5.ダークエルフの少女
僕が足を踏み入れた森は、背が高く、幹の太い針葉樹が立ち並んでいた。日本でも植林されているヒノキに、どことなく似通っている樹種だ。土壌は湿った落ち葉が堆積し、ふかふかした踏み心地だった。
森の中では、不思議なほど生物の気配を感じ取ることができなかった。
一般的に、森は多くの野生生物にとって重要な住処だ。それなのに、鳥のさえずりさえも聞こえない。
樹木から漏れる敵対的な圧迫感で昆虫は身を潜め、鳥や小動物は逃げ出してしまったのだろうか。どうせなら、葉っぱからリラックス効果のあるフィトンチッドでも放出すればいいのに。
森林浴はとても気持ちがいいので、僕は好きだ。
こちらは常日頃から自然や生物多様性を大切にしているので、自然の方もどうか僕にやさしくしてほしい。
足音と血痕、そして人間の声らしき微弱な振動を頼りに森の奥へと進んでいくと、地面に手頃な長さと太さの木の棒が落ちていたので、土を払ってから拾った。
さしずめ、「ヒノキの棒を装備した」というところか。
両手が空いて手持ちぶさただったので、僕は杖代わりに持っていくことにした。
相変わらず森から発せられる警戒感を伴う圧力は弱まらなかったが、5人組の声と思われる音の振動はどんどん強くなっていた。
どうやら、僕は段々と目標に近づいているらしい。
さらに森を進みゆくと、おぼろげながら会話の声も捉えることができた。
気のせいだろうか。音を拾おうと意識を集中する度、血流とはまた異なる、暖かみのある何かが体内を廻っているのを感じる。それは耳の方へと流れていって、僕の聴覚はますます精度を上げていった。
この時、僕に聞こえてきた会話は以下のようなものだ。
毎回、ソラルナ公用語を記すのもまどろっこしいので、今後は意訳とさせていただくことをご了承いただきたい。すべての内容を記憶しているわけではないが、大まかなところは間違っていないはずだ。
「ユニコーンは西だ!」
「了解した。俺はこちらから回り込む! お前らは弓で追い立ててくれ!」
「まかせて。今度こそハチの巣にしてやるわ!」
「ようやくユニコーンを追い詰めたな。これでゲームの終わりだ」
もちろん、当時は会話の内容を理解することはできなかった。しかし、彼らの会話の調子、発声のニュアンスから、狩りが佳境を迎えていることは容易に想像がついた。
ユニコーンを仕留めた後ならば、あの5人組とも落ち着いてコンタクトを取ることができるだろうか。
僕がそんなことを考えていると、森から放たれる警戒感が急速に強まるのを感じた。
突然、酸素が薄くなったかのように息苦しい圧迫感が生じる。
何が起きた?
そう疑問を抱くと同時に、落雷のような轟音が鳴り響いた。
聴覚が敏感になっていた僕は、思わず両手で耳を塞ぎ、脳の芯まで貫くような音の痛みに身をよじる。
「何だってんだ、一体」
身体感覚に及んだ不愉快さから、僕は思わずなじるように吐き捨てた。
そして、心を落ち着けて再び集中力を高めると、轟音が鳴った方角から殺気のこもった言い争いの声が聞こえてくるのに気が付く。先ほどの、ユニコーンを追い詰めている時の勢いと期待感に満ちた会話と違って、今にも殺し合いが始まりそうな緊迫感がこもっていた。
何か、異常事態が発生している。
森が発する圧迫感が一気に強まったのは、きっとそこで起きている何かが原因だ。
僕は力を込めて左手に針葉樹の棒を握りなおすと、殺気の発信源に向けて駆けだした。
◆◇◆
地を這う樹林の根っこに何度も躓きそうになりながら、僕は何とか現場へと辿りつく。
何故だか脚回りに力が漲ったため、文字通り「風のように」駆けていくことができた。
かかった時間はほんの数分だろうか。
想像よりもずっと早く到着できたおかげで、すべてが決着する前にそこで起きていた出来事に介入することができた。
もしあと2~3分も遅ければ、僕のソラルナでの運命は大きく異なるものとなったに違いない。
その現場で見たのは、これまでの現実ではありえなかった光景。
樹木がまばらな開けた空間で、先ほどの5人組が剣を振るい、弓矢を射り、魔術を行使する。
相対するのは、背後に手負いのユニコーンを庇った一人の少女。
彼女が僕の目を引いたのは、何故だろうか?
その長い銀色の髪? 滑らかな褐色の肌? すべてを見通すような、紅く透き通った瞳? それとも、美しいネコ科の獣のように、先端が細長く尖った耳のせいだろうか?
僕はここに至ってようやく、「自分が異世界にいる」のだという確信的な思いを抱いていた。
あの少女は、人間ではない。
まるで、物語に出てくるようなダークエルフそのものだ。
ダークエルフの少女は、迫りくる剣撃を右手に構えた片刃の短剣で弾き返し、弓矢による狙撃は風の障壁を張って軌道を反らし、魔術で生成された氷の散弾は左手の人差し指から放射した青白い雷撃によって撃ち落とした。
木陰に隠れる僕に気付かず、彼らは戦闘行為を継続している。
ダークエルフの少女の軽やかな動きに僕は目を見張ったが、多勢に無勢であることは明らかだった。彼女の表情に余裕はなく、自分が長くはもたないことを自覚しているようにも見えた。
背後に座り込んだユニコーンは臀部以外にも何本かの矢が突き刺さっていて、迫りくる死の運命を受け入れるかのように目を伏せていた。
異世界転生したばかりの僕は、目の前で起きている出来事のどちら側に理があるのかは分からない。
ただ、それでも、1人の少女を5人で寄ってたかっていたぶるのは正しいこととは思えなかった。
ましてや、5人組はダークエルフの少女を完全に殺すつもりでいる。
目の前で異世界の戦いを初めて見る僕でも、その意図は難なく理解することができた。
彼らは少女を殺害して、後顧の憂いなくユニコーンを手中に収めるつもりだ。
まったく、殺しなんて馬鹿げている。
短絡的で暴力的で無思慮かつ前時代的で非人間的な、愛に欠けた行為だ。
僕は段々と、5人組に対する強い怒りがわいてきた。
彼らには先ほど、理不尽に怒声を浴びせられた貸しもある。
僕は玉なしではないし、はっきり言って懐もけつの穴も広い男だ。
正当なる復讐として、彼らには僕の怒りを引き受けてもらわなければ。
ついでに、ユニコーンが助かる道も探ろう。
人間社会は家畜など経済動物の恩恵を余すことなく受けているため、「動物の命を奪うのはいけない」などと軽々しく口にすることは憚られる。僕は牛肉も豚肉も鶏肉も馬肉も鹿肉も鴨肉も好きで、人は生きるために他の生物の命を奪わなくてはいけないことを承知している。
このため、ユニコーン狩りの正否については考えを保留していたのだが、ダークエルフの少女が命をかけて守ろうとするのならば、僕もその意志に沿うことにしよう。
方針を決断すると、僕は木陰で息を殺しながら飛び込むべきタイミングを窺った。
ダークエルフの少女は5人組の猛攻を受けて悔しげに顔を歪めており、戦いの均衡は今にも崩れそうだ。
僕はこれから少女を助けるつもりだが、決して計算なしで行動するわけではない。
先ほどから、自らの体内で何らかの力が廻っているのを自覚している。それは、強い怒りと連動するように、ますます燃え上がっているようだ。
この力は、森林が発していた敵対的な圧力や、魔術が発動する際に感知したものと同種のエネルギーなのだろう。僕の五感や身体能力が研ぎ澄まされていたのも、この力が原因だと本能が理解している。
これならば、やれるはずだ。
ダークエルフの少女は、背の高い男が振り下ろした剣を自らの短剣で薙ぎ払っていた。
一合、二合と相手の剣撃を受け止めるが、やがて力負けし、少女は体勢を崩してしまう。
決定的なチャンスを掴んだ背の高い男は、いやらしくサディスティックな笑みを浮かべた。
今だ――そう確信した瞬間、僕は背の高い男に向かって飛び出し、力を込めてヒノキ的な棒を振り下ろした。
「その娘を殺すんじゃない! 水でも被って、頭を冷やせ!」
不意を突かれた男は頭部に打撃をまともに喰らって気絶し、僕は弓矢や魔法攻撃の盾として男を人質に取る。
そう、そうなるはずだった。
僕はそのように行動することで戦闘を中断させ、少女と5人組の間に何らかの着地点を設けようと考えていた。わだかまりは残るだろうが、命の奪い合いが行われるよりは余程ましだ。
ところが、ところがだ。
僕が振り下ろしたヒノキ的な棒は、男の頭部を強打する代わりに、大蛇のような水流を何本も発現させた。体内を廻っていた力が、一気に抜け出す感覚がした。
水量と勢いはすさまじく、男は激流に絡み取られると、まるで水洗便所に流されるように森のより深い方へと吸い込まれていった。5人組の残り4人も巻き込まれたようで、水浸しの空間には僕とダークエルフの少女、そしてユニコーンだけが残された。
果たして何が起きたのか?
僕にも分からないことはある。
頼むから、異世界転生したばかりの人間に聞かないでくれ。