それぞれ
ムージュは靴のズレが気になり、しゃがんで靴紐をするりと滑らかにほどいた。薄い紅色の皮紐を固く結び直し、再度歩き始めた。シェブナの街は少し日が落ちて、空気は倦怠感を含んでいた。しかしそれでも風は快活だった。ローブを涼しく揺らした。
今日はムージュにとって久しぶりの休暇。この先を行った曲がり角辺りで、ある人と待ち合わせをしているのだ。
「…待ちましたよ先輩」
ザクロが遠くから走って来るのを、ムージュは鋭い目で睨んだ。
「本当にすまなかった、決して準備をしていなかったという訳では無く、忘れ物をして家に取りに帰ってただけで…」
「遅れた事は事実でしょう、ほら行きますよ」
歩きながら、ザクロは不安気な表情でムージュの横顔を見ていた。
「…もういいですってば。その代わり、借りとして何倍にもして返してもらいますからね」
言われて、ザクロの顔は決意に固まった。
「…もちろんだ…!」
遅れたくせに、やけに気合が入っている。
その後しばらく歩いて街を見て回った。だが見ただけだ。
正直、二人にはデートなんてどうすれば良いか全く分からなかった。
道端には小さい花がいくつも咲いて、揺れている。ザクロが思いついたように、ムージュに提案した。
「なぁ、手でも繋がないか…?」
一瞬ドクンと心臓が跳ねた。しかし直ぐに気を取り直して、ムージュは頷いた。
「…いいですね、そうしましょう。デートっぽいですもんね」
手と手がぎこちなく触れ合って、指と指とが絡み合った。その動作があまりにも愛情的で、ムージュは大きすぎる嬉と驚きの感情をひた隠すのに精一杯だった。
手を繋いだ瞬間、ザクロは眉を潜めた。
「ム、ムージュお前大丈夫か…?」
「なにがですか…!」
「凄い手汗だぞ」
ムージュは半ば反射的に手を振り払った。恥ずかしくてたまらなかった。
「…だ、大丈夫です!早く行きましょう」
衣服で手汗を拭いて、手を繋ぎ直して、二人はまた歩き始めた。
滑稽な二人の姿を花々は笑いあった。
「良くなっているのでしょうか」
ジレカクドポカの世界、孤独な世界に灯葉とルスバはいた。藍色の椅子に腰掛けて、ルスバは灯葉にそう言った。表情はどこか不安気で暗かった。
灯葉は少し間を開けて言った。
「良くなってるさ。少なくとも、地球は壊滅なんてしてないだろ」
灯葉がそう言った後、ルスバは隣を見た。
そこにはジレカクドポカが浮遊していた。まるで無機物のように、感情も感じられず、ただただ浮遊しているだけのように見えた。
「…ジレカクドポカは心を捨てました。私には何も言わず、ただ一人で」
ジレカクドポカは浮いている。
灯葉は複雑な感情をどうにもできずうつむいた。何も言わなかった。言えなかった。当事者でない限り、無闇に何かを言うのは良くないと思った。
「…まぁ彼は失敗しましたから。そもそも神に心なんて不要なのです、当然の罪滅ぼしをしたまでですよ」
ルスバは言った。
「そもそも初めからこうあるべきだったんです、彼は幸せにするべき数多の生物達から喜びを奪って、神としての役目すら果たせないまま彼は逃げたのです、ほんの少しの倫理観すら持ち合わせていない彼は真の平和なんて分からずに闇雲に好き勝手やって、挙句の果てにこのざまですよ!」
いつの間にか立ち上がっていたルスバを、灯葉は呆然と見上げていた。
ルスバは無表情のまま灯葉に尋ねた。
「…どう見えますか、今の私が」
「自暴自棄に見える」
「…それで?」
「もう少し自分をいたわったほうが良い。自暴自棄は今は楽かもしれないけれど、だいたい後から辛くなる。再起も遅くなるだろうし…」
「…」
ルスバは椅子に座った。
右手で両目を抑え、力の限り嗚咽を抑えていた。ルスバのそんな姿を見るのが辛くて、灯葉は目をそらした。
…しばらく経った。
ルスバは顔を上げた。灯葉はルスバの目を見ることができなかった。赤く染まった目を見たくなかった。
「…取り乱しました。すみませんでした…」
「大丈夫だ、カウンセリングには慣れてるから」
ルスバは力無く首を傾げた。
「どういうことですか」
「ドロイトのことだよ。最近付き合わされるんだ、色んな人の心を見て回る旅にね」
「悪趣味な旅ですね」
「…調子が戻ってきたじゃないか。まぁその通りかもしれないが…」
ふと気がついて、灯葉は言った。
「おや、どうしたんだその紙の束」
灯葉はルスバの後方を指差していた。ルスバがそれを見ると、少しだけ表情を和らげた。
「あぁ…前に見せませんでしたっけ。小説を書いているのですよ、この世界を題材にね」
灯葉は頷いた。
「確か、『君は悪魔の成り損ない』とかいうやつだっけか」
「そうです。より良い世界にしようと思って書き始めた、日記のようなものですがね。すっかり生活に馴染んでしまって、今は続編的なものも書いているのですよ」
ルスバが紙の束を持ってきた。読み終えるにはなかなか時間のかかりそうなものだった。
「ジレカクドポカもいつか本当の意味で役目を終えるときが来ます。万物は例外なく全て終わるのです。その時、ジレカクドポカに心が戻ってくると信じています。せめて最期にこの小説を見てもらいたいのです」
おそらく、紙の束はこれからもどんどん分厚くなって行くのだろうと灯葉は思った。
日光がよく通る日。こんなに天気も良いと、風も踊っているように感じられた。
実際、ドラセナは踊っていた。踊っていたというよりも弾んでいた。今夜何よりも楽しみなことがあって、それを誰よりも待ち望んでいた。街に入って、弾みは落ち着いた。流石に人前でぴょんぴょん跳ねるのは恥ずかしかった。
「おや、ドラセナさん。どうしたんですその果物は」
城の前を通りかかったドラセナにケデロが話しかけた。ドラセナの背中にメリーは無い。
その代わりに、バスケットいっぱいの林檎を携えて、ドラセナは微笑みながら応えた。
「今夜、お母様がアップルパイを作るのです。なんでも外国の料理らしく、それを少しでも手伝おうと、林檎を取ってきたのです」
「ほぉ、アップルパイか。食べたことがあるぞ。それはもう」
あっ、とドラセナはケデロを遮った。ケデロは驚いた顔をした。
「す、すみません。どんな味がするのかは、楽しみにしておきたいので」
ケデロはそれを聞いて、思わず笑ってしまった。
「そうか…それは良いことだ。林檎を落とさないように帰りなさい」
ドラセナは頷いて、歩き去っていった。その後ろ姿を見ながらケデロは人を守ることの重みを噛み締めていた。
しばらく歩いて街の外れ、煙突からゆっくりと煙を吐き出す家があった。よく手入れのされた庭の植物は水を浴びて光っていた。
誰よりも大切な人がそこにいた。
「…お母様」
叫んでドラセナは駆け寄った。母親は気付き、顔をほころばせた。
「まぁ、良い林檎を取ってきたわね。素材が良いと、私の腕も鳴るわ!」
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
灯葉は立ち上がった。それに合わせてルスバも立ち上がった。
「また用があったらここに連れてきますからね」
「問答無用でかよ。まぁいいさ、暇だし」
灯葉の視界はゆっくりと明るくなっていった。
「あ、そういえば、続編のタイトル。なんていうんだ」
「あぁ、それは…」
光が強まる…
声が確かに聞こえる…
そよぐサザンカは葉を伸ばす……?
いい題名だ…
「イミカさん、貴女は実に素晴らしい。この応用魔法を一体どうやって思いついたのです」
魔術学校の教授は、紙に書かれた魔術の内容を見て感嘆していた。イミカは得意げに笑みを浮かべ、教授を見つめた。
「何、大したことではない…そういう思考回路を身に着けていれば、思いつくものだ。大切なのは基本から疑うことだろうな」
しばらく談笑を続けた後、教授は立ち上がり、イミカの家から去っていった。もう夜だった。
パタリとドアが閉まったのを確認し、イミカは表情を一気に明るくした。
「…リビア様。邪魔者は去りましたよ」
そう言うと二階の方からパタパタと足音が聞こえ、足音は階段を下り、そして扉を開いた。
出てきたのは、藍色の荒れた長髪を垂らしたリビアだった。リビアは暗い目で開口一番イミカに言った。
「…ここに座れ」
イミカは小走りで駆け寄り、椅子に座った。
「…何をしているのかな…?」
「…?命令通りに座りました」
鋭い破裂音が鳴って、イミカは頬をぶたれた。イミカは理解出来ていない表情で頬を抑えながら、ぽかんとリビアを見つめた。
「ここに座れと言っているんだ…その耳は飾りか?」
リビアはトントンと爪先で床を軽く蹴った。
これから何が起こるのかをなんとなく予想してしまったイミカは、絶望の表情を浮かべながら床に震えて正座した。
「…良かったなぁ、イミカ。私の創った応用魔法で評価をされて。嬉しいだろう?」
手を後ろに組み、イミカの周りを歩きながら責め始めた。
「で、でも。私だって手伝いました」
「…何をかな?」
「…環境づくり…」
リビアの右足がイミカの腹を突き刺した。イミカは衝撃に耐えられず、口から唾液を漏らして咳き込み、うめきながらうずくまった。
リビアはしゃがんだ。
「…別に、君がいくら評価を貰おうが構わないよ。私は魔力を扱う才能が無い。しかし君はある。私が魔術を創作して君がそれを使いこなす。素晴らしい役割分担だね。君はよくやってくれている、偉いよ」
そう言いながらリビアはイミカの髪を鷲掴みにして、無理矢理視線を合わせた。
「…でもね。君、あの教授から高評価を得ようとしているだろう。『大切なのは基本から疑うことだ』…?よく言えたものだ、基本の事しかできない能無しが」
リビアは闇を帯びた瞳でイミカの目の瞳孔を観察していた。イミカの目は潤んでいた。
「他人から高評価を得ようだなんて許せない、言語道断だ。少しでも考えればわかるはずだろう、君は私のものなのだから…他人から幸せを得ようだなんて…私は、私は君からしか幸せを得られないのだぞ!!」
髪を掴んだままイミカを後方に押し倒し、リビアは馬乗りになった。肺が圧迫されて息がしづらかった。リビアは獣のような呼吸をしていた。
「イミカ、君だけ得をしている。それが許せない。つまりだ。私は見返りが欲しい」
「…!」
「言いたいことはわかるだろう、イミカ…」
イミカはこれ以上の喜びを知らなかった。それはリビアも同様だった。
そういえば、イミカとリビアはどうしているだろうか。幸せにやっているだろうか。会いたくないけど。
ジレカクドポカのところから帰って来て、椅子に腰掛けながら、灯葉はのんきにそう考えた。
後ろの方から声が聞こえた。
「灯葉君、もう準備できてる?」
「できてるけど…もう行くのか」
ドロイトは結局、君呼びで定着していた。そのほうが落ち着くしそれで良かった。
「そうだよ。君は助手なんだから、私に合わせるのが役目だよ」
一人称も変わらない。一体何か変わっただろうか。
「だって、夜だぞ?」
「夜だから良いんでしょ、ほら行くよ」
車は一定のスピードで夜の道を走る。街灯が夜の闇に溶けて消えてゆく。ドロイトは丁寧な運転で突っ切っていく。
「これでこのまま空港行って、そのままフルセル行きか。どうも疲れるな」
「まぁまぁ…おすすめの観光スポットあるし、そこ見せてあげるよ」
「そうか」
カーナビが右に曲がれと指示した。
「寒いね、灯葉君」
「…温めようか」
ドロイトは思わず飛び上がり、その後にやついた。
「が、柄にもないこと言わないでよ」
「…お前とは本当に『そういう』関係が築けそうにないな。恋愛というかなんというか」
「私だって築きたいよ。でもまだまだ時間がかかりそうだね、助手君」
「…本当に鬱陶しいなお前」
ドロイトはその言葉に笑いながら、『そういう』感情が自分の中に生まれつつあることに気がついていた。
ルスバは久しぶりに下界に降りた。
風が冷たい、日本の冬の近付きを実感する。
ルスバはスマートフォンを開き、マップを開く。待ち合わせの公園は直ぐ側にあった。小走りでそこに向かった。
「…あ」
いた。
「あっ、いたいた、こっちだぞルスバ!」
「…言われなくともわかりますよ」
ルスバはカウレに駆け寄った。カウレは滑り台に腰掛けていた。
「なんでこんな夜にしたのですか、見えづらい」
「人混みが苦手なんだ、まぁ許してくれ」
固まった心がほぐれていくのを感じる。
「日本は初めてなんだ。アフリカは行ったことあるけどな…あそこはなんとなく香りが良いから、嫌いじゃないな」
「日本はとても良いところですよ、極上のネットリテラシーと夢のような美食と目を剥くような超絶労働で出来たユートピアです!」
「…よくわからないが、いきいきしてるな。私が来ない間他人と話してなかったんじゃないか?」
「そうかもしれません、ほら行きましょう」
わかりやすく落ち着いていないルスバに苦笑を漏らしながら、カウレは立ち上がった。
空港についた灯葉とドロイトは荷物をまとめ、歩いていた。
「眠気が覚めるほどの寒さだ、酷いなこれは」
「本当に…もう冬だねぇ」
息を吐き出せば白くなりそうな程、空気は冷えている。ふと、ドロイトが心配そうに灯葉に言った。
「あのさ…嫌だったら、無理しなくていいからね」
「…そうか」
灯葉は無表情で鼻を擦った。
「心が読めなくなったのか?」
「…最近は見てない、正直不安なんだよ。心を覗いて、暗い感情を見たら、ちょっとショックだから…」
「そんなことにはならないさ、試しに覗いてみろよ」
「…」
ドロイトの瞳が少し潤んだ。
「ドロイト、俺はむしろありがたいくらいなんだ。色んな経験ができるからな…経験が積まれれば積まれるほど、人生の不明瞭さが消えていくような気がする」
「…ありがとう…で、いつまで一緒にいてくれるの」
いきなりの質問に灯葉は少し驚いた。なんとなくドロイトらしくないというか、少し緊張するような言葉だった。
「…ここまで来たんだ。死ぬまで付き合うよ」
ドロイトは無言で顔をほころばせ、頷いた。
「行こっか」
二人はしっかりとした足取りで、飛行機に乗り込んでいった。
空は全くの闇だった。しかし、確実に晴れていた。
完