嫌な再開
老人は筆を進める。
白い世界に彩りを、慎重に、少しずつ含ませた。その様子を見ながら、ルスバがぼやいた。
「…遅い…」
「せっかちだな」
灯葉は空を見た。曇天に、一箇所ポッカリと穴が空いていた。それが一つ目のようで少し不気味に感じた。
「こうしている間にも、やつは私達を見て面白がっているのですよ。屈辱です」
ルスバはじっと老人を見つめた。
「この絵は、出来上がる絵は、確実に何かしらの力を秘めている」
「なんでわかるんだ」
「直感です」
灯葉はそれを聞くと不安げな顔色を浮かべた。それを見て、ルスバは微笑んだ。
「人生、そんなもんですよ」
そんなもんか、と灯葉はひとまず頷いた。
老人が描く姿を見ていると、どうも時間がいつもよりゆっくりとしているように感じる。いつまで経っても絵が完成しないように思えるが、確実に進んでいるはずだ。気長に待つしか無いのだろうとルスバは思った。
不意に、リビアが口を開いた。
「顔を洗いたい」
ルスバが鋭くリビアを睨み、灯葉に視線を移した。
「灯葉さんに同行させますが、それで良ければ、どうぞ」
リビアが頷いた。
「変な気持ちが、ずっと頭を漂っているんだ」
「変な気持ち?」
リビアはアスファルトに目線を散らしながら言った。
「よく、よくわからない。この世の言葉で言い表すことができるだろうか」
その横顔の色彩が、俺にはやけに寂しく見えた。
公園に手洗い場を見つけ、リビアはそこに入った。
しばらく経った。
リビアが出てくる気配が一切無い。もう十分ほど経ったが、まあ大丈夫だろうとポケットからやつれた財布を取り出した。公園の端っこにポツリと寂しく光る自動販売機が、久々の小銭を喜んで飲み込んだ。代わりに吐き出した麦の茶を俺は飲んだ。冷たい液体が食道を通るのがわかった。
ふとキャップを閉めてリビアを目で探すも、いない。
「どっかに行ったんじゃ…」
俺は心配しながら、小走りで公衆トイレに近づいた。男子トイレの男子のピクトグラムは錆びれて、紺碧に近い乏しい青色を纏っていた。
リビアは男子トイレの中にいた。
アッと声を出しかけたが、それは口の中で留まった。なぜならリビアが誰かと話していたからだ。
女性なのに男子トイレに入ったことを咎められているのではと悟り、俺は急いで男子トイレの中に入った。薄汚れたタイルが壁一面敷き詰められて、手入れのされていないことがよくわかった。
リビアを見て、稲妻のように衝撃を受けた。
リビアは、鏡に向かってすがりつくように話しかけていたのだ。命残り少ない蛍光灯が明滅し、その度ピカリピカリと鏡も光ったが、リビアは動じなかった。鏡に映るリビアの表情は夢見心地で、白昼夢に惑う夢想病患者のように思えた。異様とも言える、否異様としか言えないこの空気が男子トイレ内に渦巻いていた。
「それは本当か、本当に罪は晴れるんだな!?許されるんだな!!」
あァ良かったとリビアは歓喜していた。
一人で。
「おい、リビアどうした」
妙な汗を感じながら、俺は話しかけた。するとリビアは朗らかな表情で振り向き、俺に言った。
「今、助言を貰ったのだ。彼は神という存在について深く知見を持っている人物だそうで、彼によると心から被害者のことを想えば罪は晴れるのだそうだ」
蛍光灯がチカチカと光った。
「…彼って、誰だ」
リビアはすぐに、指を指した。その先には、鏡が有って、鏡の中にリビアが居た。
リビアは嬉しそうに言った。
「彼が教えてくれたんだ」
指差すその先には、鏡が有って、鏡の中にリビアが居た。
蛍光灯がこと切れた。
果たしてこの世に救いなどあるのだろうか。リビアはどうやら狂ってしまったようではないか。俺は今にも吐きそうで、そういえばこんな思い何度目だっけと苦悩していた。
そんな俺に対しリビアは軽快で、嬉しそうだった。やはり人生において大事なのは心持ちだ、心持ち一つですべてが変わる。
ルスバのもとに戻ると、やはり老人も居た。
「ずっと見張ってるつもりか」
「この老人、いきなり現れたでしょう。消えるときもいきなり消えてしまうのではと思うのです」
ルスバは自分の指を噛んだ。
「私は既に掌の上で踊っているのでしょうか」
ただ待つということしかできずに、自分の力の無さをルスバは噛み締めているようだった。やがて、ルスバは首を振った。
「どうか、私を一人にしてください。その方が集中できる」
「帰ってもいいのか」
ルスバは頷いた。
俺は嬉しくなった。
ドロイトとの時間が、これでできる。ありがたい。
「ただし、リビアさんと一緒に過ごしてくださいね」
…えっ?
ドロイトはドアを開けると、怪訝な表情を俺に向けた。
「…帰ってください」
俺とリビアは目を見開いた。まさか門前払いを食らうとは思ってもいなかった。
「ちょ、ちょっとまってくれ。大事な話があるんだ」
「その人、前にあったことあるよね。その人に灯葉君、襲われてた」
俺とリビアは驚愕して顔を見合わせた。そういえば、公園で俺はこいつに殺されかけてた。しかもドロイトの前で。なんてことだ、忘れていた。
「だ、駄目か」
「駄目。…まあ、要件くらいなら聞いてもいいけど」
リビアは口を開いた。
「私は灯葉さんの友人であるリビアです。家を焼失してしまったので、居候させてもらいたいと…」
ドアが素早く閉まった。
「ま、待って。リビアはあの時のことは反省してるみたいなんだ、あの時は俺が悪かったというのもあるし、どうか」
ガチャリと音がして、ドアに鍵がかかった。俺はため息をついて、肩を落とした。
「どうしよう」
「どうしようもない、やはり私は路上で過ごすことにする」
しかし、ルスバから一緒に過ごせと言われたじゃないか、と俺は言った。
「あ、そうだ。イミカに相談しよう、イミカなら私を」
「落ち着いて、駄目に決まってるだろう」
リビアは俺を見た。表情は読み取れなかった。
「何故だ、言ってみろ」
夜風が俺を刺した。どうしよう。リビアとイミカが会ったら…いやでも、会ってもいいのか。会ったところで何かが起こるとは思えない。
「とりあえず、ルスバに相談しよう」
それを聞くと、ルスバは鼻で笑った。
「まぁ、別に良いですよ」
良いのか。俺は意外な言葉に驚いた。リビアは一気に顔を上気させた。
「良いのか」
「えぇ。ただし、誰一人殺してはいけませんよ。それに灯葉さんと共に行動してください」
それを聞くとリビアは素早く俺の手を掴み、皮膚を突き破って翼を生やし、スノードームのように透き通る寒空へと飛んだ。リビアが羽ばたき、その度異常な速さが生まれて、見下ろす街は流線状に流れていった。その速いこと、俺の手は今にも引きちぎれそうだった。
口も目も開けず、俺は風にされるがままだった。
きっと、満月はそんな俺を嘲笑っていた。
どれほど時間が経ったかわからない。スピードが急速に緩まり、俺はだらりとリビアにぶら下がっていたが、地面に振り落とされた。
「…」
「立て」
リビアは俺の髪を鷲掴みにし、そのまま引っ張って引きずっていった。
足取りの速さから、リビアの機嫌がわかる。
「ここだ、この家だ」
俺はやっとまともに立ち上がり、目を開いた。
その家は木造で、玄関に二つランタンが下がっていた。石造りのチムニーが控えめに主張し、全体的に暖かみを感じさせる家だ。それもそのはず、ここは異様に寒い。雪がどっさり積もっている。
リビアは待ちきれないと言わんばかりにインターホンを押した。機械音がなって、暗い夜空に木霊した。
ガダ、と音がして、玄関に明かりが灯った。リビアは必死に笑みを抑えつけているようだった。
扉が開いた。
出てきたのは、
あっ。
俺はその顔に見覚えがあった。
「はい、何でしょう」
いきなり扉を開けるとは、なかなか不用心なことをする。
それは、レベオさんだった。
「私は、リビアと申します。イミカさんはいらっしゃいますか」
それを聞くと、レベオの顔は明るくなった。
「あッ、イミカの知り合いでしたか。どうぞ、お入りください。そちらの男性もどうぞ」
なんて不用心なんだと普段の生活を心配しながら、俺は家に入った。リビアは不審者のように辺りを見回し、イミカを探した。まあ、実際に不審者だが。
その瞬間、声が聞こえた。
「おや、お客様ですか」
よく聞き慣れたその声。和らぐ中にどこか凛とした波長の混じる、その声。俺の脳内では数々の記憶が暴風のごとく吹き荒れ、飛び散った。
リビアは今にも泣き出しそうになって、その声の方を見た。
そして、その姿を見て、口をポカリと開けた。
「…イミカ?」
「ええ、私はイミカです。…その声、どこかで聞いたことがあるような、気の所為でしょうか」
イミカ、イミカ、とリビアはうわ言のように繰り返した。
「一体どうしたんだ、それは」
レベオは扉を閉めて言った。
「大丈夫かい、イミカ」
「あぁ、大丈夫だ。この家の構造にも慣れてきたところだからね」
イミカはゆっくりと手すりを伝い、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「どうして」
リビアは放心状態で呟いた。
「すまないね、随分鈍くて」
イミカは顔をほころばせながら、言った。
「目が見えないもので」
その目には、純白の包帯が巻き付けられていた。