効かぬ歯止め
冷たい凍るような冬風がドロイトに吹き付けた。しかしドロイトは、もはやその冷たさを感じていなかった。
寒さすら気にならないほどの、むせ返るような不安が、絶え間なくドロイトを襲っていた。
ドロイトは自分が住んでいるマンション付近にある公園のベンチに座りながら、考え込んでいた。
自宅には戻れない。家の鍵は、灯葉のいる病室に落としてきてしまった。
…今はあの病室に戻りたくなかった。
ドロイトはこの状況を打開する策を考えた。
考えようとした。
しかし考えようとするたびに、焦燥しきったあの灯葉の表情が思い浮かぶのだ。
悲しくて、視界がぼやけた。
袖で目を拭った。
そして不甲斐ない自分に、再び悲しくなって、また視界がぼやけた。何度も何度も目を拭っても、何度も何度も涙は溢れた。
このままでは負の連鎖に陥ってしまうと思い、ドロイトは急いで立ち上がった。
フーっと一旦深呼吸をした。
灯葉という存在がどれだけ自分の生活に関わっていたかが分かる。ここまで大きな存在だとは、正直思いもしなかった。もちろん愛していた。でも、自分がここまで灯葉のことを愛しているなんて気が付かなかった。
ドロイトは髪をわしゃわしゃと引っ掻いた。
待てよ。
本当に私は灯葉のことが好きなのだろうか?
実はこの思いは一時的なもので、灯葉があのまま戻らなかったら私は灯葉を捨ててしまうのでは?
だって、嫌だ、あんな灯葉は、嫌だ。
ずっとあのままだったら、きっと私は耐えられない。でも、だからといって捨ててしまうのか。そんなことしたら今までの記憶は全て苦々しいものと変わってしまうのでは、心を締め付ける鎖へと変わってしまうのでは。
彼女の脳は錯乱していた。
平常ではなかった。
灯葉への思いがコロコロと変わり、今にも叫びだしてしまいそうな程の狂騒が胸の内で膨らんでいた。
もう涙は止むことを知らず、常に流れ落ちていった。思考の果てに、考えが導き出された。
もう、別れたい。関わりたくない。
それが結論だった。
しょうがないとも言える。
彼女の状態はそれほどーー
「ドロイト」
声が聞こえた。
ドロイトは震えながら、視線を地面から声の持ち主へと移した。
ドラセナだった。
暖かい。
暖かくて、心地よい。
薄い布団の上で、ドロイトは頭をドラセナの膝の上に乗せていた。
ドラセナは誰よりも純粋な心を持っていた。だから、いつも美しかった。それに優しかった。
ドラセナはドロイトの髪を柔らかに撫でた。いつの間にか涙は止まり、心は落ち着いていた。
まだ、早い。
結論を出すにはまだ早い。
少しでもあんなふうな結論を出してしまったことに、ドロイトは怒りと悲しみを覚えていた。
ドロイトはドラセナの脚に抱きつきながら考えた。
まだ諦めたくない。
明日、会おう。
それに、何があったのか聞かなくては。
それが一番大事だ。
ドロイトはゆっくりと、深い眠りに落ちていった。
「灯葉君?」
翌日、病室に戻ったドロイトは信じられない気持ちで灯葉を見つめていた。
灯葉は口を開いた。
「ドロイト」
灯葉は真顔で、ドロイトに言った。
「昨日は申し訳なかった」
「灯葉君」
ドロイトの身体は震えていた。
「どうしたの」
灯葉の頭は白髪で覆われていた。胸のコアの光がより一層強くなり、目も赤くなっていた。それに左目は、真っ黒だ。
信じられない程の変化だった。一体何があったのか。しかし、一番の変化は外見の変化ではなかった。一番の変化は…
心が、読めないことだった。
死んでいる。心が死んでしまっている。
「何が、何があったの?」
変わり果てた姿を未だに視界に収められないドロイトは、灯葉に聞いた。灯葉は淡々と言った。
「絵を見たんだ」
「絵を…?」
灯葉は窓の外を指さした。
「道端の絵を」
昨夜。
灯葉は鳴り止まぬop34-2に耐えきれず、窓から落下した。別に死のうと思った訳では無い。悪魔なのだから、死にたいときはコアを壊せば良い。
灯葉は逃げようとしたのだ。
ピアノの音から、逃げようとしたのだ。
駐車場を這いずって、道路に出た。立てるようになったら立ち上がって、宛もなくさまよって、ただただふらついた。
ふと、道端に人影を見つけた。人影を見つけた、それだけでは気にならなかったが、一点目を引く要素があった。
その人影は絵を描いていたのだ。
何かを求めるように灯葉は人影に近付いた。一本の街灯の下で、その人影は絵を描いていた。男だ。それもかなりの老齢だ。
男は近づいてきた灯葉を気にすることもなく、熱心に絵を描いていた。
灯葉はその絵が気になって、見えるようになるまで近付いた。暗闇にぼやけていた絵が、やがて街灯の薄い光ではっきりと浮かび上がってきた。
それを見た。
たった一枚の絵を見た。
それだけで充分だった。
灯葉の脳内に、一瞬だけ、数百年の記憶が蘇ってしまったのだ。
あの、ムネモーシュでの記憶が。
脳内をかすめた。
それだけで、絶大な影響をもたらした。
灯葉の黒い髪は白髪へと染まり、瞳孔は赤く染まり、左目に至っては白目も黒目もすべてが黒く塗りつぶされてしまった。
胸のコアの唐紅の輝きは深みを増した。そしてあれだけの狂乱は、ピアノの音色はすっと、霧散してしまった。
それと同時に、何か大切なものも落っことしてしまった。
それが何なのか、もう灯葉は覚えていない。
絵?何、それは。
ドロイトは意味が分からなかった。
ただただ信じられなかった。
こんな姿になっている灯葉のことが信じられなかった。絵を見た、それだけで身体が心が変化するなんて信じられない。でも、灯葉は悪魔だ。悪魔なのだから、人知などというちっぽけなものは軽く超越しているのでは。
そうだ、理解できなくて当然だ、でも、それにしたって。
理解はできても許容ができない。
脳が受け付けない。
あの、あの心優しい灯葉はいないのか。あの、頼りなくて、それでも愛くるしかった灯葉は。
でも、あぁそうだ。
心が死んだって、姿が変わったって、灯葉は灯葉じゃないか。そうだ。ならば、ならば同様に愛せるはずだ。
こんな感情はわがままだ。
こんな感情は
「ドロイト」
灯葉は冷酷な眼差しでドロイトを見つめていた。
ドロイトは急に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。これから発される言葉に、心が砕かれる。そんな予感がした。
「お前は」
何週間か経った。
気温は急激に下がり、冬はサディスティックな本性をあらわにした。
ドロイトと灯葉は横に並び、落ち着いた表情で公園内を散歩していた。灯葉は不意に、口を開いた。
「お前の言う通りかもしれない」
ドロイトは驚いて灯葉を見た。そして言った。
「やっぱり、そう思う?」
「あぁ。時々、煙みたいな不明瞭のものが、胸に渦を巻くんだ」
ドロイトはそれを聞いて、あまりの詩的な表現に、久しぶりにクスリと笑った。それに、少し安心した。
良かった。
完全に死んでしまったというわけではない。
心は、まだ微弱ながらも生きている。
まだ希望はあるのだ。
ふと、灯葉は歩みを止めた。ドロイトは同じく歩みを止めて、灯葉を見つめた。
「どうしたの」
「知り合いがいる」
知り合い。
ドロイトは正面に視線を移した。そこには、リビアとルスバが凛とした表情で立っていた。当然、ドロイトはこの二人のことを知らなかった。
灯葉は無表情で二人を見つめた。そして、言った。
「どうしたんだ」
ルスバはほほえみながら答えた。
「様子を見に来たのですよ」
リビアは無言で、じっと灯葉を見つめていた。その目には好奇の感情が混じっていた。
灯葉はドロイトに後ろに下がるよう指示しながら言った。
「様子を見に来た…そういうお前らは、どうなんだ。イミカの場所は掴めたか」
リビアは少しの興奮を持って、自信満々に答えた。
「おおよそは、掴めた」
「彼女の推測によると、北海道辺りにいるらしいですよ。しかしまあ…」
ルスバは囁くように、あまり当てになりませんがね、と言った。そんなことも聞こえていないリビアは、熱に浮かされるように話し始めた。
「あの頃、よく覚えている。イミカは寒い場所が大好きだった…フルセルの東にある『ウルの足跡』辺りに行ったとき、私はあまりの寒さに元気を無くしていたのだが…イミカは楽しそうにはしゃいでいた…もう、もうその姿を見るだけで、胸の内に何か熱いものが込み上げてきたのだ。そうそう、暑いところは嫌いだったなイミカは…机の上に液体のようにへばって…あぁ本当に愛している。この世界は未だに馴染むことができないが、一つだけ素晴らしいと感心した言葉があるのだ。『尊い』というそうだな?尊い。あぁ、これだ。この言葉だったのだ、私の生活に足りなかったのは。私は今まで…」
「とにかく、大体目星はついたそうですよ」
ルスバが遮って言った。
イミカもリビアもそうだが、互いに互いのことが関わるとおかしくなる。冷静さが消えて、威厳もふっと無くなる。そして止まらなくなる。
変な奴らだ。
ドロイトは不審な目を二人に向けていた。灯葉にこんな知り合いが居たなんて、知らなかった。学校時代の親友なのだろうか、と思っていた。
灯葉はちょっとドロイトに振り向いて、言った。
「まあ、とにかく目星がついてるのなら良かったじゃないか。応援してるよ、じゃあな」
適当に終わらせようとしたその時、リビアが言った。
「待て」
「…」
灯葉は動き出そうとしていたが、止まった。リビアの目は好奇心で満ち溢れていた。
「以前よりも、悪魔に近づいている。なぜかな。一体何があったんだ?」
灯葉は面倒そうに答えた。
「絵を見たんだ」
ルスバは首を傾げた。
「絵、ですか」
「そうだ、絵だ。その絵を見たら、なんだか不思議な感覚に襲われて…気がついたら、こうなっていた」
「へえ。ぜひ見てみたいですね」
ルスバはリビアを見た。
「さ、それでは私達も行きましょうか」
ポッ、と音がした。
次の瞬間、豪炎の塊が灯葉を襲った。
灯葉は炎にまみれ、吹き飛ばされ、大木に思いっきりぶつかって止まった。芝生の一部は焼け焦げて、熱気が溢れて空気を乱した。
ドロイトは腰が抜けて、地面にへたりこんでしまった。
「えっ、えっ?」
ルスバはリビアを見て、言った。
「ちょっと」
「すまない。知的好奇心を満たすためだ」
リビアは炎を纏った右腕を振りかざし、灯葉に向かって歩き出した。
ルスバは呼掛けた。
「殺さないでくださいよ」
「わかってる。ちょっとだけだから」
ドロイトは理解できなかった。ちょっとだけ?ちょっとって、何だっけ?
呆然としながらも、ドロイトは懐に杖を探した。手が震えるせいでうまく取り出せない…あった、取り出して、あの女の人に向けて
ぱちんと音がして、杖が弾き飛ばされた。杖は吹き飛んで、宙を舞って、リビアの手のひらの中に収まった。リビアは杖を振りながら、言った。
「危ないな、お嬢さん。あぁ、これは本当に危ない」
大げさに言いながら、リビアは杖を灯葉に向けた。そして、意地悪く言った。
「どれだけ危ないものなのか、見せてあげるね」
「ま、待って辞めて」
稲光のような閃光が閃いて、雷が杖からほとばしった。
それは、一瞬で灯葉を貫いた。
雷はそれだけでは飽き足らず、灯葉の後ろの大木をも焼き払い、木っ端微塵にした。
残り少ない葉っぱが無惨に散って、舞った。
ドロイトは声も出せず、口を押さえた。
リビアは微笑んで、ドロイトに近付いた。
「さあ、これでわかっただろう。今後は気をつけるように」
そう言って、動けないドロイトに杖をあげた。
「さて、彼はどうなってしまったかな」
リビアはおどけたようにドロイトに言って、灯葉にスタスタと近づいていった。
はっきりと、リビアの目に灯葉の姿が見えた。
リビアは目を見開いた。
灯葉は無傷だった。
灯葉はゆっくりと立ち上がり、リビアを真っ赤な目と真っ黒な目で見つめた。
「ほう」
リビアは呟いた。
「面白い」
燃える右腕で灯葉の顔面を破壊した。破壊しようとした。リビアはまたもや目を見開いた。
灯葉の頭がバラけて、何本もの首から生える有刺鉄線へと変わってしまったのだ。
「何」
何処からともなく有刺鉄線が伸びて、リビアの首に絡みついた。持ち上げられて、リビアは首吊り状態になった。
リビアは瞬時に翼を生やそうとしたが、それと同時に口から蛇のように有刺鉄線が侵入し、内部を喰い荒らした。
灯葉の首から伸びる有刺鉄線は人間の頭に形を戻して、灯葉は何食わぬ顔で宙に浮くリビアを見つめていた。
動かぬリビアに容赦なく、幾千もの有刺鉄線が襲いかかって、身体に何重にも絡みついて、引っ掻いて、ちぎった。その姿はまるで繭のようだった。
「ルスバ」
灯葉はルスバに視線を移して言った。
ルスバはにやけながら灯葉を見つめ返した。
「なんでしょう」
「俺は」
灯葉はドロイトの方を気にしながら言った。
「なるべくお前等と関わりたくない」
ルスバは頷いた。
「心惜しいですね」
「はっ、心にもないことを」
灯葉は歩き出した。そしてドロイトに言った。
「ドロイト、行こう。大丈夫だ。あいつは悪魔だから死なないさ」
ドロイトは立ち上がれないようだった。
それを灯葉が片手を握って、持ち上げた。
リビアは開放された。
ズルリと血を滴らせながら、有刺鉄線の中から滑り落ちた。
ルスバは呆れながら、近づいていった。
「リビアさん、無駄なことをしてくれましたね」
リビアは笑いながら言った。
「しょうがないだろう、好奇心だ。それにわかったこともある」
ルスバはため息を付きながら言った。
「今更、灯葉のことをわかって何になるんですか」
「容赦がなくなっていた…素晴らしい。嫌いなことに変わりはないが、それはともかくして素晴らしい」
「そうですか。私は、それ以上に気になることがありますがね」
何だ、とリビアは言った。ルスバは地平線を眺めながら、呟いた。
「灯葉が見たという、絵ですよ」
リビアは眉を潜めた。絵?絵の、何が気になるというのだ。
「絵などどうでもいい。今はイミカだ」
「先に言いだしたのはあなたの方でしょう…」
ルスバはリビアに肩を貸しながら、向こうの方へと歩いていった。