閑散としたシアターで
『異様に長い両腕を地面に垂れ下げ、それの目からは止めどなく黒い液体が流れ出ていた。身体全体にヒビが入って、作り物のような奇っ怪さを醸し出していた。白髪と黒髪が入り乱れた長髪で、そのさまは人外としか言いようがなかった。
そんな姿をした悪魔を、貴女は「灯葉君」と呼びましたね。一体全体、どうやって識別したのです。』
ドロイトの頭の中に、声が流れ込んでくる。どこかで聞いたことのある声、父さんだ、お父さんの声がする…
ドロイトは足元から有刺鉄線が這い上がってくるのを感じながら、言った。
「やめて、その声はやめてください」
『私の声は、どのように聞こえますか。きっと貴女にとって一番大事な人の声に似ているでしょう。しかし、その人はもう死んでしまっているのです。私の声は、貴女が一番大事に思う、生を失った者の声です。』
神様の姿が変わっていく…
霧のように朧気に舞って、少しずつ形作られていく…
その姿は…
『そして私の姿は、貴女にとって一番大事な、生をまだ失っていない人の姿に見えるでしょう。私の姿は、貴女が一番大事に思う、生を失っていない者の姿です。』
灯葉となった神様は、にこやかに微笑んだ。
「こちらへ来てください」
灯葉は手をゆっくりと差し出した。
「この先にきっと、楽園があるはずです」
ルスバはこの異常事態に、神様を見つめた。約束が違う。こんなこと許されるはずが…
ルスバと神様は、生まれたときから繋がっていた。
一つの目で現実世界を、もう一つの目で神様を見ることができるのだ。
意識を集中させることで、神様の世界に入ることもできた。神様は初めてルスバを見たとき、異常な程の喜びを見せた。なぜかとルスバが聞くと、神様はずっと孤独だったと言った。
その「ずっと」は想像すらできないほどに「ずっと」で、永遠に限りなく近い時の中で神様は一つの真実を知ったという。
『ルスバ、この世で最も辛いのは「何もない事」なんだ。喜劇だとか悲劇だとか、惨劇だとか。いろんな言葉がこの世にはあるけれど、一番恐ろしいのはいつまで経っても劇が始まらないことなんだ。暗くなった劇場で、延々とスポットライトを望み続けることなんだ。』
ルスバはその言葉を聞いたとき、感銘を受けた。確かにそうかもしれない。そしてそんなことを経験してしまった神様を哀れんだ。
『ルスバ。私が一番大好きなのはね、悲劇の後の喜劇だ。冬があると、春が一層輝いて見えるだろう。あれを私は、全人類に見せてやりたいのだ。』
純粋なその願望から、神は恐ろしいものを生み出した。
悪魔という存在だ。
傷つけば傷つくほど、壊れれば壊れるほど強くなり、人間から更に離れていく。
すなわち、悪魔とは悲劇そのものなのだ。
ルスバは本当の灯葉を見た。変わり果てた灯葉を見た。
ここから、喜劇に転換する未来が見えない。
地上ではリビアが本格的に動くはずだ。そうなればおしまいだ。
ルスバはドロイトを見た。そして、目を見開いた。
ドロイトは神様の手をとっていた。
一番大事な人の声と姿となった神様を選んでいた。
神様はまた微笑んだ。
「行こう」
ルスバは再度本物の灯葉を見た。
「灯葉さん」
「…」
「灯葉さん」
「…もう」
ルスバは仰天してしゃがみ込み、灯葉に近づいた。
「喋れたのですか、なんです、もう一度言ってください」
灯葉はしばらく黙った後、はっきりと言った。
「もう、嫌だ」
嫌になった。
ルスバは底なしの沼にはまった気持ちになった。
「気づいたんだ」
「何にです」
「兄が、人として、壊れていたということにだ」
「兄?兄がいたのですか。詳しく聞かせてください」
灯葉は何も言わず、俯いた。
ルスバはこのとき、初めて確信した。
間違っている。
「神よ、私達は一体何処で道を違えたのでしょうか…?」
ルスバはゆっくり立ち上がった。目に、僅かな光が揺らめいていた。
それはこの世で最も強大な、執念という希望の光だった。