慟哭
雪が積もった。
灯葉はうつむいていた。
見たくなかったのだ、直ぐ側で荒れ果てている生き物を。リビアは泣き叫び、抑えきれないかのように上半身を前後に大きく揺らし、紺色の長髪はめちゃくちゃで、白い雪を踏み潰しながら乱れる歩みを続けていた。上半身の服は脱ぎ捨て、首部分のみが開いている長袖の黒いインナー姿だった。
「リビア」
リビアは遂に膝から崩れ落ちた。灯葉はカルマというものの無慈悲さに背筋が凍った。雪はまだ積もる。積もっても積もっても、まだ積もる。終わりが見えない。
雪が積もった。
再び呼びかけた。
「リビア」
リビアはしばらく咳き込んだ後、真っ赤な目で灯葉を見た。その姿はトリカブトのような美しさがあった。
「もう良い。死ぬ」
「…」
「こんな世界に用はない」
「…そうか」
灯葉は心の何処かで安心している自分が嫌になった。でも、しかし、しょうがない。罪を犯した上に、反省すらしていない。罰を受けて当然だ。当然のはずだ。
わかっていても、やはり耐えられぬ。
雪が積もった。
「じゃあ、死ぬんだな。コアを壊して」
灯葉は、落ちる雪が一瞬止まったような気がした。その中をリビアは高速で、灯葉に向かって突進しているのだった。灯葉は動こうとした。しかし動けない。
灯葉は走馬灯という言葉を思い出した。
両肩がもげそうなほどに歪んで、後方に吹き飛ばされた。どうにかバランスを取ろうと両足を忙しなく動かすも、追いつかない。勢いよく仰向けに倒れてしまった。リビアは目の前にいた。腹部を跨いで、見下ろしている。
リビアはゆっくりと柔らかな臀部を下ろして、灯葉に馬乗りになった。俗に言う、女の子ずわりだった。少し腹部に暖かみを感じた。
リビアは灯葉をじっと見つめていた。
雪が積もった。
「…リビア」
「私は死ねない」
灯葉は目を見開いた。
「嘘だ」
ありえない。
死ねないなんて、それはありえない。
生物は、すべて死ぬ。人間も、亀も、獅子も、死ぬ。
「どういうことだ」
「私のコアは、宇宙にある」
「どういうことだ」
「宇宙だ」
宇宙。灯葉は空を見た。暗い空を、漆黒の宇宙を…
「灯葉」
灯葉は急いでリビアに視点を移した。
「覚えているか、私がお前に言ったことを」
「なんのことだ」
「我々は魔法を使うとき、魔波を歪ませているんだったな」
この世界には魔波という曲線で満ちていて、それを歪ませることで魔法は出現するのだ。未だに、左目は魔波しか見ることができない。
「その魔波は、どこから来ているのか、覚えているか」
「覚えている。あの馬鹿に大きい星だ」
異世界にいる頃は見ることができた、空の三分の一程を占領していたあの星だ。あの星から魔波が生まれ、地上まで届くのだ。
「まさか」
「そのまさかだ、灯葉、君」
「…やめてくれ」
リビアは吹き出し、背中を反らし天を仰いだ。目を瞑って、大いに笑って、その度身体を揺らした。馬乗りにされているので灯葉は苦しかった。リビアはまだ笑う。その目から、涙がとめどなく流れた。やがて雪に彩られたまつ毛と共に瞼が開いた。焦点の合わぬ真っ赤な目からだらだらと涙が流れて、もう、正気ではなかった。
灯葉は切羽詰まったように掠れた声でリビアに聞いた。
「リビア、リビア、どういうことだ、あの馬鹿にでかい星は、お前のコアそのものなのか」
「違う、違う私のコアは、あの星と同化してしまったのだよ灯葉君!笑ってくれ、笑っておくれちっぽけな生き物を!後悔や反省すらまともにできない哀れな獣を!」
雪が積もった。
一体この生き物は、何処まで罪を重ねたのか。何処まで罪を重ねれば、ここまでの罰が…
灯葉は狂気に飲み込まれないよう、叫んだ。
「リビア、リビア落ち着け。お前は心を持っているんだから…」
「忘れたのかい、灯葉君」
リビアの動きがピタリと止まった。リビアの眼球に雪が積もっていた。
「私は純正の悪魔だよ」
純正の悪魔に、心なんて…
「あぁ」
リビアは冷めきった目で灯葉を見下ろした。
「泣いてくれるのか、私の為に」
灯葉はありったけの力で内頬を噛んでいた。一つの事実に気がついてしまったのだ。
その事実はあまりにも残酷で、絶対零度すら超越した冷酷さと鋭利さを兼ね備えていた。
「灯葉」
歪んだ笑みを浮かべて、少し首を傾けた。
「イミカは、私を放って幸せになってしまったよ」
「…やめろ」
灯葉は右手をリビアの瞳に伸ばした。
「もうやめてくれ」
「私はこの世界を壊す」
「これ以上罪を重ねて何になる」
「もう何にもならない。だから、壊すんだ。私は悪くない、悪いのはこの世界だ」
「待って…」
「あぁそうだ、この世界への復讐だ。まだ終幕は下ろしてくれるな、これからだ、ありったけのスポットライトを私に当てろ」
リビアは戯言を呟きながら立ち上がった。灯葉もそれに続いてなんとか立ち上がった。
「リビア、壊すべきはこの世界ではないだろう。開き直るな、まだ間に合う。これからだ。イミカはどうなるんだイミカは!少なくとも異世界でのイミカはお前を愛していたはずだろう…」
「黙れ!」
暴風が灯葉に襲いかかった。雪が吹き付けても、灯葉は瞬きせずリビアを見ていた。
雪が積もった。
なんとかリビアを説得しなければ。これ以上自分を壊してほしくなかった。
「…頼むから、もうやめよう。壊しきったあとに何が残ると言うんだ。なにも残らない。感情に流されるな、お前はまだ間に合うから…」
リビアは黒い目で灯葉を見つめた。やがて、ふっと笑った。
「優しいな」
「リビア」
「記念だ」
リビアは柔和な笑みを浮かべた。
「お前は最初に殺してやろう」
稲妻のような衝撃が灯葉を駆け巡った。
気づけば、月はあんなに高い。
雪が積もった。
迫ってくる。絶対的捕食者が、ゆっくりと迫ってくる。灯葉は雪を全身で受けながら、白い息を何回もはいた。
思い浮かばない。生き残ることができるビジョンが、全く思い浮かばない。
「さぁ、プロローグだ」
五感が薄れていく。
死とは、こんなにも安らかなのか。
「ドロイト、ごめんな」
呟いて、灯葉は祈るように両手を突き出した。
有刺鉄線がドーム状に、何重にも重なって二人を大きく取り囲んだ。
慟哭が聞こえた。
冬の夜風の、慟哭だ。