十月十七日の惨劇
インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「…おかえり」
扉を開けたドロイトが、不機嫌そうに言った。
「ただいま」
「どこに行ってたの、もう九時だよ?心配してたんだから…」
ドロイトは木製のアンティークチェアに身を委ねた。明らかに、この家の内装に合っていない代物だった。
「ごめん、人に会ってたんだ」
俺は敷かれた布団に座り込んだ。ドラセナは既に布団にくるまり眠っていた。とても健康的だ。
ドロイトは立ち上がり、近付いてきた。何やら気に食わない様子だ。
「ふーん…」
俺の側に座った。
「ねえ、明日、なんの日か覚えてる?」
「?明日か。そうだな」
俺は辺りを見回した。
「今日は何日だっけ」
「十月の十六日」
ということは明日は十月十七日。十月十七日に、何かあったか?いや、ない。少なくとも、俺は知らない。
どうせ日本のことだから、語呂合わせかなんかだろうと考え、十月十七日という数字を頭の中で転がした。
んー…
「わからないな」
「え?」
ドロイトは俺に視線を向けたまま、微塵も動かなくなってしまった。どうしたのかと思うほど、全く動かなかった。少しだけ目が潤んでいた。
「ど、どうした。何かまずいことでも」
次の瞬間、視界がぶれた。頭を床に強く打ち、目が眩んだ。口が手で塞がれ、まともに喋れなくなった。
「あ、大丈夫だよドラセナ。ちょっと転んだだけだから…」
震える声でそう言うとドロイトは、俺を自分ごと毛布で包んだ。ドラセナに見せないためだろう。
ドロイトの声だけが聞こえる。
「灯葉君」
声も体も尋常では無いほど震えている。
「…?」
「お酒、飲んできたのかな」
俺の脳内は凄まじい勢いで回転していた。どういう意図での質問だ?
「お酒を飲んでいるのか」と質問する。これはつまり、相手が異常な行動を取っているときにする質問だ。
いつも物静かな友人がハイテンションになっているとき、「お酒、入ってるんだろうな」と思うだろう。それだ。俺は今、ドロイトにとってありえないことを口にしたのだ。
であれば答えは一つ。
「ごめん、俺酒飲んできたから…変なこと言ったかも」
こう言うことで、失言を取り消すことができる。少なくとも、受けるダメージは減るだろう…
「あ、そう」
ドロイトは真っ暗闇の中、微動だにせず静止していた。
暫くした後、言葉が漏れた。
「嘘までつくんだ。へぇ…」
「…え?」
「あのさ」
ドロイトは囁いた。
「私、心読めるんだよ?」
毛布の中で沈黙が滞留した。
なるほど。俺は最悪の行為を良かれと思ってしてしまったのだ。
ため息が聞こえた。
「私達、付き合ってるんだよね?」
…え?付き合ってる?
俺とドロイトが付き合ってる…?
そんな関係ではない。
俺達はただ、友達のような…
「なんで」
振り子が揺れる。
「その感情は…?」
あぁ。ドロイトの呼吸が荒くなった。
「待ってくれ、誤解だ」
「誤解も何もないでしょ」
時を刻む音が聞こえた。
「…見えるんだから」
暫く経った。
覆っていた毛布が取り払われ、ドロイトはそっぽを向いて寝転んだ。今はもう、何もできない。というか、少し整理をしたい。
ドロイトが俺に好意を持っているなんて、信じられなかった。
…俺が悪い訳ではないのに。
意趣返しとでも言わんばかりに、俺もそっぽを向いて寝転んだ。
…待てよ。
ドロイトは、俺の置かれた異様な状況を理解していない。というか理解できるわけがない。当事者の俺が理解できていないのだから。
だというのに、こんな行動。傍から見れば…
取り敢えず、落ち着くために毛布を被った。
目が覚めた。
ドロイトは居なかった。ドラセナがソファに座り、ぼうっと秒針を見つめている。
「ドロイトは、どうした」
ドラセナはこちらを向いた。純粋な目だ。
じっと見つめた後、言った。
「お仕事」
心に掛かる重力が倍増した。ヒビは入らずとも、ひしゃげた。
そうだ。この世界には「仕事」があるのだ。
机の上にラップで包まれたおにぎりが冷めていた。ドラセナはそのおにぎりを指さした。
「食べてって、ドロイトが」
…ありがたい。
まだ俺の存在を視野に入れてもらえる。仲直りができるチャンスはあるだろうか?もしかしたらこのまま終わる可能性もあるが。
とにかくこんなことで関係にピリオドを打つのは嫌だった。
おにぎりを手に取り、ラップを解いていく。冷めている。硬い。こりゃ残りご飯だ…
「まあ、作ってもらえるだけ…な」
かじりついて、咳き込んだ。
「しょっぱい…」
米の一粒一粒にしっかりこもった悪意が、歯に挟まった。
その時、ルルル、ルルルと単調な音が部屋に鳴り響いた。
ドラセナは耳を塞いだ。
「…この音嫌い…」
俺は焦って音の出どころを探した。
あった、台所でスマホが震えている。
奇怪な音の正体は着信音だった。スマホを手に取りタップをすると、耳に当てた。声が聞こえる。
「もしもし」
…聞き覚えのある声だ。
「うわ」
「うわ、とはなんですか。せっかく傷心しているところを慰めてあげようと思ったのに」
「余計なお世話だ、ルスバ。やめてくれよ、人のプライベートを遠くから覗くのは。怖いよ」
「まあ、良いじゃないですか。実は提案があってですね」
少し、ためがあった。
「私の家に来ませんか」
「…無理だ」
また少し、ためがあった。
「なんでですか」
心底理解できないとでも言いたげな声色だった。
「まだ信用できないんだ。それになんで俺の電話番号も知ってるんだよ」
「さあ?」
俺は猛烈にこの通話から逃げ出したくなった。
「とにかく…ともかく、俺はもういいよ。それどころじゃないんだ」
「逃しませんからね」
俺はコップを取り出して、冷蔵庫に向かった。
「あのなあ。なんでそんなに俺に執着するんだよ」
「貴方が必要なんですよ」
麦茶を取り出し、コップに注いだ。
「…とにかく、今は無理だ。ドロイトのことで手一杯なんだよ」
じゃあな、と通話を切った。あぁ、最悪だ。やはり異世界の方が過ごしやすい…なんてことはないか。
山賊いるし。
平和さで言ったら断然こちらのほうが…なんて考えていた俺の動きを、インターホンが遮った。
「ん、ドラセナ、何か頼んだか」
ドラセナは首を横に振った。
「なんだ」
玄関に向かい、ドアノブに手を掛けた。
相手を確認せず身を見せつけるのは不用心だが、悪魔だしまあ大丈夫だろうと思った。
開けた瞬間、隙間から腕が差し込まれた。それは、獣の腕だった。
「はっ?待て嘘だろ」
俺は急いで扉を閉めた。しかし今更遅く、差し込まれた腕によって鍵をかけることは不可能となっていた。
「待て!お前ほっ、おかしいって!」
焦りと恐怖が心を塞ぎ、湿った空気がドアの隙間から流れ込んできた。
どうしよう。どうすれば?
「大丈夫ですよ、灯葉さん。別に危害を加えようとは思っていないので」
更に腕がねじ込まれる。扉に擦れて腕が削れ、皮膚がえぐれた。血が滲んだ。
「ま、待て!待ってくれ!俺は悪魔だぞ!?やろうと思えば、お前やれるんだぞ!退けよ!」
しかし腕はねじ込まれてくる。
「悪魔なのは体だけでしょう?貴方は心が人間のままだ」
ガリガリと音を立て、腕はもう肘まで侵入していた。
全体に血が滲む腕の痛々しさに耐えきれず、俺は遂に扉を抑える手を離した。
途端に扉は開けて、その男は部屋に入ってきてしまった。
ルスバは無表情に笑みを貼り付けていた。
「あは、やっと入れてくれましたね。入れたということは、受け入れてくれたということですよね」
「もう、もうまじで意味分かんねえから!ルスバ、帰ってくれよ!」
俺は威嚇するように両手を前に突き出しながら、後ずさりをした。
冷徹な木の壁が俺の逃げ道を塞いでいた。
ドラセナは何事かと玄関に来ていた。警戒する猫のような目つきで睨んでいる。
「大丈夫ですよお嬢さん。傷つけたりは多分しませんから」
そう言うとルスバは、俺の手を掴んだ。
「さあ、行きましょう」
ドラセナの瞳孔が開き、魔波が勢いよく歪んだ。
「ま、待てドラセナ。俺は大丈夫だ」
ドラセナが巻き込まれたらまずいと思い、俺は手を振った。
「もしドロイトが帰ってきたら、伝えておいてくれ。昼頃には多分帰るって!」
「はあ!?」
「帰しません」
ルスバの部屋で、俺は慄然としていた。
「帰さないって、ええ…?困るよそれは」
「リビアを見つけるまでですよ。すぐ終わるでしょう」
「すぐってどんくらいだよ」
「最低一年は…」
俺は首を振った。ありえん。断じてありえん。
「ドロイトと縁が切れる」
ルスバは眉を潜めた。
「なぜそこまで個人に拘るのですか。あの人は貴方がいなくても十分やっていけますよ」
「何いってんだ…」
ルスバは距離を縮めてきた。床に敷かれたカーペットがよれた。
「ドロイトは、もう貴方のことが嫌いですよ。このままのこのこ帰っても別れを告げられるだけです。火を見るより明らかでしょう?理解しようとしたらどうです?」
「いちいち癪に障るな。いいか、俺が聞きたいのはドロイトの言葉だ。第三者のお前の言葉はいらない。別れるにしても、しっかり話して、きっちり別れたいんだ」
ルスバは目を細めた。
「愚かだ」
「言ってろ」
ルスバは笑みを浮かべた。
「まあ、良いでしょう。とにかく私達は」
俺は隙をついて玄関に向かって走り出した。しかしそこは獣人族。驚異的な反射神経と動体視力で俺を捉え、飛びかかってきた。
首根っこを掴まれ、二人共々床にもんどり打った。
「逃さないと言ったでしょう」
胴体を両足で挟まれ、首を腕で締められた。バックチョーク、というやつだろうか。
しかし、俺はニヤリと笑った。
「馬鹿が、俺は悪魔だぜ。対人間用の技なんて」
締める力が急速に強まり、言葉を発せなくなった。苦しい。
…苦しい!?
悪魔なのに…?
「が…ァぎぐ…」
絡まる腕を必死に引っ掻くも、弱まる気配を全く見せない。鋼鉄のような硬さだ。
有刺鉄線も、出せない。
「対悪魔用の道具というものがありましてね…まあ後で見せてあげますよ。気絶した後に、ね」
ルスバは力任せに俺を締め上げる。絶対に締め方が間違ってる、こんなに苦しいわけがない…!!
ルスバは俺の顔をじっと見つめていた。
なんとか抵抗しようと腕を伸ばし、ルスバの顔を押した。
「?なんですか、この手は」
ぬたりと音がして、湿ったカーペットのような手触りが指に伝わった。
まさか、俺の指を舐めて…?
急いで引っ込めようとするも、激痛が人差し指に襲いかかった。
「!!!」
「…」
ルスバは微笑みながら、俺の指を噛み砕いていた。顎が軽く動くたびに、暴力的な調べが脳に響いてくる。
苦しい。
顔は涙と涎で塗れ、もう何も考えられなかった。
もう、意識が
「嘘でしょ」
ドロイトは玄関で立ち尽くしていた。
今、ドラセナから事の詳細を聞いたところだった。
もしかしたら、灯葉君はなにかの事件に巻き込まれて、何かをされたのでは。あぁ、そうだ。そのなにかのせいで灯葉君はあんな理解不能な態度をとったのだ。
ドロイトと灯葉が初めて出会った日、十月十七日。それを忘れるなんて、普通はありえない。ドロイトにとって、それはある日突然重力が消えてしまうのと同じくらいありえないことなのだ。
しかし、「他の人に何かをされて、少し頭がおかしくなってしまった」ということなら説明がつくのだ!
ドロイトは奇妙奇天烈な仮説を立てた。それも曖昧な仮説だ。
実際は、「異世界が」地球に転移し一握りの人物以外は記憶を捻じ曲げられている、というこの仮説よりも殊更に奇妙奇天烈なことが起こっているわけだが。
ドロイトは仮説を立てると、灯葉に取ってしまった態度を申し訳なく思った。
とにかくもう一度会って、真相を確かめなければならない。
「良かった、灯葉君の服に追跡魔法かけておいて…」
ドラセナは驚き、ドロイトを見た。
「追跡…?」
ドラセナは直感的に、今の発言の異常さを感じ取っていた。
ドロイトは自分の口を抑えた。
「…」
無言で壁を見つめた後、ドラセナに視線を移した。
「これも、あの、愛だから…」
ドラセナは暫く考えた。
そして結局、小さく首を傾げた。
愛って、わからない。
都会の人の流れに、一箇所詰まりが現れた。
五、六人の好奇心を持った人々が足を止め、スマホをかざした。
残りの人々はなるべくそれを見ないようにして、歩き去っていった。
一人の人が、うずくまっているのだ。そして、単語をずっと呟いている。
イミカ、イミカ、イミカ、と。
数秒後、花が咲いた。
直径五十メートル程の、血の花であった。
魔力制御装置はあまりの魔波の歪みに耐えきれず、ショートした。
ビルに張り出された広告は真っ赤に染まった。
寒空が覆う都会に、サイレンが響き渡った。