調和
灯葉さん、とルスバは灯葉に声をかけた。
「どうした」
「伝えなければならないことがあります」
ルスバはベンチにポツリと座っているリビアを尻目に、言った。
「恐らく、彼女はあなたのことを拠り所にすると思います」
「…リビアが?」
「はい」
正直あまり良い気分にはなれなかった。ルスバは、リビアの状態は今変わりつつあり、彼女の話を聞いてあげる役目が必要だと話した。
「このまま想定通りに事が進めば、いずれ彼女に活躍してもらうことになるので。彼女に死んでもらっては困るのです」
そうか、と灯葉は軽く答えた。
「でも、今日は無理だな。今日は用事があるんだ」
今日はドロイトと俺とドラセナとで出かけに行く予定だった。車に乗って、長く揺られて、旅館に行った。
ドロイトとの仲は良くなったというのに、俺の心は沈んでいた。なんたって、一人の生き物が壊れる瞬間を見てしまったのだ。
リビア…しかしまあ、因果応報だしょうがない。何度も自分に言い聞かせるものの、心は落ち着かず常にざわついた。やはり、なんというか、哀れだ。どうにかならないのだろうか。罪が全て晴れてほしいというのはあまりにも身勝手だ。それはわかってる。でも、やっぱり、哀れだ。
ただ他人を愛するがゆえに、罪を犯しに犯し、その十字架の重さに気がついたときには、自分は潰れていたのだ。これが哀れでなくて何なのだ?
そんな暗い俺の心を敏感に読み取り、ドロイトも不安げになっていた。昨日の仕事で失敗したからだと言って誤魔化した。嘘ではなかったので、バレなかった。
山道を走り、ちょっとした林を抜けると、黒い木材で形作られた旅館が見えた。その姿に驚いた。
「…浮いてる…?」
目を凝らし、何度も瞬いた。いや、浮いている。浮いている!
建物は十メートル程の高さを浮遊して、戯れるようにゆっくりと回転していた。しかも、かなり大きい。小学校がちょうどこれくらいの大きさだったのを、俺は思い出した。
車から出る際にドラセナのメリーがドアに引っかかった事以外はなんの問題もなく旅館についた。ドラセナはお腹が空いているようで、顔色が悪かった。
「…空腹」
「なんだよそれ」
荷物を担いで、素早く旅館に入った。
チェックインが完了し、エレベーターに乗りこもうとした。しかしここでもドラセナの背中のメリーがつっかえ、入れなかった。階段で、九階へ。体力のないドロイトは顔を歪ませながら階段を上がった。
「灯葉君、ごめん無理かも」
「冗談だろ?」
ドロイトが大きくふらついた。俺は冗談だと思っていたので、冷や汗がブワッと背中から吹き出した。急いで支えた。
「冗談だろ!?」
「ちょ、ちょっとね」
どうやら、長いこと俺のことを心配し過ぎて生活リズムがめちゃくちゃになり、疲労困憊状態らしかった。申し訳なくなった。
「…ごめん」
「いいよ別に、もう治ったんだから」
「いや、でも」
「いいって。やかましいな」
やかましいなんて初めて言われた。
…しかし、そんな状態で出かけて良いのだろうか。家で安静にするのが一番なのでは無かろうか。
階段を登り切ると、ドロイトはがっくりと膝をついた。
「ちょっとまずいんじゃないのか?大丈夫じゃなさそうだぞ」
「大丈夫」
ドラセナも心配している。
「…休んだほうがいいような…」
「大丈夫」
「でも…」
ドロイトはぐちゃぐちゃな表情で俺たちを見た。
「だって、ずっと灯葉君とここに来たかったんだよ!でも灯葉君駄目になっちゃってさぁ…!私も駄目になっちゃって…でも治ってくれて、それでさあ、せっかく治ったから、旅行に行ったらもっと良くなるかなあって私は…」
ドロイトはいきなり泣き出した。
そういえば、と俺はドロイトの父親のことを思い出していた。もしや、彼も逝ってしまったのだろうか。俺の両親が逝ってしまったのだから、恐らく彼も…。
ドロイトも、俺と同じくらいぐちゃぐちゃだったのだろうか。
そう思うと、俺もよくわからなくなってしまった。
「泣くなよ…」
俺も泣き出した。声を出さないように努めて、息ができなくなった。
それにつられたのか、それとも不安になったのか、ドラセナも涙ぐんで、腕に顔を埋めた。
「はい…」
「何かあったときは、遠慮なく連絡をしてもらってですね」
「すみませんでした」
心配した従業員の人に、声をかけられてしまった。
ドラセナはケロッとして、部屋の机の上に置いてあったレストランのメニュー表をチラチラ見ていた。
「とりあえず、食べようか」
落ち着きを取り戻したドロイトは言った。
レストランは屋上にあるらしく、また階段を登るのかと絶望した。結局屋上は十階なので、一つ階段を登るだけで済んだ。屋上から望める景色は正しく圧巻で、疲れを吹き飛ばしてくれるようだった。奥に見える小高い山々からそよ風が吹き渡り、その風で小川に映る景色はほつれた。
ドロイトは今にも跳ねそうになりながら、叫んだ。
「すごい!なんだか懐かしいなぁ」
「えっ?」
ドロイトは潤んだ瞳で俺を見て言った。
「どこかで見たことがあるような気がするんだ…」
心臓が跳ねた。俺の脳裏にはフルセルの広大な自然が浮かんでいた。
…思い出すことはあるのだろうか?
席につき、早速オーダーした。ドラセナはハンバーグと白米とピザ、ドロイトはオムライスとクラムチャウダー、俺は蕎麦と天ぷらを注文した。料理がずらりとよりどりみどりなので、ドラセナは大いに喜んだ。
運ばれてきた食欲そそらせる料理を食みながら、俺はこの建物が回転している理由に気がついた。目が回らぬ程度に、ゆっくりと回転する。まるでメリーゴーランドのように、多方面の景色がゆっくりと流れていく。知らぬ間に心が癒えていく。安堵感が俺を包んでいた。
「ねぇ、近くに滝があるんだよ」
元気になったドロイトが後ろから俺に抱きついた。なかなか情緒不安定だ。
「滝?」
「うん。ねぇ、滝浴びようよ」
「うん?」
轟々と凄まじい音を響かせて、滝が飛沫を撒き散らした。自分の心に何故か怒りが湧いてくるのを感じながら、自分の情緒不安定さを噛み締めた。
「なんでこんなのやらなきゃいけないんだよ」
「って言いながら、結局着替えてくれたね」
「…」
滝を浴びる専用の衣服があったので、それに着替えたのだ。水を吸いにくく、柔道着のような見た目をしている。正直、興味があった。一回くらいは滝に打たれたいと思っていた。
「さ、一緒に行こう」
「…なんでそんなにやりたがるんだよ」
ドロイトは爛々と輝く目を俺に向けた。
「滝はね?憑き物を取ってくれるんだよ。しがらみを切り捨ててくれるんだよ。私達、滝に打たれたら多分良くなると思うんだ」
「へえ…」
それに、とドロイトは言った。
「打たれてみたいでしょ?」
俺はしばらく黙った後に、頷いた。
入った瞬間、圧力が俺を襲った。水が肩に飛び込み、叩きつけられていた。その衝撃が絶えず俺を襲った。
一番すごいのは、この轟音だ。まるで爆発だ。
三十秒くらいして、飛び出した。ドロイトは先に滝から出ていた。
寒かったので、急いで旅館へと走っていった。
体を拭いて、ロビーに暖炉があったので、そこで暖まった。
しばらくあたたまると、ドロイトが笑い出した。
「灯葉君、滝の中で凄い顔してたよ?」
なんて野郎だ。俺を誘ったくせに、先に滝から出たんだ。
「…つきものは取れたか」
ドロイトは笑顔で頷いた。
いつの間にか、俺の顔はほころんでいた。
ルスバとリビアのことを忘れることができた。