コア
「灯葉さん、早く行きましょう」
「何処に」
灯葉は真っ黒い床に未練でもあるかのようにへばりつく触手を剥がし、額を上げた。ルスバは異形と化した灯葉の身体を抱えるために両手で皮膚に触れた。腐った肉の色をした皮膚は触れると歪み、ブヨブヨと垂れ下がるそれは厚めの絨毯のようで、精神を逆撫でる劇物のようだった。ルスバは顔をしかめた。
「もう、気持ち悪いな」
「お前は本当に何かしらが欠如してるな」
「気遣わないことも気遣いの内の一つですよ」
ルスバは灯葉を背負い、目を閉じた。
「外界へ戻るのですよ。やり残したことがあるのです」
「もう俺には関係ないだろう。この世界は明らかに俺の存在を拒んでいる。俺はその望み通りに動きたいよ」
しかしルスバは首を横に振った。
「貴方にしかできないことですよ」
時空がねじ曲がって、二人の姿は消えた。
ガーネットは司令室にて電波信号を細かく飛ばした。外界ではこの混乱を嘲笑うかのように、更に異変が起こっていた。
「星が落ちてくるまであとどれくらいだ」
「11時間24分」
「ずらすことすらできないじゃないか!」
「策はまだある、可能性はあるはずだ」
魔波を発するあの星が何故か軌道を急に変え、敵意を剥き出しにして地球に墜落せんとしているのだ。徐々に徐々に加速していき、予想されるそれは墜落というよりも衝突で、それも衝突とは名ばかりの一方的な破壊だった。
「あの星が近づけば近づくほどに魔波の強さは高まっている。それを利用して全勢力で防護魔法を張れば、もしかしたら…」
「防護壁を張って、そうしたらその後はどうするのだ。今まで均衡を保っていた重力が星の移動によって崩れ、我等が住むこの星も、軌道を外れて飛んでいってしまう。どっちみち待っているのは破滅だ」
「我々に残された時間は、11時間だ。それまでに決めなければならない。いや、もはや11時間も猶予などありはしない。未来を変えることができるのは今の内だ。恐らくそれは3時間ほど…」
会議室は混沌を極めた状態に化していた。あまりにも唐突な終わりの時に、誰もが狼狽えていた。地球という何十億年もの歴史が、こんな一瞬で、主要な部分を手違いで抜かれてしまったジェンガのように崩れてしまうということを誰もが信じられずにいた。
その時、若い軍人の声が響いた。
「来客です」
こんな時に一体誰だと博士は立ち上がり、言った。
「要件は一体なんだね」
「とにかく話をしたい、世界の存亡に関わる大事な話だ、と申しております」
博士は眉を潜め、しかし藁にも縋る思いで、それを了承した。
若い軍人が呼び寄せるために向こうへ行ってしまうと、情報総括担当隊長が老博士を咎めた。
「よろしいのでしょうか、信憑性にどうも欠けていますよ」
「やれることは全てやっておきたいのだ。それに話を聞かねばわからない。とにかく計算を進めてくれ、出来る限りのことを私はしたいのだ、この星のために…」
コンピューターは幾つものファンを回しに回し、フル稼働状態を延々と保ったままでいた。
「なぁ、君達は、『外国』についての記憶はあるか?海に隔たれた、異なる文化と言語を扱う何千万人もの集団のことなのだが」
博士はふと、全員に聞いた。何人かのものは首を傾げ、何人かのものは首を神妙に縦に振った。
「そのことなんですが、実は私には二つの記憶が混在しているのです。この世界の記憶と、もう一つ、もう一つの地球の記憶です。そのもう一つの地球には、魔法などという存在もあの星も存在しませんでした。魔法は、空想のものとして扱われていました。外国という概念は、その世界のものしか知りません」
「んん、私も全く同じだ。人生はどちらも似たような日常を送っているが、環境が全く持って異なるのだ」
「そのことなのですが…」
ガーネットが呟いた。
「私も二つの世界を知っています。一つは今私達がいるこの世界です。しかしもう一つは、貴方達の知る世界とは異なるようなのです。そこにはフルセルという名前がついていました。フルセルには魔法も、あの星も存在しているのです。外国というものも海というものも存じ上げませんが、幾つかの国に別れていました」
「そうか…やはりこの世界に外国というものは無いのだろうか」
その時、一人の女が現れた。
軍人に手を引かれ、その目には乳白色の包帯が巻かれている。一目見て、ガーネットは立ち上がった。
「炎の魔女…!」
博士も立ち上がった。
「君、彼女を知っているのか」
「私の知っているもう一つの世界フルセルでは名の立った魔法使いでした」
イミカは立ち止まり、柔和な微笑みを浮かべて言った。
「私は方法を知っています」
「…現時点で、私は貴女をまだ信用していない。だが、その方法を聞かせてもらいたい。望みは少しでも多い方が良いからだ」
イミカは頷き、話し始めた。その顔は誇らしげで、夢を語る子供のように無垢だった。
悪魔の使用する魔法には、不滅増幅という特異な反応が見られる。魔法は魔波を歪ませることによって生まれる産物で、通常魔法を使った後には歪みはもとに戻るのだが、悪魔の場合は異なる。歪んだ後に、魔波は揺れ続けるのだ。それは何故かというと、共鳴しているからだ。魔波はあの巨大な星、今正に地球に近づいているあの星から生まれる。それと同様に、悪魔の祖先はあの星にて生まれたのだ。祖先は生き残るために何が必要なのかを考え、概念として増え続けることを考えついた。そしてそのイメージを実現することができるだけの力を悪魔は持っていた。心、もしくは身体が傷つけば悪魔と成る。そんな負の連鎖を悪魔は創ってしまったのだ。そしてその連鎖は、魔波の影響下の元のみで起こる。不完全な悪魔はこうして増え続けて行った。しかしある時、不完全な悪魔同士が愛し合い、子供を産んだ。それは悪魔にとって完全体で、何一つ欠点のない最高の生物だった。彼女は生きていく途中で愛を覚えるとそれに固執していった。彼女は生物として最上級に位置しており、何一つ他人に劣らない完璧な生き物だった。しかし、そんな生き物にとっても寂しさというものは耐えきれないものなのだ。彼女は初めて孤独に寄り添ってくれた人間に執着するようになった。
「今暴れている何か…あれは、悪魔です。見ることはできませんが、確信しています。悪魔には総じてコアがありそれが弱点ですが、あの悪魔はコアを持っていません。コアが完全に無いと言うことではなく、ここには無い、ということです。では何処にあるのかと言えば」
イミカは見えない空を仰いだ。
「今、星が近づいてきているのでしょう?それがコアです」
博士は聞くと目を見開き、首を振った。
「ありえん、どういうことだ」
「最初に話した通り、悪魔はあの星にて生を授かりました。あの星に何があるのかというと、巨大な力の源なのです。そこからは絶え間なく魔波が放出されています。悪魔は魔波の影響下のもとのみで産まれると言ったでしょう。悪魔は、魔波無しには生きることができないのです。だから、魔波の源から断ち切ってしまえば良いのです。あの星は、全ての悪魔にとっての心臓なのです」
灯葉を背負ったルスバが、歩みを止めた。
「イミカさん、何処へ行くのですか」
その声を聞いて、イミカは歩みを止めた。
「私はこれからあの星に向かう。国の援護を受けながらね。そちらは何者かな」
「申し上げるほどの者でもありません、そんな時間もないでしょう。お願いがあるのですが、一人の人を連れて行ってくれませんか」
「人?」
「はい、そうです。貴女もきっとご存知ですよ」
そう言って、ルスバは灯葉を絨毯の上に下ろした。
「それでは、失礼します」
そう言ってルスバは去っていった。
「…なんだよ、これ…」
その声を聞いて、イミカは口を半開きにした。
「もしや…灯葉君?君なのか?」
「…そうだ」
それを聞くと、イミカはにこやかに笑った。
「それは丁度いい!生き証人が必要だったんだ」
灯葉は訝しげに項垂れた。
「生き証人?一体なんのことだ」
「私とリビア様の、永遠の始まりを見ていてほしいんだ」
また一つ爆発が起こった。遠くに暴れる大蜘蛛を見て、灯葉は思わず苦笑を漏らした。