たった一つの間違い
雪道に残るタイヤ痕は弧を描き、不規則な模様を作り出していた。ところどころに血痕が残り、凄惨さと白に浮き立つ赤が織りなす神秘さが混ざる不思議な世界となっていた。
灯葉は自分の右腕に有刺鉄線を纏い、左手から有刺鉄線を伸ばしてリビアに巻きつけた。有刺鉄線はリビアの身体を引き裂きながらくっついた。それを縮めると、灯葉は放物線を描いてリビアに向かって飛んでいった。その勢いのまま右腕を、頭部めがけて振り下ろした。
右腕はリビアの顔面をところどころ切って、エネルギーをダメージにそのまま変えて叩きつけた。
灯葉は空気を殴っているかのような錯覚に陥った。
手応えがまるでないのだ。
リビアはゆっくりと、柔らかな手のひらを灯葉の腹に当てた。そして呟いた。
「ドポカ」
衝撃そのものが灯葉を襲った。
腹に穴が空いた気がした。
天の川横切る空気の澄んだ夜空を、赫い飛沫が線香花火のように散って消えた。灯葉はスパークする視界に絶望しながらも、何度目かわからない攻撃を仕掛けた。
有刺鉄線は救いを求める亡者のように弱々しく伸びて、リビアの喉元めがけて殺意を尖らせた。しかしそれも虚しく、有刺鉄線はすぐさま、無残にも打ち砕かれた。
遊ばれている。
それに気がついたのは、戦闘が始まってしばらく経ってからだった。リビアが、コアに全くダメージを与えてこない。そのおかげで灯葉は戦闘が始まってから立ち続けることができているのだ。
しかし、それも最早限界が見えた。
遂に膝から崩れ落ちそうだ。
半歩下がって、もたげる頭に付いた両目でリビアを力一杯睨みつけた。
何度も攻撃してわかったことだが、リビアはやはり死なない。本当に死なないのかはわからないが、少なくとも灯葉の力では殺すことができない。
身体を塵一つ残さず消すことができれば、死ぬのだろうか。それすらわからない。要するに希望がない。逃げられないし、勝てない。ビジョンは一つしか見えなかった。死ぬのだ。ここで。
「どうした」
リビアの声が聞こえた。なぜ、その声は悲しそうなんだ。
「もう終わりなのか」
終わりという言葉を聞いて、灯葉の身体は限界を迎えた。膝からドシャリと崩れ落ちた。
「…多分、終わりだ」
灯葉は自分の喉から声が出ることに驚いた。まだ話せるのか。
「…もう動けない」
「…そうか」
リビアは無表情でしゃがみ込み、灯葉のコアを右の掌で握りしめた。
「温かい」
「ここは、冷えてるからな」
リビアは灯葉の目をじっと見つめた。
「少し、名残惜しいな」
灯葉は思わず笑ってしまった。
「微塵も思っていないだろう」
リビアは微笑んだ。
「そうかもな」
リビアの掌が禍々しく光り始めた。灯葉は死が急速に近づいてくるのを感じた。
死とは、ここまで寂しいものなのか。
灯葉は目を閉じた。
結局、何もできなかった。
ドロイトにも、ルスバにも、俺は何もできないまま死んでいく。
死後の世界はあるのだろうか。もしあるとするならば、父や母に会えるだろうか。兄にも会えるだろうか。
あってほしい。
禍々しい光はいよいよ最大にまで達した。
灯葉は最早確信していた。だから目の前にいる宿敵を恨むこともなかった。
リビアは、この世界で最も憐れむべき存在なのだ。
灯葉は最期のときに備えて、内頬を噛み締めた。
リビアは、この世界に生まれてきたこと自体が間違いだったのだ。
雷光が閃いた。
リビアは呆然と空虚を見つめていた。
今まで、確かに、目の前に灯葉がいたはずだ。
しかし、今はもういない。
何が起きたのか、視認すらできなかった。
リビアはゆっくりと立ち上がった。雪が降っている。
リビアは振り向いた。
都会の光が地上の星空のように輝いている。
リビアはフーっと息を吐いた。
その息は白くなかった。
今から、その光は全て消え失せるのだ。
「何という悪趣味だ」
ルスバは病人と同じ痩せこけた目で、じっと一点を見つめていた。
「やはり、許せるものではない。しかし、許せないからと言って私達に何ができるのだ」
独り言をボソボソと続けた。
「やはり私達は従うしかない」
ルスバはようやく立ち上がった。
「皆さん、待っていてください」
ルスバは聖人のそれと同じ成分が見て取れる瞳で、世界を見つめた。
「もう少しの辛抱ですから…」
老人は、筆を滑らかに動かし、止まった。
そこには一つの、ある絵が出来上がっていた。
その絵には、人々が微笑み、それぞれの好きなものと和やかな時間を過ごしている、大団円の様子が描かれていた。