神は全能ではない
がしゃりと音を立て、机が震えた。コップになみなみと注がれた水は、耐えきれずに溢れた。
灯葉は机に拳を何度もぶつけ、頭を横に振っていた。
声が聞こえた。今にも砕けそうな、震えた声だった。
「どうしたの、灯葉君」
灯葉は机を見つめたまま、言った。
「なんなんだよ」
灯葉は口を半開きにし、ゆっくり歯と歯を噛み合わせ、血が滲む程に歯を食いしばった。その様子を、ドラセナは怯えたように見つめていた。日常が壊れていくのを感じた。
「これは、なんなんだよ」
机の上に、新聞紙が置かれていた。溢れた水で濡れてしまっていた。
ドロイトは震えながら近づき、新聞の内容を見た。そこに、大きく見出しがあった。
『日本人の平均寿命、三十歳に上昇』
「俺の」
灯葉は目を見開き、水滴から一瞬も目を逸らさず、言った。
「俺の両親は」
灯葉はやっと、ドロイトに視線を向けた。灯葉の目は、まるで祭りの最中に迷子になってしまった子供のようだった。
「俺の、両親は?」
ドロイトは、忘れちゃったの、という言葉を飲み込んだ。可哀想でしょうがなかった。忘れてしまったのだ、灯葉は。そう思った。
今にも爆発しそうな灯葉に見つめられながら、ドロイトは、ゆっくり首を横に振った。
「会いたくない、と言ったのはそちらでしたよね。これから昼食を食べようと思っていたのに、何事ですか」
ルスバは目を細めながら、灯葉に言った。灯葉は今にも吐きそうな様子で、嘆いた。
「死にたくてたまらないんだ」
「なぜですか」
「両親が」
灯葉は何かを振り払うように、首を振った。
「異世界に行く前は、あんなに元気だったのに」
それを聞いた瞬間、ルスバは凍りついたように動きを止めた。纏わりつくような笑みが消えた。
「あ、そう、ですよね。あぁ、なるほど」
ルスバは何度も頷いた。かつて力を出し切った焦げ茶色の木の葉が、風でくるりと舞った。
「先程から何の話をしている」
日本地図らしきものを握りしめたリビアが割って入った。ルスバは苦々しく笑った。
「この世界は、貴方達が思っている以上にねじ曲がっているのです」
「やっぱり、おかしいよな。平均寿命が、さ、三十歳なんて、ありえない。あっていいわけが、だってあまりにも短命すぎる。皆、そうなのか?」
「ええ、人間、生物全体がそうです。それは、獣人族も例外ではありません」
ルスバはここで話を一旦切ろうとした。自分の深い部分を、繊細な部分を他人にさらけ出すのは苦手だからだ。しかし、止まらなかった。止めようとしても、止まらなかった。
「同士、カウレも、死にました」
木の葉が、風に舞った。くるりくるりと何度も舞った。懸命に空を飛ぼうとした。しかし、無慈悲にも風は止んだ。
木の葉は動くことなく、コンクリートに横たわった。
ルスバは頑張って笑いを作り、言った。
「あのビルで、私は灯葉さんを爆発させてリビアさんを消し飛ばそうとしました。私と、灯葉さんごとです。あれは、私の自殺でもあったのです。危険をこの世から消せて、私も死ねるという一石二鳥の名案だったのです」
灯葉は顔を歪ませた。ルスバは、灯葉にとって頼れる存在だった。だって、神を見ることができるのだから。これ以上に頼れるものはなかった。
しかし、その頼れる存在が自殺をしようとしていたとわかった今、灯葉の周りは真の暗闇だった。
「…わかった。ありがとう、教えてくれて。俺はちょっと頭を冷やすよ」
灯葉は振り返ろうとした。しかしすぐに二つの腕が伸びてきて、灯葉の肩を確かに掴んだ。
ルスバだった。
「…まだ早い」
ルスバは初めて、灯葉に共感を感じていた。その腕は震えていた。
「何」
「まだ、ある」
なにかの始まりを直感で感じる。
バッと顔を上げたルスバの瞳は、ギラギラと燃えていた。
「あなたが見つけたでしょう」
灯葉は胸の高なりを感じた。
「何…」
「希望は、あったのですよ」
一陣の風が吹いた。
木の葉が、青い大空を舞った。
「取り乱して、申し訳なかった」
灯葉はドロイトに謝った。灯葉の心は落ち着きを取り戻していた。ドロイトは安心したように顔をほころばせたが、まだ少し不安の色が目に残っていた。
「大丈夫だよ、少し休もう」
灯葉は何回も頷いた。そして、『休み』というワードで思い出した。
「そういえば、俺の仕事は」
ドロイトは驚いたように灯葉を見た。
「え、行けるの?いや駄目だよ。今は駄目。会社もクビになったばかりなんだから」
「そ、そうか。そうだよな…」
確かに休んだほうがいいかもしれない、と思い、灯葉は椅子に腰掛けた。そして、椅子から飛び上がった。
「え?」
「え?」
灯葉はぽかんと口を開けて、ドロイトを見つめていた。
「俺、クビになったの?」
灯葉はその後、建設の仕事についた。
この平均年齢が三十歳の世界で、人々は仕事にあまり親身ではないようだった。
何しろ人生三十年しかないのだから。思う存分楽しまなければ、すぐに死んでしまう。
灯葉は誰よりも喜んで働いた。
初日は、久しぶりの「仕事」という文字に震えた。あの頃、何もかもが普通だった日々で、唯一普通ではなかったのが『仕事』だった。
灯葉にとって軽いトラウマだったそれは、今の灯葉にとって大いなる救いだった。
仕事をしているときは、何もかもを忘れられる。
仕事のこと以外、何も考えなくて済む。
会社の人間はその働きぶりに心配げな様子だったが、灯葉が悪魔だとわかると途端に沢山の仕事をやらせ始めた。灯葉はその待遇に、これ以上ない程の喜びを見せた。
悪魔は、死なない。
なら、いくら働かせても大丈夫だ。
何より、本人がそれに喜んでいるのだ。
灯葉は何時間も仕事をした。
多分、何回か死んだ。
でも悪魔だから、死ななかった。
灯葉は喜びに喜んで、冬に汗を滝のように流した。
心配するのは、ドロイトとドラセナだけだった。
「絶対におかしい」
ドロイトはドラセナが家から出ていったのを確認して、呟いた。
今の灯葉の状態は、異常だ。こんな生き方をしていたら、いつか必ずひずみができて、一瞬で崩壊してしまう。
一体何が灯葉をここまで苦しめているのか。ドロイトには分からなかった。
ドロイトの記憶は、塗りつぶされているのだ。フルセルにいた頃の記憶を封じ込められ、代わりにこのぐちゃぐちゃな世界の記憶を植え付けられている。
誰が植え付けたのか。
それはーー…
「神です」
午後の夕陽差すカフェテリア、ルスバがリビアに言った。リビアは軽く頷いた。
「あれか。前に見せてもらった…名前で呼んでも問題ないのか?」
お好きにどうぞ、とルスバは言った。
「確か、『ジレカクドポカ』だったな。あれは、間違いなく上位の存在だった」
灯葉はぼうっとくすんだ木のテーブルを見つめていた。やがて、ポツリと言った。
「神様なのに、なんでこの世界はこんなに歪んでるんだよ…神様が作ったんだろう?ならこんなことがあっていいはずが…」
リビアが灯葉を嘲笑った。
「戦闘面は進化していたが、頭の方は変わっていないようだな。それとも、進化してなおそれなのかな?」
灯葉は久しぶりに、心の底から他人の死を望んだ。
「全能などというものは、ありはしないんだよ。君の思う神だって、所詮人間が創った理想像だろう?善と悪の区別だって、人間基準のものだ。圧倒的な力と思いやりの心は、両立しないのだよ」
ルスバはシニカルに笑った。
「うん、実例が目の前にいるとよくわかりますね」
リビアは勢いよく立ち上がった。
「イミカになら、最上の思いやりを持つことができるが?」
「そうだな、ルスバ、ところで希望というのはなんのことなんだ。教えてくれ」
急いで灯葉は聞いた。ルスバは待ってましたと言わんばかりに笑った。
「希望は、貴方が見つけたのですよ」
俺が?、と灯葉は眉をひそめた。
「あの、絵を描いていたという老人です」
「その老人がなんだって言うんだ」
落ち着いたのか、リビアは席に座り、言った。
「老人?この世界の平均寿命は三十歳のはずなのだろう?」
灯葉はあっと思わず声を漏らした。そういえば。
ルスバは頷いた。
「そうです。恐らく、彼は私と同じです」
というと?、と灯葉が言った。
「この世界の、バグですよ」