさえて、たわわに実る稲穂を刈っていった。よく乾いた茎が、刃を入れる度にザクザクと小気味良い音を立てる。


今年は雨もよく降って適度に陽が照り、育ちの具合も良かった。

昼時に一度休憩をとって、午後涼しくなってからまた作業に移った。

道沿いの細長い土地に作られた田んぼなので稲の総量も少なく、稲刈りは一人で十分である。


雲一つない秋の空を頭上にしても、源蔵の顔は晴れない。


正直なところを言えば、彼は村の方針に懐疑的であった。

もともと怪談などあまり信じていないたちであるが、"てんぐさま"などという作り話を、何故こうも深刻に語るのか理解できなかった。


風だと?、ばかばかしい。


昼の田んぼは日の光が強く、気温が上がりやすい。

対して森の中は暗く涼しい空気が溜まっていて、その気温差は夕方に最高に達する。

冷たい空気は、暑い場所を目指して風を生じる。

神社から噴き出す風は特段不思議なものでは無く、そういった自然の決まりごとであることを、源蔵はよく知っていた。


もちろん平助のことは、彼もとても心配している。

赤い頭巾を頭に締めて、畦道を走る平助の姿は見慣れた光景だった。

「ほらー、頑張れよ!平ちゃん!」


そう声をかけることもあった。

その声援が自分に向けられたものであると分かると、彼は恥ずかしそうに笑ってこちらに手を振った。


何事かお礼を言っているように口元が動くが、声が小さくて聞き取れない。

今でもありありと思い出せる。


だから彼の失踪を、"てんぐさま"だとかいう()()()と勝手に結びつけて騒ぐ、村の連中の気が知れなかった。


弥平も弥平だ。

自分の息子が突然いなくなって、何でそんな話をまともに信じたんだ!


鎌を握る手に力が籠る。

今は麓の町に出ているが、源蔵も一児の親であった。

弥平とは若い頃からの付き合いであったので、子育ての苦労などを時々聞いてやっていた。


だからこそ、余計に許せない思いが込み上げてきた。


何故、根も葉もない噂なんかに屈したんだ、弥平。


作業は順調に進み、昼過ぎには約束通り荷物を纏めて撤収できた。

本音を言えば、刈り損ねた落穂を拾い集めたかったのだが、村長との約束もある。

余裕を持って終わるべきだろう。


彼自身が信じていなくても、村というのはお互いの信頼関係、助け合いがあってこそだ。

一方的に約束を破るような真似はできない。




家の横の納屋で、刈り取り後の田んぼを眺めている時だった。

畦道を誰かが歩いているのが見えた。

背の小さい、黄ばんだ服を着た子供だ。

一体なぜこんな時間に。

もう日の光に朱色が混じり、夕暮れが近いことを感じさせる。


村長からの指示を聞かされていないのか、親の言いつけを守らず出てきたのか。

どちらにしろ、そのままにはできなかった。


彼は今し方刈り取ったばかりの稲株を跨ぎながら、その影の方に歩き出した。


子供は畦道をトコトコとこちら側に歩いてくる。

まだ顔は見えないが、頭に何か…被り物か?、をしているように見える。


「そこのお前!今出歩いたらいかんって言われとるやろうが!

はようこっちさ!」


声を荒げるが、反応はない。


何か変じゃないか?

そう思わないこともなかった。

しかし先日の件を思い出して焦る彼の心に、そんなことを疑う余裕は無かった。


更に近づくにつれて、背格好が分かってくる。

やけに見慣れた姿だ。


少しよれて、脇の辺りにつぎはぎがある服、擦り切れた草履。


ポリポリとぼさついた頭をかく仕草を見て、疑いは確信に変わった。


間違いない、あれは_


「平助!」


源蔵は彼の名前を呼んで、側に駆け寄った。


「良かった、お前、無事やったんか!

みんな心配して、村中探しとったんやぞ!

良かった…!おりゃあ、てっきり野犬に襲われたかと…」



顔を覗き込んで、やはり平助だと安心した。


良かった!良かった!


弥平に知らせたらきっと、いや間違いなく喜ぶに違いない!

本当に!本当に良かった!






…本当に?



ひやっと冷たいものが、首筋に流れる。



いや、待て。

何故こいつは頭巾を被っている?


あれはついこの前、神社の大イチョウに引っかかっていたのを見つけて、弥平の家へ届けさせたものだ。

衣服も、履き物も何一つ見つかっていない平助の唯一の形見だったので、彼がそうそう手放すはずもない。


ではこれは?

何故一月以上屋外にいて、服には土汚れ一つもない?


目の前の平助は相変わらず無表情だ。

その瞳は、まるで光を映していないかのように真っ黒だった。


「平…」


思わず後ずさった途端、平助の首が急にぐるりと回り、こちらを向いた。

目の奥にいる何者かと、視線が交錯する。

源蔵の喉が、ヒュッと音を立てた。


ボウッ


その瞬間、目の前の見慣れた姿が、轟音と共に炎に包まれた。

紅色の炎が、彼の口から、鼻から、目から吹き出し、肌を舐め尽くして燃え広がる。

もう顔すら見えない。

炎の塊が立っている。


「あ、うあぁぁ…」


源蔵は腰を抜かして、稲藁の地面に尻もちをついた。

ずりずりと何とか後退りするが、それだけだ。


炎の怪物は動かない。

ゴオオオォという呼吸のような音を立てて、静止している。その中に、般若のような鬼の顔が、泡を吹いて吠える犬の首が、痩せた熊の牙が次々に浮かび上がる。

そしてその火の手の一つ一つが、小さな子供の手の形をしてこちらに手を振っていた。


源蔵は魅入られたように、地べたに縫い留められていた。

急かす心を無視して、足は逃げることを許さなかった。


彼が見ている前で、炎が燃える中に別の音が、何かの声が混じり始める。


その声はだんだん大きくなる。


「ギャン!ギャン!」 「アハハハハ…」

「お母ちゃん、辰吉がぁ…」 「やーい、やーい、のろまの平助やい! お前にはてんぐがお似合いだ!」 「うああああ!助けてくれ!こっちへ来るなあ!」 「明日雨にならないと良いね…」 「平ちゃあん、どこだあ」  「あなた、行ってらっしゃい。」 「うん、また明日。」 「今年はどうにも虫が多くて困る。鳥が少ないせいかね?」 「どんぐり大きいのあったよ!」 「平助、そこの皿とってくれ」 「このキノコ、食べたら腹壊しそうな色してるな。」 「おりゃあ、ちょっと神社の掃き掃除に行ってくる。」 「スルスルスルってさ、井戸のつるべみたいに下がってきたんよ。思い出してもおっかねえ。」 「杉の葉っぱはよく燃えるのに、何で小枝は煙くて煙くて…」 「雨漏りしてない?あそこ」 「可愛い顔して、もう、ズルばっかり!」 「蛍っていつくらいになったら出てくる?」 「ほら、上田のお爺さん、亡くなったらしいんだ。一昨日の夜から高熱が治らなくてさ…」 「このわらび、筋ばっちゃおらんか。」 「もう…本当に甘えん坊さんなんだから。こんなんで大きくなって、うまくやっていけるのかしら?」 「怖い神様だね…じゃあきっと、こんな顔だ!」 「雨よフレよとカカシが泣けばあ〜」 「めだかだ!そっち行ったよ!」 「見つかったか? いや、こっちは何も…」 「ぺっ、ぺっ、籾殻が混じってら。」 「最近野犬が畑を荒らしよって」 「おーい!半平〜、又七〜! みんなどこ…?」 「ほらー、頑張れよ!平ちゃん!」





「「「「いつもありがとう、源蔵おじさん。」」」





聞きたくて、聞き取れなかった声だ。

まるで、すぐ側にあの子が立っているようだ。


「平助…まだそこにいるんか?」


問いかけへの反応はない。



あれは間違いなく、平助の声だ。

もし平助が、すでに取り殺されてしまったのではなく、炎の中に捕まっているとしたら…


藁の上に、ゆっくりと手をつく。

上体を起こすと共に、鎌をゆっくりと手元に引き寄せる。


もし、この炎の向こうに平助がいるなら、生きていてくれるのなら。


身体の感覚が回復してくるとともに、ぼんやりとした頭が冴えてきた。


弥平、わしは逃げんぞ。

必ずお前の元に連れて帰ってやる。



その時、神社の鳥居から風が吹き出した。

それに煽られるようにして炎は浮き上がり、突如形を失って流れ出した。

火の先っぽからほどけるように、細い光の筋となり、やがて炎を帯びた風そのものとなって、川の方へと走っていく。


「待て!」


源蔵は咄嗟に、その進行方向を塞ぐ形で道に躍り出た。

腕を大きく広げて向き合う。


「お前を待っている人がおる!…な? 一緒に帰ろう。

お前の家はそっちじゃあない。」


しかし炎は止まらない。

アハハハハ…と笑い声を発しながら源蔵の正面にぶつかり、そのまま両脇を潜り抜けていく。


「待てと言っとるだろうが!」


怒鳴って、その尻尾を掴もうとした。



_と、急に小さな手の一つが伸び上がり、逆に源蔵の手首をがっちりと掴んだ。



「「「早く川の方行こう?みんなが待ってる。」」」


ぐいっと肩から引き込まれる感覚。

風の流れと共に、踏ん張った足が川の方へと引き摺られていく。

草履の下の地面が、二本の筋を刻んだ。


「言うことを聞け!、我儘坊主がっ」


引き剥がそうとするが、万力のような握力で締め上げられ、びくともしない。


「「「行かない?行かない?」」」


「行かん!駄々をねる子供を連れて帰るのが、わしら大人の仕事だ!」


もはや見間違えなどあり得ない真っ昼間、燃え盛る炎が宙に浮き、笑い声を上げる。

信心深い坊主などが見れば、走って逃げ出すか、経典を片手に命乞いをするだろう。

しかし源蔵は、若い時代には熊ともやり合った猟師だ。

相手がどんな大柄な男でも、気に入らない輩は殴り飛ばす気質は、歳を食っても変わらない。


しかも、()()は、平助の喉を借りて、人語を喋った。

そんな人間臭いものが、神などと崇高な存在である筈がない。

源蔵には、それで十分だった。


恐れるな!

平助さえ取り戻せればそれでいい!

源蔵は何とか動く足で、炎の中心を真横から振り払った。



ボッ


熱は感じられなかった。


雨の夜に墓場には行くと、鬼火というものが出ると聞く。

青か赤か、人によって色は様々言うが、フワフワと飛び回り、触れても燃え広がらず、冷たい炎であるという。


振り抜いた足は、一切の抵抗なくすり抜けた先、中心部で硬いものを弾き飛ばした。

ガラガラと軽い音を響かせて、転がり出てくるものは、果たして_。



_生々しい白に、鈍く光る骨であった。


転がった頭蓋骨の虚な眼窩が、こちらを恨めしそうに見つめた。苦悶の表情を浮かべた顎には、ずらりと尖った牙が並んでいる。

人ではない。

何かの獣の骨だ。


数からして、仏は二体か、いや三体か。


「まさか…あの中に平助もっ…!」


「「「遊ばない?」」」


急に手首を握る力が弱まった。



「「「遅くなったらお母さんたちに怒られるから、そろそろ帰ろうよ。昨日も居間で…」」」



炎は動けずにいる源蔵に構うことなく、今度こそ川へと一直線に向かっていった。


ボオオオ…

という音が遠のいていく。



その光景は、源蔵の目には子供が走っているように映った。


足の遅さを悩んでいた内気な子供が、風のように走る足を手に入れて、全身から喜びを溢れさせながら、走っていくように見えた。


咄嗟に、追いかける足に力を込めた。


_しかし、次の瞬間には緩めていた。



冷静な自分が憎らしかった。

彼自身は、歳を取ったとはいえ、まだまだ若いつもりでいた。

少なくとも、老いはしても衰えてはいないと思っていたし、それを誇りに感じていた節があった。


だが、走って追いついたとして、一体どうする?

足はすり抜ける。炎の中に平助はいなかった。


そう考えた時点で、既に心まで老人になっていたのだろう。

生意気盛りの若人なら、躊躇せず果敢に飛びかかっていったところを、迷いが生じた。


その迷いが二人を引き離し、瞬きの後、炎は坂の向こうへと消えた。


***


源蔵の証言の後、何人もの村人が同様の体験をしたことが明らかになる。

毎日必ず決まった時刻に現れ、神社から一直線に川の方へ向かう、紅色の炎を帯びた風。


事実無根の怪談などではなく、はっきりと目に映るという事実が村人たちを恐怖に駆り立てた。


怒れる山の神を鎮めるため、神社から裏の山に向けて祈祷が行われた。

世代を経ることに土地神への信仰が薄れ、すっかり廃れた神社であったが、軒の雑草を払い、新たに整備し直した。

村人たちは、祀られていた龍神に、災いを打ち払うよう一心不乱に祈った。


しかし、待てど暮らせど何の効き目も表れない。


「アハハハハ…」


夕方に神社から飛び出した炎は、子供がはしゃぐような声をあげて、右へ左へと飛び回っている。


その様子を見た平助の両親は、そこに亡き息子の姿を見出したのか、


「平助え!父さんはここにいるぞ!」


と涙を流して駆け寄ろうとした。


「弥平!あれはお前の息子じゃない!あれは子供を攫う化け物だ!」


立ち会った他の村人が必死に制止し、なんとか取り押さえた。




祈祷は毎月必ず執り行われ、村中の人々が参加した。

境内に大きな薪を積み上げ、四方にも赤々と火を焚きながら行われるその様は、村を訪れた行商人を通じて徐々に外部に広まった。



開けた田んぼから一段高い神社に燃える火は、夜の山道からよく目立つ。

灌木を通して遠目に見た様は、さながら鉄の支えの上で揺らめく灯りのように見えた。


いつしか村を代表する風物詩となり、「天狗様のかがり火」の名で呼ばれることとなる。

中編に続きます。

独立第一・二章はまだ完成しないので、こちらを先に投稿しました。

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