魔法が蝕む令和
雲に遮られて随分薄くなった日光が柔らかに降り注ぎ、淡い影を伸ばした。
悪魔はそこにいる。
リビア。
眼の前にいる。
動けない。
俺の心臓が早鐘を打ち、体は臨戦態勢を取ったものの、脳は停止していた。
ルスバは懐から麻袋を取り出した。思い詰めたような表情で紐をしゅると解いた。
そして、真っ直ぐにリビアを睨んだ。
「リビア。今から貴女を殺します」
リビアは口を動かさぬまま、声を漏らした。呆然としている。
「なんで」
「…日常の為です」
取り出した麻袋から舞い落ちた黄金の鱗粉は、星屑のように明るかった。
「ウシュダ、という粉です。灯葉さん、前へ」
言われるがままに前へ出た。そうせざるをえなかった。極度の緊張は、俺の視界を狭めていた。
リビアはこの様子をじっと見つめている。
「イミカはどこ」
ルスバは答えず、ウシュダを強く握りしめた。ぽつりと、言った。
「ごめんなさい」
ルスバは、腕を俺の背中に突っ込んだ。
俺の胸にあるコアが、握られた。ウシュダとかいう粉がコアに振りかけられた。
「なにをする気だ」
「…爆発です。このビルがまるごと吹き飛ぶほどの」
「はっ?」
ルスバは閉じていた目を開けた。
そして、理解不能に陥った。
消えたはずの世界が、まだある。死んだはずの自分が、まだ生きている。私は、コアを爆発させたはずではないか。この建物は傷ひとつついていない。整然としている。
理解不能のまま、隣に視線を移した。
理解は最悪の形で訪れた。
リビアが、灯葉の胸に手を突っ込んでいた。
ルスバとリビアで、互いに前後から灯葉のコアを握り合っている状態だった。
まさか、防がれるとは。ルスバの額を汗が伝った。
リビアは虚ろな目をルスバに向けた。その目は、少しの疑問が宿っていた。リビアは言った。
「誰から学んだ。誰が考えた」
ルスバは暫く震え、引きつった顔でリビアを見ていた。しかし、軈てその顔に笑みが浮かんだ。悪意に満ち満ちた笑みだった。
「教えてあげましょう」
雨が再び振り始めた。曇天は日光を閉ざした。
「貴女がよーく知っている人物」
リビアは首を横に振った。
「イミカですよ」
リビアと灯葉に衝撃が走った。特にリビアの衝撃は尋常ではなかった。
「え?」
灯葉は耳を疑った。イミカの名前が、今ここで出てくるとは。
というか、ルスバは何をしようとしたんだ?全く分からなかった。
リビアは、頑なに理解を拒んでいた。
「嘘、嘘でしょうなんのために」
ルスバはリビアを睨んだまま、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「イミカは、貴女を」
体全体が震え、その声は異常な響きを含んでいた。
「やめて」
「殺す気だったんですよ!!」
雲が、晴れた。後光が差した。
「やめろ!!」
リビアの背中から翼が、皮膚を食い破って突き出した。
空気は轟音を上げて、リビアを中心として勢いよく渦巻いた。
まるで台風だ。
灯葉とルスバは吹き飛び、ガラスは跡形もなく砕け散った。
「ば、ばかな」
灯葉は右手を突き出した。
ガソリンの匂いが渦巻き、エンジン音が聞こえる。
カーペットにくっきりと、タイヤ痕が現れた。
左手も突き出した。
リビアの首に何重にも有刺鉄線が巻き付き、四肢にも有刺鉄線が食らいついた。
灯葉は風に吹き飛ばされ、リビアの周りを大きく回りながら、両手を突き出した。
エンジン音が轟き、リビアに時速150キロが襲いかかった。
爆発的な音が鳴り響き、リビアは吹き飛んだ。
ガラスを失った窓から、リビアは外へ飛ばされた。
ルスバは轟音の中、叫んだ。
「畳み掛けましょう!」
灯葉は暴風の中、有刺鉄線を向かいのビルの看板へと引っ掛けた。否、引っ掛けようとした。
有刺鉄線は何か透明なものにぶつかった。
ルスバは目を見開いた。
「しまった」
ルスバは、起こすはずだった爆発から周りを守るため、バリアを張っていたのだ。
しかしその爆発が不発に終わった今、バリアはただ邪魔なだけだった。
外からはこのビルを見ることができない。しかも、バリアは防音の機能も果たしている。
有刺鉄線が、リビアに掴まれた。
「あっ」
ぐん、と信じられない力で引っ張られた。灯葉は放物線を描いて外へと飛んでいった。
リビアは飛んできた灯葉の頭を鷲掴みにした。そして、唱えた。
「クラスプ」
パァンと小気味良い音を立て、灯葉の頭は消滅した。
リビアは翼をはためかせながら、荒々しく肩の肉を掴んだ。そして、思いっきり23階にぶん投げた。
灯葉の通り道にあったデスク、ガラス、薄い壁に至るまでが、全て破壊された。
リビアは灯葉を追って23階に突っ込んでいった。
ルスバは25階からその光景を見ていた。
灯葉は丁度良くエレベーターのドアの前に倒れていた。早く回復しなければ…
身体を動かそうとするが、全く動かない。身体が身体としての機能を失っていた。
リビアは目の前にいた。
胸ぐらを掴み、舌舐めずりをすると、左手で灯葉を持ち上げ、右手を腹に強く押し当てた。
「トウコール」
半径2メートルの空間が鳴動し、絶え間なく灯葉にエネルギーがぶつけられた。
ベコン、ベコンとエレベーターのドアはひしゃげ、潰れ、遂に灯葉はドアを突き破って中に入ってしまった。
そこにエレベーターの部屋は止まっていなかった。本来一般人が入るはずのないエレベーターの部屋の外側である。
エレベーターの部屋は13階に止まっていた。
灯葉はエレベーターの錆びた天井に落下した。
リビアは灯葉の側に降り立った。翼が窮屈そうに壁に押し込まれていた。
リビアは灯葉をまたいで立った。
両手を重ねて灯葉に向ける。
灯葉は逃げようとするものの、動くのは薬指だけだった。
「これは罰だ」
リビアの顔は上気していた。
「キグティール」
真っ青な槍が灯葉の四肢を貫いた。灯葉は本当の意味で動けなくなった。
「キグティールというのは、『処刑前』という意味だそうだ。悪趣味だと思わないか?」
リビアはしゃがみ込み、灯葉のコアを優しく包み込んだ。
シャボン玉の様な膜がコアだけを包んだ。
「これで、死ぬことはない」
リビアは立ち上がった。
「容赦なくいたぶれるというわけだ」
轟音が轟き、エレベーターは破壊された。灯葉は下へ吹き飛んだ。
「ロクガル、サキガラス、アキュトア、マルトルスア、トスパロウ、ニーニルア」
一音一音呟く度に、轟き、吹き飛び、壊れた。ビル全体が波打つように唸り、遂にガラガラと音を立てて崩れてしまった。
しかしここまでやっても、周りの人々は気づかなかった。ビルの異変に気が付かなかった。
ルスバの張っていた、不可視、防音のバリアが、完全に裏目に出てしまったのだ。
エレベーターの最下層であるエレベーターピットまで落ちた灯葉は、最早原型を留めておらず、辛うじてコアのみが残っているという悲惨な状況であった。
リビアはゆっくりと下降していった。翼が壁に引っ掛かり、擦れた。
「はー…早く元の世界に帰りたい。ここは何処なのだ。早くイミカに…」
灯葉の姿を見て、思わず笑みが溢れた。
「いいザマだなぁ、灯葉…」
コアを拾って眺める。
「手のひらサイズか…フッ、これならポケットにも入りそうだぞ」
そこまで言って、衝撃を受けた。
なんてことだ、その発想はなかった…
イミカをコアだけにして、持ち歩くという発送は!
「ありとあらゆる拷問をイミカに仕掛けてきたつもりだったのだが…」
悔しげに唇を噛んだ。
「まさかこんなアイディアが…しかも単純。なんて素晴らしい…イミカを持ち運びだと…?」
震えた。
一刻も早く、イミカに…
次の瞬間、首に鉄が突き刺さった。
「かっ、なに」
ルスバだった。23階まで降りて、エレベーターに飛び入ったのだ。
ルスバはリビアの首にコアらしきものを見つけていた。
肉を切り開くと、薄く光る六角形があった。
「死ねっ…」
ナイフを振り下ろした。
金属音が鳴って、コアが割れて、砕けて、散った。
「…なんで」
リビアは笑った。
「甘かったな。ダミーだ」
首根っこを掴み、壁に叩きつけた。
「私にコアなどというものはない」
灯葉はじわじわと回復していた。
しかし、遅い。
このままだと日が暮れてしまうほどに。
「罪を犯したものには、罰が降りかかる」
暗がりで、リビアは目を細めた。
「死ね」