第一話
冥府に昼夜という概念はない。ここへ来てから何日が過ぎたのか、コレーはすでにわからなくなっていた。
宝石をちりばめた寝台に横たわりながら、薄暗く高い天井を見上げる。剥き出しになった岩盤から色とりどりの鉱物が煌いていた。
夜空の星々のようだと思ったが、ここは空などあるはずのない地下だ。地上で見れたのならもっと美しく見えるのだろうかと思い、コレーは小さく頭を振った。
ふと、扉が控えめに叩かれる。
「はい」
寝台から起き上がり声を返すと、金で縁取られた扉が静かに開いた。
「──ハデス様」
現れた人物を見て、コレーは一瞬息を飲む。
そこに立っていたのは、彼の冥府王ハデスであった。
艶やかな黒髪に黒い瞳。陰気にも見えるが、よくよく見ると整った顔立ち。飾りもなにもない黒衣にマント。唯一身につけている装飾品は、右手の人差し指に嵌っている指輪くらいのものだ。金の台座に赤黒く光る宝石。薄暗くてよくわからないが、たぶんあれは柘榴石だろう。
地上の神々のような光り輝かんばかりのいでたちではないが、全能神ゼウスの兄だけあって、威厳と圧を肌がびりびりするほど感じる。
ここへ来てからしばらく経つというのに未だに慣れない。悲しみにも似た色が滲む黒い瞳で見つめられると、身体中が痺れたように動けなくなるのだ。
「コレー、考えてはくれただろうか」
静かに響く声が体を震わせる。コレーは服の胸元をきつく握り締めた。
「ハデス様、何度も申し上げているとおり、わたしは后にはなれません」
震える声を懸命に押し出して、コレーは目を伏せた。ハデスの目に悲しみが増したが、コレーにそれを見る余裕はない。
「そなたは、愛の矢の戯言と思っているのだろうが、わたしは本気なのだ。強引に連れて来たことは詫びる。どうか――」
「そうではないのです、ハデス様」
ハデスの言葉を遮るように、コレーは泣きそうになりながら首を強く振った。
数か月前のことだ。
シチリア島の穏やかな気候の中、母の元で健やかに育ったコレーは、突如、黒馬が引く黄金の馬車に連れ込まれ、冥界へと攫われた。
エトナ山が噴火し地面に亀裂が入っているから、不用意に外へ出てはいけないと母デメテルに言われていた矢先。美しく咲く水仙に惹かれ、水辺へと手を差し伸べた瞬間の出来事であった。その水仙こそが冥府王の罠であったのだが、コレーが知る由もない。
華やかな見目ばかりのオリュンポスの神々。その中で、生真面目で陰気と正反対の評価を受けているのが、全能神ゼウスの兄である冥府王ハデスである。
ティターン大戦後、それぞれどこを治めるのか兄弟間で大揉めに揉めた。最終的にはくじ引きで決めたのだが、運悪く冥界を引き当てたのが長兄ハデスだ。
光り輝く天界、雄大な海界。その美しい『生』から隔離された冥界。数多の神殿で祭られ、崇められるオリュンポスの神々の中で、唯一、神殿をひとつしか持たない異例の神。不吉の象徴、名を呼ぶことも憚れる無慈悲のもの、それが冥府王ハデスである。
しかし生真面目な彼の神は、くじ引きという運任せの結果に異を唱えることもなく、粛々と冥界を治め死者たちを管理し続けてきた。
そんな、浮いた話がほぼ皆無である冥府王に、愛の神の矢が当たってしまったのは不運だけで片付けられないだろう。
愛の神の矢を受けたものは、いかなる神であろうと恋に落ちる。
エトナ山噴火による亀裂を確認しに来たハデスは、そのとき、美しく無垢な乙女に恋心を抱いたのであった。
矢の力で増幅された恋心は、堅物を暴走させるにはおあつらえ向きだ。その衝動が、コレー誘拐という騒動を招いたのである。
コレーが目を伏せたまま唇を噛み締めていると、扉を叩く音が聞こえた。はっと顔を上げれば、ハデスも扉を振り返っている。
「失礼いたします、ハデス様。客人がお見えです。謁見の間へおいでください」
「──わかった」
部下の言葉に静かな声で応えたハデスは、再びコレーを見遣った。
愁いを帯びた黒い瞳が、コレーの身体中を貫いていく。己を叱咤しなければ、あの瞳に引き寄せられてしまいそうだ。
一瞬右手を上げかけたハデスは、しばし躊躇ったあと、振り切るように踵を返した。
静かに扉が締められる。地下に響く足音が次第に小さくなっていった。