あぁ、良かった。
十二月二十四日。眼の前が見えないほどの豪雪の中、あまりに積もりすぎた雪を踏み抜きながらルスバとリビアは歩いていた。
ルスバは疲弊した表情でぼやいた。
「もう…あの老人と接触するのが最優先だというのに」
結局あのあとリビアが騒ぎ出して、『まずはイミカを見つける』ということになったのだ。
「何を言う、最優先はイミカに決まっているだろう。もう私は気が狂いそうだ…」
果たして生物がこれ以上狂うことはあるのだろうか、とルスバはわからなくなった。
ルスバは白い息を吐いた。この真っ白な世界と同じような心が、果たして溶けることはあるのだろうか。
十二月二十四日。普通の日常の中に小さな幸せを探していたあの頃をどうしても思い出す。灯葉はドロイド、ドラセナと共にちょっとした商店街を歩いていた。クリスマスの時期ということでそこかしこでクリスマスソングが流れているわけだが、その全てが聞き馴染みのないものだった。
飾り付けられた輝くオーナメントは、灯葉の寂しさをかえって加速させていた。
もう、灯葉の知っている日本はそこになかった。神に急遽創られた偽りの世界なのだ、本来あるべきではなかった。
灯葉は横にいるドロイトの横顔を横目で捉えた。
…このドロイトは、あのドロイトなのか?もしかしたらこのドロイトは偽物で、あのフルセルでのドロイトとは違うのではないか。
胃液が逆流した。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
灯葉は本屋へと駆けていった。そのやけに寂しい背中を、ドロイトは無感情の目線で追いかけた。
灯葉の元気は、もはや無い。灯葉の元気が無くなるたびにドロイトの元気も無くなっていった。もう泣き疲れていた。
この現状を打破しなければとこの商店街にでかけたのだ。
しかしドロイトは、灯葉の心の中にある圧倒的な不安を見てしまっていた。とても人間一人が抱えているとは思えないほどの莫大な不安。
ドロイトは半ば諦めていた。一体あそこまでの不安に、たかが「私」の何が通用するというのだ。
もうクリスマスは他人事なのだろうか。せめて、せめて新年だけは祝いたい。
全く寿命が足りないこの世界では、無事に新年を迎えられることほど喜ばしいことは無かった。「良かった」と安堵して、一年よく頑張ったと励まし合って、褒めあって、沢山生きようと勇気づけ合う。そんな神々しささえおぼえられる光景が、年始には見れる。
それももう、多分無理だ。だってこんなにも、
「ドロイト」
ドロイトはハッとしてドラセナを見た。
「…痛い」
ドラセナはじっと自分の右手を見つめていた。ドロイトの左手が、ドラセナの右手を握りしめていた。
「あ、ごめん」
小さく言って、手を離した。恥ずかしかった。
ドラセナはドロイトの目に視線を移した。どこか不満げな目つきだった。
「…手は、握って」
ドロイトはしばらく言葉の意味を理解できなかった。
「え?」
「優しくだったら、握ってもいいよ」
「…握ってほしいっていうこと…?」
ドラセナは黙って右手を差し出してきた。それでもドロイトが躊躇っていると、ドラセナ自らドロイトの左手を掴み、すぐに前を向いた。ドラセナの心に喜びの感情が広がっていくのが見えた。
ドロイトは、繋がる手から伝わるぬくもりに、膝から崩れ落ちそうになった。
諦めるにはまだ早い。必ず灯葉君と明るい年始を送るんだ。固く誓った。しかしその決意は、トイレから戻ってきた灯葉の表情に早速揺らぐことになった。
ドロイトは灯葉を喜ばせることに尽力した。
笑わせるためにおどけたりもした。灯葉は笑ってくれたが、心は微塵も笑っていなかった。心がひしゃげた。
ドロイトは一度、灯葉の今の状況を心のなかで整理した。
まず、灯葉は今にも壊れそうな状態になっている。でもその原因はわからない。原因を聞きたいが、聞けない。聞いてしまったら灯葉君は壊れるのではないか。ドロイトはそんな不安を抱えていた。だから聞けなかった。
灯葉は喜びとか笑いだとかのプラスな感情を持つことができない。マイナスの感情は出てくるようになったが、プラスは一向に出てこない。
最悪の状態だった。
灯葉をとにかくストレスから遠ざけた。
商店街から帰ったのは、日が沈む頃。影が伸びて、地面が暗く覆い尽くされる頃。
小さい車を走らせて、他の人間が全く見当たらない田舎の道を無言で突き進んだ。
夜にはなっていない。導きの星は見えなかった。息苦しくなって窓を少し開けた。吹き込む空気はやはり冷たく、しかし息苦しさを治してくれることはなかった。
ドロイトは横目で灯葉を見た。
うつむき加減のその横顔は、一つの真実を証明していた。
灯葉君にとって、私はストレスなんだ。
ドロイトは左にハンドルを切った。
私だって、灯葉君のためになるなら…。もしかしたら、離れられる、かもしれない。想像はできないけれども。
でもあの日、灯葉君は言っていたじゃないか。
あの日。灯葉がゴミ捨て場で見つけられ、病院に運ばれた日の翌日。灯葉が老人の絵を視認し、変わり果てた姿に変貌したあの日。
「ドロイト」
灯葉は冷酷な眼差しでドロイトを見つめていた。
ドロイトは急に、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。これから発される言葉に、心が砕かれる。そんな予感がした。
「お前は」
来る。
逃げ出したい。
「これからも一緒に、俺と生きてくれるか」
ドロイトは目を見開いた。
意外だった。
プロポーズに近いその言葉に、ドロイトは面食らった。そういう意図がなかったとしても嬉しかった。ドロイトは喜んで頷いた。
あの日、灯葉君は一緒に生きようと言ってくれた。灯葉君は私と一緒に生きたいんだ。
でも、でも灯葉君にとって私は多分ストレスだ。心の動きでなんとなくわかる。
でも、やっぱり一緒に生きてくれと言うのだから、それは一緒に生きるべきだ。私はそうしたいのだから。
…少なくとも…灯葉君から、別れを告げられるまでは。
心なしか車のスピードが上がった。
未だに導きの星は見えなかった。
家についたら、ドロイトはすぐさま仕事に行った。…俺を連れて。
俺は知らなかったが、十二月二十五日はクリスマスであり、労働の日でもあるのだという。
神聖な日だというのに、それを労働で潰すとは何事だと思ったが、この世界の人々は皆納得しているらしい。
ドロイトも俺も朝から晩まで労働だ。今は二十四日なので、仕事場で一回夜を越すのだ。あまりの容赦の無さに妙な気分になった。
ドラセナは学生だ。となると、今は冬休みか。
車に乗せられ、灰色の空が広がる天国と地獄の狭間で車に揺られた。
ドロイトは何度も大丈夫かと聞いた。何を言う、勿論大丈夫だ。俺は悪魔なのだから、死ぬことはない。何度も言って聞かせた。
しかし実際やってみると、きついものがあった。
何しろ朝から晩まで働きっぱなし、しかもなんと休憩と食事なしだというのだ。
聞いたときは正気の沙汰じゃない、冗談じゃないと震えたが、初めの方は意外とやれた。やはり悪魔というのは偉大だ。しかし午後3時を過ぎた途端に、俺は何をやっているのだと悲しくなってきた。
俺が異世界に行くことさえなければ、きっと今だって母と父と…
涙でぼやけて、一回転落した。右肩が潰れた。急いで立ち上がったが、誰も心配するものはいなかった。全員が自分のことで手いっぱいで、他人を気にする余裕はなかった。
排気ガスにむせ返り、砂埃に目を痛め、すさんだ現実に身体をちぎられる労働者の姿がそこにはあった。
これが、地獄でなくてなんだというのだ?
帰りは歩きで帰った。独りで考えたかった。
蛍光灯に蛾が群がっていた。
私は車の扉を開けた。街灯に蛾がはたはたと集まっていた。あーあ、もう夜だ。一日がこれで終わってしまった。灯葉君は無事だろうか、それが心配だ。
灯葉君を喜ばせるため、通りかかった店でどら焼きを買った。吹きすさぶ風に追い立てられるように急いでマンションへと走っていった。
扉を開けると、中から暖かい光が水のように漏れ出た。「おかえり」と声がして、しがらみがふっと飛んでいった気がした。
「ただいま…あ、シチューだ」
ドロイトは手早く手を洗って、どら焼きを取り出した。
「ドラセナが作ったんだ」
「え、嘘!偉い!」
ドラセナを撫でてあげると、目を細めて猫のように嬉しがった。
「仕事大丈夫だった?怪我とかしてない?」
「うん、していない」
灯葉君はまた嘘をついた。大きい怪我ではなかったのなら、まあ良い。駄目だけど。
皆で机を囲んで、いただきますと言った。
灯葉は乳白色のシチューを艷やかに光るスプーンで滑らかにすくい、口に運んだ。一口噛み締めて、あっと悟った。
味がしない。ドラセナ、もしかしてやらかしたか。
灯葉はそのことを口に出さず、取り敢えずドラセナの反応を見守ることにした。
ドラセナはシチューを飲み込んだ。そして、誇らしげに言った。
「上手くできた」
えっ、と灯葉は言いそうになった。
灯葉は再びシチューを口にすくって食べた。やはり味がしない。俺の食べるところだけ…?
灯葉はドロイトに視線を移した。
ドロイトは、とても上品に食事をする。そういえば自分のことをグルメだ、とか言っていたな。
ふと思い出した。フルセルのレベオの家でもシチューを食べていたな。あのときは大変だった。
ドロイトは視線に気が付き、顔を上げた。少し潤んだ瞳で見つめられた。ドロイトは顔をほころばせ、言った。
「美味しい」
灯葉は目を見開いた。突如として視界が広がった気がした。
机を囲んで、食事をして、笑っている。
これ以上があるのだろうか。
灯葉は、何かが溶けていくのを感じた。
重くて、冷たい何かに光が差して、蒸気になって消えていった。
ドロイトは思わずスプーンを机の上に落としてしまった。
灯葉の心が、見る見るうちに変わっていく。噴火のような爆発的な変化が、灯葉を襲っていた。
灯葉の口は少し開いていた。
暖かい。
なんだ、これは、これはそうだ。忘れ物だ。なぜこれを忘れていた。喜びだとか笑いだとか、言葉では形容できない何かが、体温に近い安心できる何かが、灯葉の胸に湧き上がっていた。
「あぁ、良かった」
灯葉はぽつりと呟いた。
ドロイトはもう我慢できなかった。
立ち上がって、灯葉に抱きついた。灯葉はカーペットに倒れて、目を閉じた。
「今までごめんな」
ドロイトは灯葉の胸に顔を埋めたまま、何も言わなかった。ただひたすらに、喜んでいた。灯葉は言った。
「ただいま」
「…遅いよ」
ドラセナはわけも分からず、困惑しながらこの光景を見ていた。取り敢えず喜ばしいことが起こったというのはわかったので、まずはドロイトに抱きついた。
「今日は、神にまつわる日らしいですね」
ルスバは真っ白い景色の中、ニタニタと笑いながら言った。
「素晴らしい日だ、我々は祝福すべきです。…ね?」
ルスバはリビアを見た。リビアは積もった雪の上で、呆然とひざまずいていた。
何も言わず、ただ雪を身体に積もらせていた。
少し離れたところに、イミカがいた。
イミカは車椅子に座り、一人の男と笑い合っていた。
「なぜだ、イミカ」
リビアは震えていた。
その男の顔を、見てしまったのだ。
「レベオ」
「…レベオさんですね」
「…レベオ…?」
ルスバは衝撃のあまりに動けないリビアを背負って、歩き出した。
「で、どうするんですか、これから」
「…」
リビアは唇を噛み締めた。
「その絵を描いている老人を見つけろ」
「ほう」
「…こんな世界、認めない」
積もる雪を踏み潰して、彼等は彼等の道を作り出していった。