日常の再来
レースカーテン越しの薄い日光とハーブの香りで目が覚めた。幾つか瞬いて、ぼやける視界を明瞭にした。どうも昨日買った芳香剤が強すぎる。
水を飲むために立ち上がるといきなり机の上のスマホが震えた。何事かと思って素早くそれを手に取ると、兄からの電話だった。
「もしもし」
いつも通りの声だ。俺は返した。
「どうしたの、こんな朝に」
いつも通りの声は続く。
「お前今度海外旅行に行くんだろう。しかもだいぶ長い間」
「まぁ」
「そうか。楽しんでこいよ」
その後数秒ほどの沈黙が続いた。俺は眉をひそめて言った。
「…言いたいことはもしかしてそれだけか?」
「それだけだからこそ、良いんだろう」
じゃあな、という相手の言葉で電話は切れた。俺が寝ぼけていたのかそれとも兄がぼけているのか、よくわからない会話だった。
結局、未来はまぁまぁ変わった。兄は今のところ自殺という選択を考えていないし、両親もいつも通りを送っている。
ただ正直なところ疲れた。
運命というのは思った以上に手強い。奴は牙を剥いて幾度も兄を傷つけにかかったし、そのままの勢いで俺の未来ごと一突きにしようとしてきた。危ない、という局面が数えきれない程あった。しかし俺はなんとか、もうあんな光景を見たくないという執念でここまで来れた。この平和な現状を手にした。
そんな現状がトランプタワーみたく一気に崩壊するのではないかという恐れで、脳はパンクしそうになっていた。
俺はリュックを開いて本日5度目の荷物確認をした。この旅行は俺にとって重要なものだから。
抑えられない心臓の鼓動をそのままにして俺は玄関に立った。自宅であるマンションの一室を背にして俺は足早に空港へ向かった。
小雨が降っている。冬の小雨は寒かった。
この魔法のない世界では交通が不便だ。田舎だと尚更だ。この電車に乗って、空港まであと2時間かかる。ただ、それで良いと思った。心の準備が必要だ。時間はなるべくあったほうが良い。
俺という人間は一体何なのだろうか。
俺の心は今までの人生を振り返っていた。
なんだか、いつも誰かに利用されているような気がする。特に酷かったのはフルセルに居たときだ。利用されなかった日など無かったのではないだろうか。
俺にとってフルセルは負の存在であるはずだ。しかし、俺の心はあの場所を求めている。本当によくわからない。
あそこでの日常は濃かった。濃い分、悲しむことも確かに多かった。非日常そのものがあそこにはあった。
では、俺の心は非日常を求めているのだろうか。いや違うはずだ。我々は他者とのコミュニケーションによって自分の形を確認することができる。それは他者が自分と異なる存在だからだ。
自分と異なる他者に触れることで、誰より強く自分を感じる。
それと同じで俺は、日常と異なる非日常の世界に触れることで、何より強く日常のありがたみを感じていたのだろうか。
頭がこんがらがってきて、思考は停止した。そこで丁度、乗り換える駅についた。
「ついた…!」
その声は直ぐに人混みにかき消された。あまりに人が多い空港内では、俺はただただもみくちゃにされていた。ポーン、ポーンという小気味良い機械音が時々響いている。
なんやかんやあってようやく飛行機の席に座った。あまりにも疲れた。なんというか、生気を吸われた。
ぱらりと地図を開いた。目的地は探すまでもなく、地図上で目立っている。
太平洋の真ん中に大陸があり、その下に小さく名前がついている。
『フルセル』
飛行機は今、フライトした。
空港から出て、まずは地図を受け取った。なんとなく覚えている、あいつとの会話…確かシェブナ街?という街で商売をしていた。らしい。シェブナのこともなんとなく覚えている。商店街があって過ごしやすい場所だ。
どこか異なる空気を纏った風が吹いた。辺りには山やら川やらの自然がぼんやり見えるだけだ。
列車が通っていると聞いたので駅らしきものが見える方に向かうことにした。
しばらく歩いて出迎えてくれたのは、赤レンガでできた、なんとも異国情緒あふれる駅だった。実際に異国ではあるが。
切符を買うために、その駅へと進んでいった。
駅に近づくごとにゆっくりと空気が変わっていく。
フルセルは、どうなろうと異世界なのだと思った。
シェブナ街にはやはり活気があった。
こんなところに来る外国人は相当少ないらしく、今着ている服では浮いてしまっていた。そこで軽めの服を買うことにした。
十字路状に交差する道の側面を取り囲むように店は並んでいる。そこに服屋らしきものを見つけた。布がずらりと並んでいる。
店番は少年がしていた。
「じゃあこの、黒い服で」
フルセルの服はシンプルで、一色の色を下地に、その上から糸で細い模様がつけられている。伝統なのか、それともこだわりがないのだろうか。前者だと思うが。
震える思いを胸にひた隠すように、服を羽織った。
……。
違和感のないことを祈った。
「あ、ちょっとそこの人!もしかして観光客の方ですか」
「…はい、そうです」
声をかけられた。上半身は着替えたが、下のジーンズは着替えてないのでバレたらしい。
「僕は少し変わった特技を生業としているのですがね、ちょっと見ていきませんか?」
今にも弾けそうな心を必死に押さえつけた。
「へぇ、気になりますね」
「そうでしょう?実はですね、僕は心を読むことができるのですよ」
そう話す顔は誇らしげだった。
俺の心を読むことができるのだろうか。果たして読めたとして、この心を理解することができるのだろうか。あまりにも不安定で、今にも消えそうになって、しかしそれは力強くそこにあった。相反する物同士を、俺は今抱えている。自分でもこの心が何なのかわからない。
心を読むことができると言ったばかりの目の前の人間は、首を傾げた。
「なんだろう、これ…」
その瞬間俺の脳にある考えが浮いた。
人間は、理解できないものを恐れる…例えば、ジレカクドポカを恐れる。
恐れられる者は必ず孤独に陥る。人が寄り付かないからだ。
俺は不安に潰された目で、目の前の人間を、ドロイトを見た。ドロイトは俺を恐れるだろうか。
「…なんなんだろう…ねぇ、ちょっとお時間ありますか」
「…ありますが」
「ちょっとお話していきませんか。大丈夫ですよ、安い店を選びますから」
あまりの呆気なさに思わず顔から力が抜けた。
「…どれくらいくらいかかりますか」
「それは…40分くらいでしょうね。決して食事目的ではなく、貴方の心がちょっと興味深い感じなので、調べさせてもらうだけです。お金の心配はしなくて大丈夫ですよ、安い店を選びますから」
「どんな店に行くんですか」
「行きつけのお店です、きっと貴方の舌にも合うと思いますよ!おすすめメニューはイリビラの混ぜ炒めです」
「食べ終えるのにどれくらいかかりますか」
「それは40分くらいでしょうね。僕は食べるの、遅い方なので」
「……」
感情がかき乱されて吐きそうになった。
とりあえず今は、密かに喜ぶのが最善だ。そして、隣りにいるかつての同居人に食事代をぼったくられるのが最善だ。