何一つ失わず
絨毯は今、大地を背に浮上した。
イミカは肌で空気が変わっていくのを感じながらゆっくりとその場に座り込み、見えない景色に思いを馳せた。絨毯はごわごわとした手触りで、どこかぬくもりを感じた。
「灯葉君、星は綺麗かな」
灯葉は空を見上げた。
「綺麗だ。あの時見た空と同じだ」
「…あの時?」
「イミカの家の風呂に入ったことがあっただろう。あの、外にある風呂…あの時見た景色に似ている」
地上は遠ざかって行く。砂混じりの風は洗われて、純真さに満ちた柔らかな空気を二人だけに吹き付けた。まだ星は綺麗だった。
灯葉は心の底に何か震えているものがあることに気がついた。
なんのけなしにぼやいた。
「…なんでこんなことになったんだ」
「流れるままに、成るべきものになっただけさ」
「他に道は無かったのか」
「あっただろうね。でも我々には、この道しか無かった。きっとそうだよ」
灯葉は星空から目を逸らし、俯いた。地上は砂風に隠れてもう見えなかった。
小さな爆発音が空っぽの夜空に響いた。
「そんなこと言っていても、本当は望んでいるんだろ?」
「…何をだ」
「ハッピーエンドだよ」
イミカは顔を夜空に向けながらふと笑った。その視線の先には虚無そのものがあった。
「また綺麗事か。君は能天気だな」
「…語るだけなら良いだろ」
「どうぞ、幾らでも語っておくれ」
緩やかな時の流れの中、確実にあの星に近づいていく。空気の震えに微かな生命の律動を感じる。
灯葉はこの後起こることに対する思考を拒みながら、無理矢理喋り始めた。
「人間には夢があるはずだろ。夢というか、こうなって欲しいっていう欲望、ささやかな願い事が。俺、少し前までは叶ってたんだよ。何気ない日常をいつも通りに過ごして、それで良かった。でも、最近はめっきりなんだ。願いが全く叶わなくなった。平凡な日常を送りたいっていう願いだ」
「まぁ、たまにはそんなこともあるだろう」
「そうかもな、でも、俺には耐えることができなかった。フルセルじゃ争いを実際目の当たりにしたし、それが終わったと思ったら今度はこんな奇天烈な世界に飛ばされた。平均年齢も異常に低い、人間にとっては焦燥しきった世界だ」
「災難だな」
「わかるか、イミカ。飛ばされたんだ。飛ば『された』んだよ俺達は。この世界には、神がいるんだ。どんなことだって可能にして見せる、全知全能が存在するんだ」
「…何が言いたいのかな」
灯葉は語気を強めて言った。
「だいたいの人間は、少しくらいは世界の平和を望んでいるはずだろ。もしくは個人の安寧だ。どんな人間の夢だって、突き詰めて行けば個人個人の安寧に繋がるんだ。人類全員の願いが叶えば、それは世界の安寧になるんだ。…そりゃわかってるさ、殺人鬼と一般人の願いは両立しないよ。つまり人類全員の願いが叶うなんて不可能だってな。ただ、この世界にはいるんだ。不可能なんざ絵空事だと思ってるやつがいるんだよ!そしてそいつは素晴らしいことに、世界の平和を願っているんだ!」
イミカは眉一つ動かさなかった。その姿に、灯葉は焦りを感じた。
「今なら間に合う、イミカ、変えられる。神に頼もう。俗に言う神頼みなんかよりもっと実質的だ。絶対なんだ」
イミカは静謐に立ち上がり、星空を纏って全身で風を味わった。もう、星まであと少しの距離に近づいていた。
絨毯はスピードを緩めている。
「…灯葉君。私にだって、願いがある」
灯葉は胸が引き攣るような感覚を覚えた。次に放たれるセリフが予想されたからだ。
「私はね、リビア様と共に死にたいんだ。それが私の願いだ」
それだけで灯葉は口を開くことができなくなった。出てくるとしたら言葉ではなく、叫びのような何かだったろう。
「…リビア様は、二人だけの世界を望んでいた。私だってそうだ。しかし、そこには食い違いがあった。リビア様は全人類を消し去ることによって二人だけの世界を創ろうとしていたのだ」
灯葉はようやく口を開いた。
「…お前は、それが嫌だったんだな」
「…そうだったのかもな。私は、出来る限り迷惑をかけたくなかったんだ。…私達以外にも人と人との繋がりはあるだろうから。それらを断ち切りたくなかったんだ…それに…」
イミカは儚く微笑んだ。
「その繋がりは美しいものだと、知ってしまったからな…」
しばらくの間、沈黙が空間を埋め尽くしていた。
空気は冷えて、星はもう、直ぐ側にあった。一つ一つのクレーターやその陰影すら鮮明に見える。無害な星々は何度も瞬いて、その時をただ待っている。
イミカはまた語りかけた。
「これが最後になるだろうな」
「…」
「…なぁ、最後ぐらいは、明るく行こうじゃないか」
「…あぁ…」
灯葉は掠れた声で言って、立ち上がった。星々の息吹を感じながら灯葉は呟いた。
「…少し、悔しいな」
イミカは首を少し傾けた。
「悔しい?」
灯葉は頷いた。
「お前達にとって、俺達はどこまでも第三者でしかないってことがだ」
イミカはそれを聞いて、ほころんだ。
「ありがとう」
「…褒めてねえよ…」
泣くな、と朗らかに言って、イミカは右腕を差し出した。困惑する灯葉にイミカは言った。
「エスコートしてくれないか」
灯葉はワルツのように静かに腕を取って、星のある方向にイミカを向けた。ありがとうとイミカの声が聞こえた。
イミカは懐から布袋を取り出し、ふと、灯葉に顔を向けた。
「最期になるんだが」
「…。どうした」
「あの世は、存在するだろうか」
少しだけ間が空いた。灯葉は無理矢理笑って、言った。
「俺は、信じてるよ」
イミカは頷き黄金の鱗粉をばらまいた。それだけで、この星は発光を始めた。
灯葉は命というものの呆気なさに、ただ歯を食いしばった。
…灯葉の手が何かに触れた。