ルスバ
「そんなバカな」
ありえない。日本?フルセルは?
でも、でもここは日本だ。空気でわかる。五感が反応し、神経の隅から隅までが喜んでいる。
ドロイトは鞄から鍵を取り出した。
「取り敢えず、家に入ろうよ。寒いし」
「速報です。先程環境省は、ラウクローブの大量発生に意見を述べました。ラウクローブによる被害は、ここ数年急激に増加しており…」
「大変だね」
お茶を啜るドラセナの真横でドロイトが呟いた。ムージュは分かれて、何処かに行ってしまった。家が違うらしい。
…テレビがある。テレビ自体は地球で見慣れたものだが、問題は放送されている内容だ。
「ラウクローブってなんだ」
「外来種の植物だよ。もとは南アメリカ辺りで生息していたんだけど、それが日本に来ちゃったんだって。とにかく大きい花で、そこにあるだけで周囲の魔波が歪んじゃう危ない花なんだ」
ドロイトがドラセナの髪を撫でながら言った。
「ありがとう…詳しいんだな」
ドロイトは嬉しそうに微笑んだ。
「常識だよ」
ちょっと歩いてくる、と言って外に飛び出た。
ここらへんは、どうやら田舎のようだ。畑がある時点で、少なくとも都会ではないことは確かだ。
俺は掌から有刺鉄線を伸ばそうとした。しかしふと、やめた。
「…使っていいのかな」
異世界では何も考えずに魔術を乱用していたのに、この日本?のような世界に来た瞬間、怖気づいてしまう。
非日常の夢の世界では理性を外して好き勝手するのに、現実に目覚めた瞬間夢での行為を恥ずかしく思う。それに似ているような気がする。
まあ常識があるということだ、しょうがない。
ここはもう、俺の知っている日本ではないのだ。そう考えて自分を奮い立たせた。
ここも、異世界じゃないか。
非日常を、掌から思いっきり伸ばした。
電気器具を扱う店の屋上に有刺鉄線を引っ掛け、縮めた。
足が地面から離れ、俺は飛んだ。
異世界でさんざやったはずのこの行為が、ここではなんだか新しい。
畑を取り巻く自然の香りが俺を包んだ。
頭に染みつく暗いピアノを振り払うように、俺は笑った。
店の屋上に降り立つ。すると、周りがよく見える。
これはまあ、想像以上の田舎だ!
道路に沿うように、畑、畑、時々店。少し大きめの公園らしきものも見える。どうやら人も多いようだ。行ってみよう。
俺は飛び立った。
「寒い…」
腕をさすりながら歩いていると、公園についた。
沢山の遊具が並び、辺りは子連れで賑わっている。
見慣れた肌を持つ人もいれば、肌が鱗で覆われた人もおり、やはり俺の知っている日本ではないということを示していた。
「あの、少しよろしいでしょうか」
「えっ」
俺は後ろから話しかけられ、驚いた。
「は、はい何でしょう」
「あなた、灯葉という名前の人物を知っていますか」
その男には獣の耳が生えており、もの優しげな目を髪の狭間に揺らしていた。身長は俺より少し大きいか。
「ま、まあ知ってますけど。どうしましたか」
すると男は、途端に俺を睨んだ。
「とぼけるのか」
「え」
「貴方が灯葉でしょう」
何だ、この男は。誰なんだ。
「そ、そう…そうです。私が灯葉です」
「ああ、やはり」
男は手を差し伸べて来た。取り敢えず俺は握手した。
「私はルスバ。見ての通り獣人族です。ところで貴方は、この世界についてどう思いますか」
…はあ?
「何を…?」
「要するにですね」
男は声を潜めた。
「最近、変わったことはないか、ってことですよ」
ようやく俺は勘づいた。
「あっ」
「…ついてきてください」
踵を返し、男は颯爽と走っていった。
「ちょっ、待って」
俺は急いでついていった。
ひた走るタクシーは太陽の沈む方へ進む。揺られながらルスバは、青く光る信号機をじっと見つめていた。
「私が異変に気がついたのは、およそ一時間ほど前です」
急にルスバが話し始めたので、びっくりした。タクシーに乗ってから、もう一時間程経っていた。
「…ん、俺もそのくらいだな」
「どうしたことだと騒ぐ私に対して、他の獣人族は皆、静かでした。これが当たり前だろうと言わんばかりに、平然と振る舞っていました」
太陽が雲に隠れた。それでもなお、日光の強さは衰えなかった。
「そこで気がついたのです。この異常を認識しているのは私だけだと」
ルスバは眩しそうに目を細めた。
「はじめは、私に異常があるのではないかと思いました。脳に障害があって、存在しない記憶を鮮明に作り出しているのではないかと」
ルスバはそう言うと、バッグを漁り始めた。
「しかし、証拠があるのです。フルセルが、確かに存在したという証拠です」
取り出されたのは、何十枚、何百枚と重なった紙の束だった。
「なんだそれは」
「日記です」
そこにはフルセルで起こったことの詳細が、綺麗な文字でつらつらと並べられていた。
「これが、フルセルが存在していたという証拠になります。フルセルにあるタイプライターで文字を打っているので、こちらの世界では再現できません。完璧な証拠です!」
ルスバは紙の束をうっとりと見つめていた。
「あぁ、そういえば、今度この日記をもとに小説を書こうと思っていましてね。題名はそうだな、『君は悪魔の成り損ない』なんかでどうかな。もう既に次回作も書こうかなー、なんて思っていましてね。その時は、花の名前を使いたいんですよ。何故かというと…」
「…あのー」
「あっ」
ルスバは一つ咳払いをした。
「失礼。まあとにかく、この紙には貴方のことも他の住民のことも鮮明に書かれているんですよ」
「え?俺、お前に会ったことないぞ」
「あぁ、遠くから見てました」
「…え?」
「あ、なんでもないです」
「え、いやなんでもって」
「ほらつきましたよ!」
ルスバは遮るように前方を指さした。
いつの間にか都会のビルが周りを囲い、タクシーは車の波に飲まれていた。
指差す先には清潔感のあるマンションが建っていた。
「いつの間に…ここは東京か?」
「さあ?」
俺はルスバを見た。
「自分が住んでいる場所もわからないのか」
ルスバはバッグに紙を詰めながら言った。
「貴方だって、自分が住んでいるマンションがどこにあるのか知っているのですか。貴方と同じで、私も気がついたらこのマンションに住んでいたんですよ」
「…たしかに」
ルスバも、俺と同じような状況なのだ。
「ところで、なんで俺がマンションにいたって分か」
「さあ、行きましょう!」
ルスバは強引に俺の手を引っ掴み、タクシーの外に引っ張り出した。
「ちょ、ちょっとお客様料金を!」
「結構お金かかったな…」
淡白な部屋で、ルスバはバッグを机に置いた。
「なんか隠してるだろ」
「いいえ」
「いやいや、さっきの慌てぶりは明らかにおかしいって」
「いいえ」
ルスバはソファーに身を預けると、脚を組んだ。
畜生、なんとかして聞きたい。
「…教えてくれないのなら、俺は帰るぞ」
「お金もないのに、どうやって」
「…」
ルスバは髪を目から払った。
「しょうがない。教えないと信用もしてくれなさそうですしね」
ルスバは自分の目を指さした。琥珀色で、透き通るようなガラス玉。
「私は、目が特別なんです。遠くの物を見たり、透視をしたりすることができます」
「遠くの物…?」
「ええ。感覚的には、幽体離脱と同じ様なものですかね。視線だけを、色んなところヘ飛ばすことができるのです」
凄い。
「そんなことができるのか」
「ええ。この日記も、能力を使って書きました」
フルセルのことが詳細に綴られた紙。フルセルに起こったことごとくがそこにあるが、それらは全て実際に見たものなのか。
「見えるって…どれくらい見えるんだ」
「貴方の心臓は、ちゃんと機能していますよ」
え…?一体何を言って…
はっと気づいて、俺は思わず心臓を抑えた。
「心拍数、少し上昇しましたね」
ルスバは細めた目で俺を見つめていた。
「見えるのか」
ルスバは軽く微笑み、言葉を漏らした。
「可愛いですね」
「え?」
ルスバは脚組をやめ、立ち上がった。ほう、と息を吐き出した。
そして、とても小さな声で呟いた。
「やはり人間の男にも興奮するようだ…獣人族の男は、誰も彼も野蛮だから…」
「いや聞こえてるよ?」
ルスバはペタペタと近付いてきた。
「え、待て、何をしようと?」
ルスバは無言で更に近付いてきた。
…嘘だろ?
「待て」
しかし止まらない。
「ちょっ、ちょっと待て本当に!俺は抵抗あるから!それにまだ初対面だろう、落ち着けよ!」
もう目の前に、ルスバは居た。
「ええ…?」
動けなかった。あまりの展開に、脳が追いついていないのだ。
ぺたりと腰が床についてしまった。
「あ…あ…」
ルスバは覆い被さる様に、俺にくっついた。獣臭はなく、爽やかなシャンプーの香りがした。
「灯葉さん」
「え…?」
「この世界の一番の問題点、何だと思います」
「な、なにそれ…?」
ルスバは俺を見つめた。俺は必死に目線を逸らそうとした。しかし、逸らせない。逸らした瞬間、襲われそうな気がする。
「『リビア』が生きている、ということですよ」
ルスバはいきなり立ち上がった。
「へぇ…?」
「一万円あげます」
一万円を渡された。俺は呆然とそれを受け取った。
ルスバは飾り気の無い笑顔で、言った。
「また会いましょう」
扉が閉まった。
俺は震えながら立ち上がった。
そして、走って逃げた。
なんだ。
何なんだあいつは。
全く人柄が掴めない。
何がしたいんだ!?
一刻も早く、ドロイトに会いたかった。
夜の闇夜は都会の蛍光色にかき消されていた。
俺は一万円をくしゃくしゃにしないよう気をつけて握って、タクシーを呼んだ。